第61話 諫早さくらと三枚のおふだ(2)


 諫早いさはやさくらは夢を見ていた。

 あれは……中学二年生のときの夢だ。


 小学六年生で学校教育からの離脱を試みたさくらであったが、中学に上がり、給食アンコ事件のほとぼりが冷めてくると「もう一度、戻ってみてもいいかな」という気がむくむくと湧いてきた。両手をあげて大喜びする両親をみていると誇らしい気もしたし、そういうわけで一時期中学校というものに顔をだしてみたのである。


 長い不登校期間を経てのカムバックは案外うまくいった。


 クラスメイトたちはさくらがこれまで学校に出てこなかったことなど気にもしないで、まるで転校生が来たかのように歓迎してくれ、あっという間に友達ができた。クラス担任は中学生活に不慣れなさくらによく気を配ってくれて、思えば、さくらが安心して戻ってこれるよう事前にいろいろと手配してくれていたのだろう。

 それが中学二年生の一学期の終わりのことで、間もなく夏休みになった。

 夏休みの間、さくらと親しくなった女子生徒が、柔道の大会に誘ってくれるというイベントが起きた。スポーツはおろか武道など好きでもなんでもないが、どうやらクラスの男子生徒が大会に出場しているらしいのだ。

 いやでもなんでも復帰したからには、人づきあい的なイベントもこなさなければならないだろう、とさくらも重い腰を上げた。

 このときさくらはさくらなりに人間社会に馴染もうとしていたし、なんなら「こうやって私も真人間になっちゃうのかな」くらいには思っていた。

 そして夏休みの終わりの登校日、事件は起きた。

 放課後、あまり名前もよく知らない男子生徒がさくらのところに来た。


「一緒に帰ろう」


 突然そう言われて、さくらはぼんやり男子生徒を見返した。中学生のわりに体格がよく、ほんのりゴリラに似ている。にきび面だ。

 特徴は多いのに、どうしても名前が思い出せない。

 男子生徒は状況をつかめてないさくらを教室から連れ出すと、恥ずかしそうな顔で右の手のひらを差し出した。

 さくらは全く意味不明で、「は?」と返した。

 すると男子生徒は、顔を赤らめてこう言うのだった。


「だから……さ、お前、大会のとき、俺のこと応援しに来てただろ? その……つまり、好きなんだろ? 俺のこと」


 そう……。男子生徒は『大会に来てくれたから』というほんの些細な理由でさくらのことがちょっと好きになってしまい、夏休み期間中にどこをどうこじらせたのか、『さくらも俺のことが好き』という妄想に支配されてしまっていたのである。

 さくらは驚愕きょうがくのあまり目を見開いた。これが漫画なら、背景にすさまじい雷のフラッシュが描き込まれていたことだろう。

 当時の衝撃を思い出し、現在時点の諫早さくらは目を覚ました。


「ううっ…………!」


 心臓が激しく早鐘はやがねを打っている。

 当時の状況を思い出し、嫌さのあまりに、だ。

 あのあと、さくらは追いすがる男子生徒を完全拒否し「お前なんか知らねー! ニキビブツブツ野郎!」と言い捨てて自宅に逃げ戻り、また元の引きこもり生活に戻ってしまったのである。


「久しぶりに嫌な夢みたわね…………」


 緊張で強張る体を無理やり起き上がらせると、見慣れない風景が目に入った。

 そこはどことも知れぬ和室の一室である。


「え、何?」


 青々とした畳、清らかな光が射しこむ障子戸、ふかふかの干したてお布団。

 何やらどこぞの高級旅館のような部屋に、さくらは外行きの服装のまま寝かされていた。探しても、ガラケーや鞄は見当たらなかった。体が痛く、二日酔いの朝みたいに頭が朦朧もうろうとしているのは、慣れない畳の上で寝込んだせいだけではなかった。


「確か……昨日は……あたし、町に出かけて……」


 痛む頭を押さえながら、記憶をたどっていく。

 引きこもり魔女は昨日めずらしく自らの意志と足で部屋から出た。というのも、アパート海風の郵便受けに『ラーメン無料』の招待券が入っていたからである。

 招待券は二枚あったので、さくらはなんとなく狩人の宿毛湊すくもみなとに連絡した。

 今夏は海水浴やお盆など、何かにつけ世話になることが多かった。

 さくらなりの恩返しのつもりだったのだが、電話をかけているうちに「受けた恩を無料の招待券で返すのか?」と文句をいう湊の顔が浮かんできて、やめた。

 そのかわりに遊びに出ていたマメタを捕まえて、さくらは意気揚々とラーメン屋に出かけたのである。

 その後の記憶がごっそり抜けている。


「いったいラーメン屋で何が……? というか、マメタロウは?」


 勢いよく掛け布団をめくると、子だぬきが一匹、ごろりと転がり出てきた。

 その姿は宿毛さんちのしあわせな豆だぬきではない……。

 モノホンの子だぬきである。つまり、まだ目の周りのタヌキ模様もろくすっぽ整わぬ子熊によく似たたぬきの子の事である。

 繁殖シーズンの動物園にいそうな幼獣に、妖怪らしいデフォルメはみじんもない。

 子だぬきはさくらに何とも言えない目を向けると「くぅ~ん」と切なげに鳴いた。


「マメタ……!? あんた、マメタなの? どうしちゃったってのよ!?」

「くうぅ~~~~ん……」

「うそでしょ、言葉を忘れちゃったの!?」


 魔女は気がついた。マメタの腹には熨斗紙のしがみが巻かれており、「引き出物」と書かれていた。

 この紙がマメタから、妖怪としての化ける力を奪っているのだ。


「なんてひどいことを……!」


 さくらが怒りに打ち震えていると、ふすまが開いた。


「起きたようだな」


 そう言って現れたのは、鼻の長い天狗面をつけた、白いタンクトップ姿でムキムキな若い男であった。


「あんた、何者なの!?」

「ここは天狗山にある海仕舞うみじまい様のお屋敷だ。お前は三日後、海仕舞丸様と結婚するのだ」

「け…………結婚…………? ちょっと、どういうことよそれ!」

「騒々しい女だ。説明すべきことなど他にはない。朝餉を用意したから食え」


 乱暴な手つきで膳が差し出される。

 漆器に蒔絵が施された豪華な盆に、いいにおいがする料理が並べられている。

 しかし、流石にこんな訳の分からない状況でのんびり食事という気分にはなれない。


「馬鹿にしないで!」


 ふりはらおうとしたさくらの手が、お盆を支える若い天狗の手の甲に軽く触れた。

 その瞬間、天狗がびくりと動揺し、吸い物の蓋が跳ねて中身がこぼれた。


「あっ……」


 天狗面からはみ出した耳が一瞬で赤く染まる。

 若い天狗は盆を床に置くと、そそくさと部屋を出て行く。


「おいコラ、ちょっと待て!」


 ふすまを開けて外に出ると、そこには鉄格子が降りていた。

 座敷牢である。

 朝食係の天狗は入口に鍵をかけると、あわただしく廊下の奥へと走り去った。

 そして、廊下の先の見張りの天狗と話すヒソヒソ声が聞こえてきた。


「ど、どうしよ……。事故って奥様の手に触っちゃった……」

「えーっ、マジでマジで? どんなだった!?」

「女の人の手に触ったの初めてだけど、スベスベで、柔らかかった」

「マジかよ……。いいなぁ~っ……」

「俺、奥様のことちょっと好きかも……」

「嘘……オレもだ……。寝顔かわいいし、いいにおいするよな……」


 さくらは自分の手のひらを見つめた。

 ゲームのコントローラーを握りすぎて、指の皮がむけた荒れた手だ。めんどくさいし、すぐ無くしてしまうのでハンドクリームとも縁がない。

 服のにおいをかいだが、一日中着っぱなしだったワンピースは少し汗臭い。香水のにおいとまじって、なんともいえず気持ち悪いにおいだ。

 自分で言うのもなんだが、さくらは化粧で誤魔化しているだけで、女性らしさからはかけ離れた存在だ。

 しかし天狗山の天狗たちは、天狗道を習得するため、一年のほとんどを山に籠り、修行に明け暮れて過ごす。全員が年若い男性であり、女性に触れることは皆無といっていい。彼らは相手が女性なら、たとえ70歳や80歳のおばあさんだったとしても、ちょっと好きになってしまうのだ。

 つまり、圧倒的に純粋なのだ。ウブなのだ。


 さくらは柔道部の太田君おおたくんのことを思い出した。


 夢の中に登場した、中学時代の同級生のことである。

 とんでもない勘違い野郎だったが、ちょっとした胸の高鳴りを恋と勘違いするくらいには純心であった。

 さくらは思った。


 これは利用できる。


 邪悪な思惑が魔女の心に芽生えた。


「くうぃ~~~~~ん(助けてすくもさん、このままじゃマメタ、狸鍋にされちゃうよ~~)!」


 純粋に助けを求めているのは化け力を奪われヘソ天で寝そべるほかないマメタだけであった。





 海仕舞丸からの結婚式の招待状は七尾ななお支部長と的矢樹まとやいつき宛に送られてきていた。

 結婚式は三日後、会場は天狗山にある料亭『船泊ふなどまり』である。

 この料亭は天狗兄弟の兄のほう、海開丸うみびらきまるが切り盛りする老舗しにせであった。

 天狗系ラーメン男道とおなじく、板長から下足番まで、海開丸の弟子の天狗たちである。

 

「上手いこと先手を打たれちまったな……」


 支部長は珍しく怒っているふうだ。

 宿毛湊の留守電には、諫早さくらからの中途半端な連絡が入っていた。さくらはラーメン男道に行くと言い残していたが、本日、ラーメン男道は店休日である。

 そもそもラーメン屋の無料招待券が配られたという話は他にひとつもなかった。


「なんとなく嫌な予感がして、店に向かうと、これが落ちていたんです」


 宿毛湊が差し出したのは、マメタが背負っていた風呂敷ふろしきである。

 マメタがお出かけのときに背負う風呂敷は笠利かさりのおばあさんが手縫いしてくれた特別製だ。マメタにかぎって、そんなに大切な風呂敷を落としたままどこかに行ってしまうなど考えられない。

 すぐにでも天狗山に事の次第を問いただしに行きたいところではあるが、そうもいかない事情があった。それが結婚式の招待状だ。

 七尾支部長は難しい顔だ。


「狐や狸連中と同じく、天狗には天狗の面子ってもんがあるからな……。海開丸と俺は旧知の仲ではあるけどよ、うかつに弟の婚儀に口出しをすりゃ、どう転ぶかはわからん。そうでなくとも組合が天狗の義理ごとに物言いをつけたと思われたら後がめんどうだ」


 天狗たちは正式な客として七尾支部長と的矢を招待している。

 あくまでも筋は通しているつもりなのだ。それを、海仕舞丸が諫早さくらを誘拐したという確たる証拠もなく反対しようものなら、天狗たちの機嫌を損ねてしまうことになりかねない。

 天狗一派はやたらに数が多く、正体を隠してラーメン屋や居酒屋の店員となって街に潜んでいる。もしも敵対関係になってしまったら、今後の活動の支障になることは目に見えていた。

 的矢樹が片手を上げる。


「しかも、やつかに来て日が浅い僕の情報まで相手に渡ってるってことですよね、これ……。かなり周到じゃないですか?」

「確かにな。組合だって馬鹿じゃねえんだ。しかも東京本部が所属狩人の情報をやすやすと天狗に渡すとは思えん。こりゃどうも、お気楽な海仕舞丸の手口とは思えねえなあ」

「僕らの情報が相手に筒抜けなんだとしたら、どうして宿毛先輩には招待状が来なかったんでしょうか」

「単純に宿毛がいまは正規の狩人じゃないからか、脅威ではないという判断かもな。経歴や能力だけみれば、天狗が嫌いそうなのは的矢、お前だ。が……あるいは、もっと別の理由かもしれん。お前ら、怪異コンサルタントの与那覇よなはって知ってるか」


 その名前を出した瞬間、事務所には妙な空気が漂った。

 宿毛湊も的矢樹も反応しなかったが、それはどこかわざとらしかった。

 というのも、与那覇の名前が出たとたん、宿毛が的矢にサインを送ったことに相模くんは気がついていた。

 宿毛がさり気なく襟足を触ったときに小指と薬指を折りたたみ、それをちらりと目にした的矢が手にしたボールペンを二度ノックした。

 それで二人は何か秘密の会話をしたのだと思う。

 会話を伏せたのはもちろん、支部長の目を気にする必要があったからだろう。

 こんなことは、いままではなかった。

 ふたりは東京時代のバディで特に親密ではあったが、七尾支部長に対しては信頼し、胸を開いていたはずだ。


「怪異コンサルタントってなんですか?」


 妙な胸騒ぎがして、居心地の悪い沈黙に耐えられずに相模くんが訊ねる。


「怪異専門のアドバイザーだ。組合と同じく怪異を専門に扱うが、呪術や魔術への対策が主な仕事になる」


 答える宿毛湊の声はどこか素っ気ない。


「海仕舞丸がこのコンサルタントを引き込んでるって噂がある。情報が抜けてるのもそのせいかもしれん、十分注意しろよ」


 七尾支部長はそう言って話を締めたが、会議室に漂った妙な空気を拭い去ることはできなかった。

 諫早さくらとマメタの救出作戦にしても、支部長と的矢樹が押さえられてしまい、動ける狩人は実質、宿毛湊ひとりきりだ。

 うまく言葉にできない不安を抱えたまま、結婚式の日を待つしかなかった。

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