第62話 諫早さくらと三枚のおふだ(3)



 海開丸と海仕舞丸の兄弟がやつか町にやって来たのはおよそ三百年前のことである。二人はもともと、旅の陰陽師が連れて来た二頭の狼の子だった。

 陰陽師はもてなしを受け、その礼として二頭は山に置いてゆかれた。

 それが山を守るようになり、長じて天狗となったと言われている。もともとが狼であるので、正確には狗賓ぐひんということになるが、やつか町の天狗といったら海開丸うみびらきまる海仕舞丸うみじまいまるのことである。

 この兄弟は山奥で小料理屋を営んでいたが、知っての通り兄弟仲が悪く、海仕舞丸が山を飛び出して行く形で決裂した。

 とはいえ仲が悪いと思っているのは海仕舞丸だけかもしれない。

 弟から三日後に結婚式を行うという報せを受けた海開丸は厨房から、作務衣姿のまま飛び出してやってきた。

 どうみても齢八十を越えた老人の姿である海仕舞丸とちがい、海開丸は背が高くいつまでたっても働き盛りの五十代といった風体で、座敷に座って向き合うとどちらが兄か弟かわからない。そこのところも、海仕舞丸のかんに障るところだった。


「そうか……お前が結婚か。お相手はどんな方なんだ、海仕舞丸」

「どのような者でも兄者には関係なかろう!」

「そうかそうか、まあそりゃそうだ。めでたいことだものな」


 不機嫌そうに怒鳴った弟にも、兄は機嫌を悪くすることなくほがらかに相好をくずしている。海仕舞丸としては、突然の結婚話に多少なりとも動じると思っていただけに、なんだか出端をくじかれるようだった。


「兄者、わしも所帯を持つのじゃ。これで一人前と認めてもらわねば、嫁にも、ほかのあやかしどもに示しがつかん。かくなる上は、店か、それとも天狗の秘宝をゆずってもらわねばならんと思うのじゃ」


 これでどうだ、と弟はふんぞり返った。

 天狗の秘宝というのは、自在に風を起こすことのできるふしぎな天狗の羽団扇のことである。実に天狗らしい逸品で、山に一枚しかない秘宝である。

 店にしても、もとはあばら家からはじめ、弟が不在のあいだに兄が苦心して立派な料亭にまで育てあげたのである。

 突然帰ってきた弟が、店の権利か、秘宝か、どちらかがほしいと言いだしたら、さしもの海開丸も戸惑うだろう。

 しかし、弟の予測を全部裏切り、兄は「おう、好きな方を持ってゆけ。両方でもいいぞ!」とか言うではないか。

 さすがに面食らった海仕舞丸は、目を真ん丸にして言葉をうしなった。


「団扇のことは、お前が言いださんでも、もともと祝いの品としてお前にゆずるつもりであった」

「しかし――――、正気か兄者。店をゆずるということは、店をゆずるということなのだぞ?」

「おうとも。お前のことだから器量よしの嫁だろう。美人女将をやってもろうて、お前が厨房を仕切れば暖簾も安泰というもの。何、わしのことは気にするな。この店がなくとも、麓の街で小料理屋でも開けばよい。それより、


 海開丸は帽子を脱ぎ、畳に両手を突いて頭を下げる。


「あやかしとして長く生き、楽しいことも面白いものも一通りのものは味わいつくしたと思うておったが……。このとしにしてまだまだ先の楽しみがあるとはな」


 そう言って海開丸は厨房に引き返し、親密な業者から立派な鯛を取り寄せると、みずから焼き場に立って祝い鯛の支度を始めたのである。

 海開丸は、三百年前からこのような気性の妖物であった。

 海仕舞丸はというと、腰が砕けたようになって座布団から立ち上がれなかった。

 今回の嫁取りは嫁がほしかったわけでも、店がほしかったわけでも、団扇がほしかったわけでもない。ただひたすらに海開丸がくやしがり、取り乱すところが見たかっただけなのである。

 思惑が全部外れてしまい、傷心の海仕舞丸はまた二、三歳年老いたように見えた。

 タンクトップを着た天狗リーダーに支えられ、料亭の自宅部分に増設した御殿に息も絶え絶えになって戻ると、そこには目も当てられない光景が待ち構えていた。


「ほーほっほっほ!」


 座敷牢のなかで古典的な高笑いをしているのは、怪異コンサルタントに勧められ、嫁としてさらってきた魔女、諫早さくらである。

 座敷牢のなかには、いつの間にか人をダメにするクッションや大型の薄型テレビ、品薄のゲーム機、ジュースサーバーなどが運び入れられており、周囲には若い天狗たちが侍ってマッサージを行ったり、魔女の手足の爪をやすりで整え、ネイルオイルを塗ったりしている。

 海仕舞丸が呆然としている間にも、座敷牢には次々に、若い天狗たちによって貢物が運ばれてくる。


「奥方様が食べたいと仰っていたピエールエルメのマカロンでございますっ」

「うむ、くるしゅうない」

「ジャン・ポール・エヴァンの限定ショコラです!」

「まあまあね」

「デパートで化粧品を買ってきました!」

「なにこれ、あたしが買って来いって言ったのはアイライナーよ! アイブロウとアイライナーの違いもわかんないの!? さっさと買い直してきて!」


 それだけで数千円はする化粧品の小さな箱を下っ端天狗に投げつける。

 下っ端天狗は泣きながら、座敷牢を出ていった。

 若い天狗は奴隷のように扱われても命令をこなすのに必死なようすで、海仕舞丸とすれ違っても挨拶すらしない。

 さらってきた当初は大人しく見えた諫早さくらは、たった一日で天狗たちを従え、この御殿の女王のように振舞っていた。

 その態度のふてぶてしさといったら、太りきって自らの足で歩くことを忘れた豚に近い。


「貴様……! わしの天狗たちを何だと思っておるのだ!」

「あら、海仕舞丸じゃない。何だとって……。あんたがあたしを勝手にさらってきたんだから、あたしを快適にもてなすのはそっちの仕事でしょう? 思ったよりもここの生活、悪くないわ。食事も美味しいしね」

「貴様!」


 海仕舞丸が真っ赤になって拳を振り上げると、その行く手を若い天狗たちが遮った。


「海仕舞丸様、奥方様はひとり嫁入りされて、味方はお狸様いっぴき。不安な身の上なのですよ!」

「そうなの、あたしとーっても不安なの~。これからどうなるのかしら……?」


 さくらはしなを作って瞳を潤ませる。

 スカートのスリットからちらりと太腿をのぞかせると、それだけで周囲の天狗たちが赤面する。


「大丈夫です、奥方様。我らはみんな、奥方様の味方です!」

「ほんとに? 海仕舞丸さまってギスギスしてて声が大きくてこわいわよね。いじわるされない?」

「いじわるなんかさせませんとも!」


 さくらを取り囲んでいる天狗たちの、海仕舞丸へ向ける視線はなにやら冷たい。

 彼らはさくらのしょうもない色仕掛けに完全に篭絡されており、みんな「奥方様のことが好き」だし何なら「奥方様は俺の事が好きだ」と勘違いしているため、さくらと無理やり結婚しようとしている海仕舞丸のことを敵だと思いつつあるのだ。

 なんなら、結婚式なんて行われないほうがいい、さくらと駆け落ちしたい、くらいのことは考えはじめていた。

 いくら本物の天狗とはいえ、ムキムキの若い男たちに囲まれると、海仕舞丸もいささか分が悪い。


「くっ……! 結婚式は必ず行うからな、覚えていろ!」


 そう言って自室に引き返すが、途端に虚しい気持ちが襲ってきた。

 このまま結婚式が行われたとして、いったい海仕舞丸にどんなメリットがあるのだろう。兄は弟の結婚を心の底から喜んで、あっさりと身を引いてしまったし、このままいくと海仕舞丸の元に残るのは傲慢そのものの魔女の嫁と、今時使いどころのない羽団扇と、慣れない料亭の仕事だけである。しかも、はじめは若くて美しい女子おなごだと思ったが、よくみると年増である。

 しかし、招待客に報せを出してしまった以上、いまさら結婚式を取りやめることはできない。

 何もかもが思い通りにならない苦しさに、ほんとうに心臓が痛みだす。

 自室には、怪異コンサルタントの与那覇よなはがシャンパンを手に待ち構えていた。


「海仕舞丸様、ご婚約おめでとうございます。心ばかりではございますが、お祝いの品をお持ちいたしました」

「与那覇か……。何故あのような女を勧めたのだ。わしはこのような結婚、望んではおらぬ」

「何を仰います。女性というのは、はじめはあのようにわがままでも、初夜がすめば大人しくなります。古来よりそういうものと決まっているのです」

「そうならなければどうするのだ」

「そうならなければ、わたしがとも。海仕舞丸様はいま、婚礼前でナーバスになっていらっしゃるようですね。さあ、ひとくちこれを飲んでごらんなさい。楽になりますよ」


 与那覇はそう言ってシャンパングラスを差し出した。

 言われるままにごくりと中身を飲み干すと、胸を押しつぶしていた苦しみはさっぱりと消えてなくなった。

 こうして二日後の結婚式は予定通り執り行われることになったのである。





 結婚式まで怪異退治組合も手をこまねいていたわけではない。

 やつかのエースたちが下手に動けず、数でも圧倒的に不利であっても、街には普段は一般人として溶け込んでいる兼業狩人たちがいる。

 彼らはこっそりと天狗たちの動向を監視しており、マメタと諫早さくら奪還作戦の計画は水面下で着々と練られていたのである。

 とはいえ、海仕舞丸は結婚式の日までラーメン屋にも居酒屋にも姿を現さず、腹心の部下とともに天狗山にこもったきりである。たまに下っ端天狗たちが山から下りてきては、デパートやコスメショップ、高級ランジェリー店をうろつきまわり、あまりの場違いさに泣きながら帰っていくという奇怪な動きをみせていたが、本丸である海仕舞丸が出てこないのではどうしようもない。

 結局、結婚式当日に七尾支部長と的矢樹が挨拶がてら海開丸と会って、それとなく諫早さくらの居場所を聞き出し、宿毛湊が乗りこんで救出する電撃作戦となった。

 当日の会場は近隣の怪異や妖怪が勢ぞろいした、さながら百鬼夜行の様相をていしていた。


「本日は大変、お日柄もよく……、ご無沙汰しておりますな、海開丸殿」

「これはこれは、七尾支部長。こちらこそご無沙汰しております」


 定番の挨拶もそこそこに、七尾支部長は海開丸をつかまえた。

 二人は客間で話し込み、的矢は廊下で待機する。

 障子戸のむこうから話声が聞こえてくる。


「早速主賓のお二人にご挨拶申し上げたいんですがねえ」

「いやあ、じつは、私もまだ花嫁にはお会いできてないんですよ」


 七尾支部長が諫早さくらの行方を探る予定でいたが、海開丸も知らないとなると手詰まりである。

 料亭は広く、座敷がいくつもあって奥の生活スペースも含めるとかなり入り組んだ構造だ。手掛かりなしに探し出そうとしても、海仕舞丸の手下に見つかってしまうだろう。

 そのときに的矢がいる庭に面した広縁に、思いがけない人物が現れた。

 手下を引き連れた顔色の悪い老人――海仕舞丸である。

 ぞろぞろと付き従う手下の天狗の中に諫早さくらの姿はないが、その最後列に並んだ人物に見覚えがあった。

 ひどく中性的な人物が、アタッシュケースを携えてやってくる。

 怪異コンサルタントの与那覇である。

 与那覇は素知らぬ顔でいる的矢樹の前で立ち止まり、声をかけた。


「お久しぶりです。あかねさんはお元気ですか」

「いますぐ消えろ。それとも消されたいんですか」

「あら……、昔馴染にけっこうなご挨拶ですね。諫早さくらなら西奥の座敷牢にいますよ。見張りは二人」


 日頃は敵意とは無縁の狩人の顔からは、感情らしきものが一切消えていた。


「これでも悪いとは思っているんです。諫早さくらとが友人どうしとは知りませんでしたし、東京から戻っていることも調べてみてはじめて知ったんですから。でもまあ、こちらも商売ですから、初回サービスということで」


 的矢が顔を上げると、そこには逆光に照らされ、表情の見えない不気味な人影が立っていた。的矢樹の目を通しても、姿形は人のように見える。だが人間ではない、という直観のようなものがあった。


「それでは」


 与那覇は結婚式会場には出ずに、料亭から出ていった。

 それを見届け、待機している宿毛湊に連絡を入れる。

 的矢は組合専用の通話アプリに『与那覇』の名前を入力したあと、考えた末に消したのだった。

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