第52話 相模くんと元カノの生霊



 その夜、相模さがみくんは小さいおじさんと一緒にナイター中継を見ていた。

 おじさんはどうやら野球好きのようだ。

 豆狸まめだぬきとちがって言葉を話すことはないが、野球がある日はリモコンを抱えて運んできて、テレビをつけてくれとせがむ。

 これまで野球にはみじんも興味がなかった相模くんではあるが、小さなおじさんと暮らすうちにすっかりルールを把握してしまった。

 小さなおじさんとの共同生活は支部長とのすれ違いから生まれたものだが、悔しいことに、彼はこの生活に慣れ始めてきていた。あまり興味のなかったスポーツ中継も、おじさんが喜んだり舌打ちしたり、座布団を投げたりするのを横から眺めていると、不思議と面白いと思えてくる。

 ハムスターを観察している感覚とでもいうのだろうか。

 おじさんは相模くんみずからったアロハシャツを着て、鬼ころしをお人形遊びに使う小さなカップにくみ、ちぎったスルメをかじりながら、お気に入りの投手の応援している。


 そのとき――。

 相模くんは背後に強い視線を感じた。


 あまりにもハッキリとした気配だった。

 相模くんは急いで振り返るが、そこはいつものアパートのリビングだった。

 そっと玄関の様子をうかがう。

 鍵は閉まったままだ。ドアチェーンもついている。誰かが入り込んだとか、そういうことは無さそうだ。


「なんだろ……? まあいいか……」


 しかし事件はそのあと、入浴中に起きた。

 スポーツ観戦もそこそこにシャンプーを泡立てて頭を洗い、一日の疲れといっしょに流したそのとき。

 彼はまた正体不明の視線を背中に感じた。

 まるで安物のホラー映画の展開だ。

 顔に流れた泡と湯とを手でぬぐい、おそるおそる鏡を覗き込む。

 湯気のくもりで背後がよく見えない。

 濡れた手で曇りを取り除くと、そこには……。


「うわっ!」


 思わず叫んだ。

 そこには恨めしげな顔でこっちを見つめる女がいた。

 しかもどことなく見覚えがある。セミロングの髪、サマーニットとスカートというきれいめフェミニンな服装、大学時代にアルバイト代をつぎ込んで買ったと自慢していたピンクダイヤモンドの一粒ネックレス。

 元カノだった。





「元カノの生霊いきりょう?」


 宿毛湊すくもみなとは目を丸くした。


「はい、うちのアパートに出たんです。恨めしげにこっちを見てて……」

「それで何故俺のところに」


 彼は出窓の床板に腰かけて、うちわで顔をあおいでいた。

 相模くんは青い顔で正座している。

 お互い風呂上りだったらしい。どちらも髪がれたままだった。


「おくつろぎのところ申し訳ございません……。でも今夜、的矢さんは他の支部からの応援要請が入って出張中だし、支部長に連絡すると元カノのこと根ほり葉ほり聞かれるのが目に見えてて……」

「的矢がいれば話は早かったんですけどね。対処するとなると、俺も根ほり葉ほり聞くことになりますよ」

「くっ……」


 相模くんは胸にマメタと小さなおじさんを抱いたまま、座布団の上に頭から崩れ落ちた。


「で、どうして元カノの生霊が相模さんのところに? 何か恨まれるような覚えでもあるんですか」

「いや、それが……全く身に覚えがないんですよ」

「ほう。生霊の相談に来る男性は大体そう言いますが……」


 生霊というのは、普通の霊とはちがう。恨みや憎しみといった負の感情が強すぎて、まだ生きている人間から魂が抜け出してしまった状態がそれだ。

 つまり、元カノの生霊が相模くんのところに現れたとなると、原因はなんであれ彼女は相模くんに相当の恨みつらみを抱いているはずだった。


「いや、ほんとにちがくて! 僕は彼女にフラれたんです!」


 相模くんは真っ赤になりながら、素面しらふで過去の恋愛話を語る。


「元カノとは、大学時代、三回生のときに知り合って、卒業の直前まで付き合ってたんです。でも僕は就職活動に失敗しちゃって、こうして地元に戻ることになりまして……」


 相模くんは力なく項垂うなだれる。酒の入っていない状態で語るには、あまりにもつらい出来事だった。


「僕なりに真剣なお付き合いでしたから、結婚も視野に入れて、一緒にやつかに来てくれないかって話したんです。でも、彼女はあまりいい顔をしなくて……。というか、ハッキリ言うとですね。僕の実家のことが好きになれないと言われてしまいまして……」

……?」


 思いもよらない理由に、宿毛湊も眉をしかめる。

 大学時代の付き合いの別れの原因に、生家が絡むことは少ないだろうと思われたのだ。


「はい。僕はまあ、この通りあまり押しの強い性格じゃないじゃないですか。だから、僕と結婚してやつかに来たら、僕の両親の言いなりになっちゃうんじゃないかって彼女に言われたんです」

「はあ……。でも別に、交際中に相模さんの御両親と元カノさんの間に何かトラブルがあったわけじゃないんですよね」


 相模くんが口ごもる。どうやら思い当たる節があるらしい。


「……実は、母さんが元カノと一緒に温泉旅行に行きたいと言い出したことがあったんです」

「……まさか、行ったんですか?」


 あまり人付き合いが得意なほうではない湊ですら、引きつった声を出す。

 婚約しているとかならともかく、大して交流もない息子の彼女と温泉旅行……。

 正気だろうか。

 女湯に息子は入れないわけだが、まさか、母親は彼女と入浴するつもりだったのだろうか。

 それとも三人で家族風呂にでも入るつもりか? その真意はわからないが、想像するだに背筋が震える。ぶっちゃけ、生霊より恐ろしい。


「さすがに断りましたよ!」


 相模くんは否定するが、確かにそれは、相模くんの実家に対して不信感を持つに相応ふさわしいエピソードだと言えそうだ。

 そんなわけで元カノは卒業後、相模くんと共にやつか町に引っ越すという選択肢を捨て、二人は別れた。

 彼女の最後の台詞は「あなたとの結婚生活は絶対に考えられない」であった。

 なかなか大学時代には聞けない台詞じゃないだろうか。

 語り終えたとき、相模くんは声も出さずに泣いていた。

 プロポーズを本人の努力や資質ではなく、実家によって無惨にも壊されたわけだから、まあ、無理もなかろうと思われた。


「しかしそうなると、彼女さん側からするとある意味円満に別れられたことになる。何故いまさら生霊に……?」

「そこなんです。宿毛さん、電源を貸してください……」


 相模くんは泣きながらバッグからノートパソコンを取り出し、しばらく無心でモニターに向かいキーボードを叩き続けた。

 宿毛湊は冷たい麦茶を差し入れながら作業を見守っていた。


「原因がわかりました……。これが元カノのSNSアカウントです……」


 一時間ほどして真っ赤な目をした相模くんがモニターを見せた。

 そこには『まりっぺ』と名乗る何者かのアカウントが表示されていた。


「いったいどうやって……」

「大学時代、実名でやっていたSNSから辿たどりました。就職先や持ち物からして本人だと思います。どうやら大学卒業後すぐ、別の男性と付き合って、最近フラれたみたいです。今、彼女と同じサークルで仲が良かった女性に連絡してウラを取ってます。…………ううっ」


 相模くんは泣き崩れる。探し当てたアカウントには『どれだけ想っても、もうもどれないんだよね、つら…。。。』みたいな投稿が連続している。

 宿毛湊は黙って相模くんの背中をなで続けた。

 その夜、宿毛湊は泣き続ける相模くんの隣で寝た。

 生霊が出ると困るからだが、出るにしろ、出ないにしろ、そんな状態では一睡いっすいもできなかった。

 翌日、相模くんの元カノと同じサークルの女性から、元カノが相模くんの後に付き合っていた人物の情報がもたらされた。

 その正体は案外すぐに知れた。

 男は人気占い師としてインターネット上で派手に名前と素顔をさらし、スピリチュアル系のオンラインサロンの主催までしていたのだ。


「だからまりっぺのアカウント名がやたら長かったんだな」


 宿毛湊は妙な納得の仕方をする。

 まりっぺのSNSアカウント名は、正式には『まりっぺ☆セイクリッドはさそり座☆オーラは赤!☆塔のアルカナの持ち主です♪』だ。

 大学卒業後、スピリチュアルにだだハマリしたことがその一行だけでうかがえる。

 それらを確認し、目の下にクマを使った狩人は眉をひそめた。


「これは推測だが……。こういう人物は怪異に対して守りを固めていることが多い。人気商売だから、魔女がコンサルタントに入っている可能性もある。おそらく元カノさんは生霊を飛ばしたものの、男のところには行くことができず……」

「だから、そのの僕のところに来たってことですか……?」


 身もふたもない推理であった。

 元カノの視界には、元カレである相模くんは一ミリもうつっていない。

 単なる巻き込まれ事故である。

 そのとき、エアコンも使っていないのに、部屋の温度が少しだけ下がった。

 いやな視線が二人の背中に突き刺さる。

 おそらく、背後にのだろう。


「僕と別れたときは、ぜんぜん化けて出てくれなかったのに……!」


 そういう問題ではないが、無理もない。

 相模くんは元カノのことを未だに引きずっているし、何より生霊に取りかれた人間はゆっくりと弱っていく。思考がマイナスになってしまうのは、本人にもどうしようもないことなのだ。


「相模さん、取り殺されたくなかったら気をしっかり持ってください」


 そう言いながらも、彼は心の中で舌打ちをしていた。

 こと幽霊に関しては、米国式メソッドは効力が弱いのだ。

 せめて相模くんが事前に連絡をくれていれば、自宅に簡単な結界を張って弾き出すこともできたのだが……過ぎたことをいても仕方がない。

 そのとき、玄関で呼び鈴が鳴った。それと同時に開錠される音もする。


「相模さん、宿毛せんぱい! 入りますよ!」


 渡しておいた合鍵を勝手に使って現れたのは的矢樹まとやいつきである。

 何故かは知らないが、いつもは着ないスーツ姿でネクタイまでしめていた。日頃は寝ぐせがついていても構わず事務所にやって来るくせに、今日はスタイリング剤でしっかり整えている。

 彼はいつになく真剣な顔つきで居間に押し入ると、身を寄せ合う宿毛湊と相模くんの横を通り抜け、その背後の壁に片手を着いた。

 相模くんが振り返ると、そこには思いもよらない光景があった。

 元カノの生霊が的矢樹すごいイケメンによって壁際に押し付けられている。

 的矢樹は元カノの生霊を至近距離から見据えながら、ネクタイをゆるめ、低くて甘い声音でささやいた。


「あいつのことは忘れて、俺にしとけよ……」


 その瞬間、恨みと憎しみに支配され、生気を失った元カノの生霊の頬がぽっとピンクに染まった。

 そして部屋の温度が元に戻った。

 元カノの生霊は恥ずかしそうに身をよじり、消えていった。





 その後、三人はそろって朝ごはんを食べていた。

 生霊の気配はみじんもない。相模くんにとっては、元カノがもたらした憂鬱ゆううつな気分もみじめさも、どこか遠くに消え去ったかのようだった。


「樹、戻るのは夜じゃなかったのか?」

「いやあ、先輩からメールもらって、められの気配を察知したので急いで仕事終わらせて朝イチで帰って来たんです」

「偉いぞ」

「えへへ! もっと褒めてください」

「すごく偉いぞ」


 何が起きたのかわからない相模くんだけが、落ち着きなくキョロキョロしている。


「あの、生霊はどうなったんですか……?」

「彼女なら、僕にいてますよ」

「え、的矢さんに!?」


 的矢樹がにこっと笑った。


「生霊の場合、錫杖ではらうわけにはいかないんです。魂が傷つけば、本体も無事ではすまないので。ですので取り憑く対象を相模くんから僕に変えてもらったんです。僕なら何体か憑いていても平気なので……」

「そんなこと可能なんですか……?」

「あまりにもたくさんだと体調崩すんですけど、五体くらいまでなら全然平気なんですよ。シャワーのとき後ろから覗いてくるのが鬱陶うっとうしい、くらいですかね~」


 的矢樹のピントは相変わらずボケていた。

 宿毛湊はごはんをよそいながら答える。


「とはいえ、対象をうつし変えただけで、魂が体から抜け出ている状態であるのは変わらない。樹に取り憑いている間に、本人と担当の支部にコンタクトを取って、早急にカウンセリングを受けて貰う必要がある」

「カウンセリング……。生霊の退治って、カウンセリングなんですね……」


 宿毛湊はごはんの上に生卵を割りながらうなずいた。

 魔法は一時的に怒りをしずめ、人の考え方を変えられるかもしれないが、根本的な治療にはならない。専門医による治療と対話が必要だ。


「ところで、的矢さん、その格好はいったい……。どんなお仕事だったんですか?」

「それがね、隣の支部で出たんですよ。怪異『都合のいい女』と『新卒の女の子を食べちゃう不倫おじさん』が……」

「その二つって怪異だったんですか!?」

「ええ。しかもこの二体が出会ってしまうと『都合のいい女』は無限に都合がよくなり『新卒の女の子パクパク不倫おじさん』は無限に増長するという負のループが発生し、駆除しにくくなるんです。そこで僕の出番!」


 おじさんに恋をする『都合のいい女』を誘惑し、さっき実演した「俺にしとけよ」技で二つの怪異に結ばれた縁を破壊するのだ。

 名付けて『広告バナーで見たことある』作戦である。

 これは容姿に優れた狩人にしかできない技で、というか的矢樹にしか許されない技なので、ときどきほかの支部から応援要請が届くのである。


「結局は顔……ってことなのかなあ……」


 相模くんは再び落ち込みながら、卵かけごはんをグルグル混ぜはじめた。


「まあまあ。イケメンっていうけど、半分くらいは雰囲気ですから。靴と時計をいいやつにするだけでも結構効果ありますよ」

「いや、相模さんの場合は……」

「せんぱい、それ以上は、うるさいお口を優しくふさいじゃいますよ」


 実家、と言いかけた宿毛湊だったが、他人が口を挟むことでもないかと思い直す。

 結局、黙って卵かけご飯を食べた。

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