第31話 恩返し
夕暮れ時だった。
空はコバルトブルーにピンクが混じった色をしていた。
小学校の来客用玄関で靴を履き替えるとき、さっき出てきたばかりの教室の前で男女が話している声が聞こえた。
ひとりは
「あの不良みたいな頭はなんとかならないんですか」
女教師はそう言った。
よく通る声をひそめる気もないようだった。
いかにも小学校の先生らしいハキハキした喋り方で、会話の内容がはっきり聞こえてくる。
「彼のは地毛ですよ。体質が魔法と合わなくて退色してしまうんです」
「児童や保護者に見られたらどうするんですか」
「こんな時間に誰も残ってないでしょう……」
そんな会話が聞こえてくる。
青とピンクが廊下の闇の中にまじっている。
蛍光灯の白い光に切り取られた空間から、気まずそうにこっちを見送る真野に頭を下げて、
その頭は真っ白に染まっていた。
真野の言う通り、魔法を使えば使うほど色素が抜けていって止めようがない。
でも、言い訳をするつもりはない。
染めればすむ話なのに、金が惜しくてそうしないでいるのは自分自身の選択だった。
それでなくても、高校生が毎週小学校に通うというのは普通とは言い難いだろう。
真野明人は大学時代に競技魔術の経験があり、
できれば専門のスクールに通いたかった。
しかし、こんな田舎町では、ほかに米国式魔術を教えられる人物がいない。
湊は前カゴにスクールバッグを突っ込んで、片手で開いた参考書をハンドルの上に乗せ、自転車を押しながら帰路についた。
街灯の明かりはまばらで、どんどん暗くなっていく。
さっさと自転車にまたがって家に帰ったほうが効率がいいとわかっているのに、そうせずにはいられなかった。
高校時代の
狩人免許を取得するため、鞄には常に分厚い参考書を入れていた。
資格取得のためには実技講習や魔法のレッスンが必要だった。そのために何度も大阪まで足を運ばなければならず、交通費や宿泊費、受講費や謝礼金をどうやってねん出するかという問題が常に頭の後ろに乗っかっていた。
一緒に暮らしている母親には頼れなかった。
ずっと片親で、どんなに暮らし向きに困っても、父親の影も形も現れないような家庭だったからだ。
当時から交流のあった七尾支部長は費用を全て持つと言ってくれていたが、返せるかもわからない好意を全面的に受け入れる覚悟も決まらない。
そんなふうに、一部で『北やつかの悪魔』などというけったいな名前で呼ばれていた青年は、周囲が思うほど器用に生きていたわけではなかった。
そもそも魔術研究部の活動に参加するのも、競技会に出ればアルバイト代を出すという約束があったからで、彼自身には競技魔術に対する思い入れはない。
むしろ憎んですらいた。
何しろ彼が寝不足になりながら夜行バスに乗り、授業の合間に資格試験の勉強をし、いろんな人に頭を下げながら魔法を身に着けている間、北やつか高校の連中はのんべんだらりとやってもやらなくてもいいような部活動をしている。
それでいて白い目で見られるのはいつも湊のほうだった。
さて、そんなふうに彼が
すらりとした体つきの、背の高い女性だった。
白いワンピースの上にこれまた純白のコートを着込み、つばの広い帽子をかぶっていた。
湊ははじめ、その存在を無視した。
どうみても声をかけていいタイプには見えない。
いますぐ荷物を放り投げて逃げ帰り、怪異退治組合に通報してもいいくらいのケースに見えた。
なるべく視線を合わさないように通り過ぎる。
その間、女性はベンチに座ったり立ち上がって時刻表を見たりを繰り返していた。
危険な存在というより、困り果てた様子が目についた。
いったんはその場を通り過ぎたものの、湊は、悩んだ末、バス停に戻って自転車の後ろに乗るかどうか
女性は涙ぐんだ瞳をきらきら輝かせた後、バスがいつまでも来なくて困り果てていたこと、やつか駅に行きたいことを立て続けに話し、自転車のうしろの荷台の上にちょこんと横乗りになった。
前かごには女性の旅行鞄が加わった。
「町を出て都会の服飾専門学校に通おうと思うんです」
聞いてもないのに、彼女はそう言った。
「はあ……」
「お母さまにはとても反対されたけれど、わたし、
「はあ、まあ、そうですね」
ぐんと重くなったペダルを必死に
彼のまわりでも、和服を着ているのは七尾支部長くらいのものだ。
その間も女性はぺらぺらと喋り通しだ。
「今着ているこの服、私が
「とても良いと思います。でも、白はやめたほうがいいかも……。危険な怪異だと思われるので……」
「まあ、そうなんですね! それなのに、ご親切に、どうもありがとうございます」
やつか駅前に到着した後も、湊は女性のために
たぶん、いや十中八九まちがいなく人間ではあるまい。
仕方なく電車が来るまで、目的地への行き方を調べられる範囲でノートに書き出したものを渡した。
彼女は何度もお礼を言って電車に乗りこんだ。
*
その後、夏の盛りになった頃、宿毛家に小さな荷物が届いた。
荷物の中には長袖のパーカーが一枚入っていた。
送り主の名前はなかったが、恐らくあのときの女性からの贈り物だろうと思われた。
別れ際、女性ははじめての旅行のハイテンションのまま「何か着てみたい服はありませんか」と
実習で山やら海やらに行くことが多く、
当時は特殊加工が施してある服は高く、登山の専門店などで購入すると、高校生にとってはほとんど天文学的な値段になった。
宿毛湊が大人になった今でもこのパーカーは大事に取ってあって、毎年、海開きの季節になると活躍する。
やつかの海は沖に何があるかわからないので、いつも地元のボランティアだけでなく怪異退治組合所属の狩人も交代で監視員をするのだが、その監視員がこの服を着ることになっていた。
海難事故が起きたとき、この服を着て海に入れば、有名なモーゼの伝説のように海が二つに割れ、安全に救助することができるからだ。
毎年、海が白い波しぶきを立てて二枚の巨大な壁となって立ち上がる風景を見る度、湊はあのときの女性を思い出すのだった。
「彼女の正体は鶴だったんだな……」
防波堤の上に腰かけ、海難救助訓練のようすを見ながら、宿毛湊は語る。
彼の前にはやつかの海と砂浜が広がっており、パーカーを着た救助者がまさに今、民衆を導くモーセのごとく海を割っていた。
「センパーイ! これめちゃくちゃ凄いですよー!」
楽しげに海を割っているのは、後輩の
「今の話の結論は、そこですかね? 撥水加工がすごすぎて伝説の防具みたいになってるんですけど……。あれって使いようによってはやつかの海の謎を解明できるんじゃないですか? 僕、何か間違ってますかね」
「何も間違ってないわ。前から薄々思ってたんだけど、こいつけっこうマイペースで天然よね」
面白半分でアパートから出てきたさくらは、切った端からスイカにかぶりついている。
マメタも小さい欠片をもらってご
やつか町に夏が来た。
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