第65話 マメタとおでかけ


 深夜二時くらいの出来事だった。

 マメタは寝ている宿毛湊すくもみなとの頬をぺちぺち叩き、眠りをさました。


「スクモさんスクモさんっ、マメタとおでかけしませんか~っ?」


 ちゃいろい毛玉はそう言ってお尻をフリフリしている。


「…………おでかけ?」

「マメタの故郷のお山で、豆狸のあかちゃんが生まれたんですっ。スクモさんもいっしょに見にいきましょうよう」

「まめだぬきのあかちゃん………?」

「あかちゃんかわいいですよ~っ」


 宿毛湊は寝起きの働かない頭でぼんやりと状況を整理しようとする。でも、できなかった。カフェインか、タバコが必要だったが、マメタはすぐに決めてほしそうである。寝室の入口でお尻をフリフリして待っている。


「…………いく。手土産は日本酒でいいか?」

「長老がよろこぶとおもいます~」


 よくわからない状況ながら、『豆狸の赤ちゃん』というワードに心惹かれて、宿毛湊は寝間着替わりのスウェット姿で自宅を出た。

 闇夜を先導するマメタの尻を追ってゆくと、ものの十分かそこらで見慣れた住宅街の風景が途切れ、足が柔らかい土を踏みしめた。周囲に濃い闇夜と緑のにおいが立ち込めている。

 夢か現実かも定かでないままに傾斜を登っていくと、大きな木の根元に豆狸たちが集まっているのが見えた。

 おめでとう、と寿ぐ声の中心で、豆狸の母親があかちゃんをあやしていた。

 小指の先ほどの大きさしかない、まだ目も明かない、タヌキ模様も生えそろわない子どもが三匹、くうくう寝息を立てている。灯りのない山の中であるはずなのに、あかちゃんはほんわり輝いていて、ミルクっぽいまろやかなにおいがする。

 なんとも幸福な心地でマメダヌキのあかちゃん見物をし、そのあとは長老の酒盛りにつきあい、夜明け前に自宅にもどってすぐ深い眠りについてしまった。

 目覚めた後は、あれは夢だったのか現実だったのか、あやふやだ。マメタに聞こうにも、夜更かしした毛玉はタオルケットに仰向けになりいびきをかいている。

 しかし思い出してみるとなんとも幸福な心地がして、狩人は問い詰めるのをやめた。夢でも現実でもどちらでもいい気がしたからだ。


 さらに次の日の晩のことである。


 その日は屋外での現場が立て続きになり、狩人は汗だくで帰宅することになった。

 宿毛湊が借りている家は事故物件である。

 具体的にいうと、風呂場に人魚が出るのである。

 なので基本的にはシャワーしか使えず、浴槽はたまに人魚が出ない時しか使えない。なにもかもが人魚の気分次第である。

 そうはいっても借り主は日本人なので、どうしても風呂に肩まで浸かりたい日がある。

 一縷の望みをかけて浴槽にお湯をためた。

 だが、ダメだった。

 がっかりして溜息を吐いたそのとき、マメタが風呂場にやってきた。


「スクモさん! マメタとおでかけしましょうよ! お風呂屋さんにいきましょう、今日はそこでばんごはんも済ませちゃいましょうよ~」

「風呂屋……? このあたりに銭湯か何かあったかな……」

「ぼくたち専用のお風呂屋さんなんです! マメタはいい子なので、スクモさんも入れてもらえるよう番台さんに頼んであげます!」


 ふふん、といったふうに鼻をぴんと高く上げるマメタに連れられ、宿毛湊は誘われるまま外出した。

 やはり、住宅街を少し行くと周囲を取り巻く空気ががらりと変わった。

 どこからか三味線しゃみせんや太鼓の音が聞こえてくる。

 気がつくと橋のたもとにいた。

 赤い欄干のついた橋を渡ってゆくと、古い湯屋の立派な門構えがある。

 大きな提灯の掲げられた玄関をくぐるとすぐ番台があり、首の長い……ホースのように長い、ろくろ首の男が、尾が二又に分かれた猫又から入浴料を受け取っていた。

 典型的な古典妖怪である猫又やろくろ首の完全な姿を、宿毛湊ははじめて見た。

 そこは怪異だけが集う、怪異のための銭湯であるらしかった。

 天狗の結婚式と似たような状況だが、彼らはここでは正体を偽っていない。人間の姿に化けてもいない。古文書や図鑑にある通りの姿で、思い思いに過ごしている。

 やつか町にこんなところがあったのかと驚き戸惑いながらも、百鬼夜行とともに汗を流し、二階の休憩所で食事もして、満足げなマメタと一緒に自宅にもどった。


「とーっても楽しかったですね、スクモさん! またあしたもマメタとお出かけしましょうね」


 湯屋を出てからも全てが夢見心地で、大した考えもなく、狩人は「うん」と答えた。自宅に戻ると強い疲労感に襲われて、倒れるように寝込んだ。

 翌朝、目を覚ますと、泥濘でいねいのなかにいるような感覚に全身が覆われていた。

 ぐっすり眠ったはずなのに、強い疲労感が残っている。少し動くだけでも億劫だ。手足は凍えたように冷たく、目を開けているはずなのに現実感がない。

 こんな体調では仕事を休むしかない。電話を探して一階に降りたとき、ちょうどいいタイミングで呼び出し音が鳴った。

 スマートフォンではなく固定電話のほうだ。

 階段を降りるだけで体力のほとんどを失っていたが、なんとかうように廊下に向かう。呼び出し音が反響し、頭が割れそうだ。

 やけに古びた黒電話の重たい受話器を持ち上げると、女性の声が聞こえた。

 

「すくもくん? わたしだよ」


 誰だろう、と狩人は考える。懐かしい声なような気がする。


「きみ、アブないよ。人間が行っちゃいけないとこにたくさん入ったからだね。いまひとり? 的矢は?」

「……いません、ここには」

「もーっ、あいつ、いてほしいときにいないのよね。まあいいや、あとで連絡しとく。わたしのお守り、まだもってるでしょう」

「お守り……」

「すぐ近くにあるから、思い出して」


 受話器を手にしたまま、電話台の引き出しを開けた。すると中から小さな袱紗ふくさが転がり出した。

 茜色の地のそれに、やはり見覚えがある。

 どこかで……。

 しかしそれがどこなのか、思い出すほど記憶を深く掘ることが、今の彼にはできなかった。

 袱紗を開くと、中には古い糸切鋏いときりばさみが入っていた。


「すくもくん、ゴメンだけど、ちょっとのあいだ、マメタとの縁を切らせてもらうね」


 それきり、記憶がない。

 気がついたとき、宿毛湊は廊下に倒れていて七尾支部長が必死に名前を呼んでいた。


「おい、宿毛、しっかりしろ!」

「支部長、なぜここに」

「何故もなにも、的矢が呼んだんだよ」


 反対側をみると、今にも泣き出しそうな顔をした的矢樹がいた。


「俺……俺、あかね先輩に呼ばれたんです~」


 宿毛湊はそれで納得した。

 不思議そうな顔をしている七尾支部長に説明する。


「組合に入ったばかりのとき、俺たちの指導に当たってくれた先輩狩人です」


 宿毛湊はあたりを見回した。

 ようやく体の感覚が戻ってくると、手に鋏を握っているのがみえた。

 組合本部での研修を終えたとき、記念に渡されたものだった。

 なぜ鋏なのか不思議に思ったのを覚えている。

 居間の入口あたりから、マメタが心配そうにじーっとこちらを見ている。


「マメタ、俺はもう大丈夫だ」


 そう言って声をかけると、マメタはその場でてちてち円を描くように回転し、走り去った。それから三日三晩、マメタは言葉を忘れたように話さなくなり、四日目の朝に元にもどった。


 それ以来、マメタが宿毛湊を不思議なおでかけに誘うことはなくなった。


 ちなみに、宿毛湊の家に固定電話は引かれていない。

 前の住人の電話機があっただろう場所に、台が置かれていただろうかすかなへこみ跡が残っているだけである。

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