第6話 その後の川平家


 川平つとむが怪異退治組合を訪れた。



 その日は日曜日で、入り口に置かれたモニターが再生する『白熱大陸』は三回目のオープニングを迎えたところだった。

 川平氏は事務所の入口に立つと、消え入りそうな声で「この度は……」と言った。まるで葬式の挨拶だ。


「どなたか、相談に乗ってくださいませんでしょうか……私の人生の……」


 そのとき事務所にいたのは事務員の相模雪也さがみゆきやと、事務所に請求書を取りにきた狩人の宿毛湊すくもみなとしかいなかった。

 運悪く七尾支部長は席を外している。

 相模青年はごくりと生唾なまつばを飲み込んだ。


「大卒一年目と、高校卒業後即専門業界入りサラリーマン経験無し、どっちがいいですか……?」


 川平氏はその場に膝を着き、がっくりと項垂うなだれた。

 社会の荒波にまれまくりクタクタになった会社人の人生相談を受け止めるにはいささか頼りないが、二人束になればなんとかなるだろうと、表の喫煙スペースに三人並んだ。

 やつか町は小春日和であった。

 地面に生えた雑草ですらぽかぽかした陽射しの下、気持ちよさそうにそよいでいるのに、川平勉の表情は百年ほど血を吸っていない吸血鬼なみに青い。


「いい天気ですねぇ」


 相模青年は人が良いので、場の空気を明るくしようと努めて声をかけた。

 辛い沈黙が続いた。


「宿毛さん、助けて。助けて宿毛さん! 大卒一年目にはちょっと荷が重いです!」

「…………………………………………奥様はその後いかがですか」


 横腹を掴んで揺さぶられ、めちゃくちゃ渋い顔で狩人が問いかけた。


「妻は働きに出て前よりイキイキしているそうです。仕事にも順調に慣れたらしく、評価も上々のようで、今月から週五勤務になるそうでして、息子の塾の迎えと休日の昼飯づくりは僕の仕事になりました」

「なんで伝聞形なんですか?」


 ぽっと出で荷が重いとか言いながら、スナック感覚で核心を突くような質問をつまんでいくところが相模青年にはある。


「実は……私にだけ姿が見えないままなんです」


 川平氏が語ったところによると、川平家の母親がかかった透明病の症状はだいぶ改善し、娘や息子たちは頭の先からつま先まで、その姿を視認することができるようになった。

 まだまだ背景が透けて見えてしまうそうだが、完全な透明人間だった頃にくらべれば各段に改善された状況と言えるだろう。

 しかし川平勉の目にだけは、依然として妻は透明なままだった。

 子供たちが同席している場合でも、子どもの目には母親が見えるのに、川平勉の目には何もない空間があるだけなのだ。


「川平さん、パンフレットに掲載されている対策をきちんと実行しませんでしたね」


 狩人の鋭い目線に見据えられ、川平氏はびくりと肩を震わせた。


「……名前で呼ぶのは、なんだか気恥ずかしくて」

「交際されていた頃からお母さんと呼んでいたわけではないはずです」

「だってもう、娘が生まれてから二十年近く、お母さんはお母さんだったんですよ」

「家庭のことに口出しするつもりは無いですが……。よければ明日の朝、三十分だけお時間を頂けますか」

「明日の朝?」

「はい。月曜日です。貴方の場合、実際に見て考えるのがいいと思います」





 月曜日になった。

 時刻は朝の七時。

 狩人が川平勉を連れていったのは、ごみの集積場だった。

 マンションやアパートの前にある小さなものじゃなく、住宅街全体のごみを集める比較的大きなごみステーションだ。しっかりとした金網で囲まれ、屋根もあって、カラスが入り込めないようになっている。

 川平勉はなぜ自分がこんなところに連れて来られたのかもわからないまま、人々のゴミ出しを見守っていた。

 そのとき、ごみステーションにスーツを着込み通勤鞄を小脇に挟んだサラリーマンが現れた。年齢は川平勉より少し若いくらいだろう。

 なんとなくその姿を目で追ったのは、属性が似ているのと、勉も昔、妻と結婚したての頃にゴミ出し係を担当していたことがあったからだ。

 ただその態度はまじめなものとはいえず、妻から『ゴミをまとめるのを手伝え』とか『近所の人とあいさつを交わすのを忘れるな』などと注意されたのをきっかけに、いつの間にか止めてしまっていた。

 そんな過去の経験がちくりと胸を刺し、同じ立場のサラリーマンの一挙一動に視線が吸い寄せられたのだろう。

 彼は指定のごみ袋を両手に二つげ、ごみステーションに集まった人々に挨拶をしながらごみを捨てた。倒れたよその家のゴミ袋の位置を直したりしながら、掃除係のおじいさんと世間話をしている。

 そして、おばちゃんたちの集団に挨拶をして、表通りに向かって歩いていく。

 これから仕事に向かうのだろうか。

 その道の途上で、男の体は光に溶けて消えていった。

 あっと声を上げる間もなかった。


「消えました。消えましたよ、宿毛さん!」

「彼の名前は内浦誠うちうらまこと。見ての通り、ああいう状態なんで、組合が経過観察をしてます」

「幽霊か何かですか。それとも妻みたいな透明病? それにしては存在感がありましたけど」

「彼は数年前、会社をリストラされ、家庭のほうも上手くいかずに妻が離婚届を置いて家出……と、社会との接点が完全に切れてしまった結果、習慣になっていた毎週月曜日のゴミ捨ての日にしか存在できなくなった人です」

「透明病は消えないんじゃないんですか!?」

「それとはまた別の怪異なので。透明病はあくまで患者本人が透明になる病ですが、彼の場合は逆で、周囲の人間の認識にまで働きかけてくるんです」


 最初は他人の目にうつらなくなるだけだった。

 だが時間が経過するごとに鏡にも映らなくなり、影が消え、カメラや機械のセンサーも反応しなくなっていく。過去の記録や思い出が順番に消えて、誰からも忘れ去られる。

 いまや、内浦誠という人間が存在できるのは、ごみステーションが開いている月曜日のこの時間帯しかなかった。


「世界が存在を忘れるんです。あの人は本当の意味で消えかけてるんですよ。まあ、本当に消えてしまわないように、自治会の方々に声かけをお願いして、週替わりで狩人たちが見守っているんですが」


 草の根を分けた地道な活動と言えるだろう。

 しかし、今日ここに来た目的は怪異退治組合の活動を宣伝するためではない。


「川平さん、変化を受け入れることができなければ、奥さんや貴方自身がああなっていてもおかしくないんです」


 少しきついことを言って灸を据えてやろうとした狩人だったが、振り返ったそこに既に川平勉はいなかった。





 川平誠は生まれて初めて仮病を使った。


 消える直前、何度も腕時計を見つめていた内浦誠の横顔が忘れられない。

 自分が消えてしまうまでのわずかな時間を惜しんでいるようなあの顔つき。

 毎週月曜日、ゴミ出しの日にしか存在できないというのは、どんなに切ない気持ちがするものだろう。


 心がザワザワして、妻がちゃんとこの世に存在していると確認するまで、とても仕事などできやしない。

 彼は小走りで自宅に駆け戻った。

 行きは組合の軽トラに乗ったから、足がない。

 バスを待つのも落ち着かず、何よりも乗り方を知らなかった。

 鉢植えを蹴飛ばし、ポケットの中身の小銭をぶちまけながら、鍵を取り出す。


「……お」


 お母さん、と声に出そうとして、彼は思いとどまった。

 自宅はひっそりとしていた。

 慌てふためいて帰って来はしたが、よく考えればパートに出ている時間帯のはずだ。

 よろめきながらリビングに行き、ソファに腰かけた。

 どきどきと動悸がして、汗が後からあとから吹きだしてくる。

 もしかして、内浦誠のように妻も消えかけているのかもしれないと思うと心底怖かった。

 鞄を胸に抱きしめながら、彼は妻と出会った頃の記憶を必死に思い出そうとしていた。

 妻との出会いは大学時代にさかのぼる。二人とも同じサークルに所属していた。

 彼女は当時から評判の美人で、学内の男たちは誰もが彼女めあてに部室棟に通い詰めていたものだ。

 初めて二人きりで言葉を交わしたのは、忘れもしない。大学生になって二年目の春のこと。

 忘れ物を思い出し、たまたま講義の合間に部室棟に立ち寄ると、彼女はひとりでそこにいた。窓を大きく開けて満開の桜の木を見つめていた。

 いつも取り巻きたちの中心にいる彼女とふたりきり。これを逃したら二度とはめぐってこないだろう大チャンスだ。

 ぼうっとしていないで声をかけなくちゃ、とは思うのだが。

 拒絶されるのが恐ろしくて、強く拳を握りしめたまま、記憶の中の川平勉はぶるぶると震えている。

 今現在の川平勉も、同じように震えている。

 思い出そうとすると怖かった。

 忘れていないだろうか……。

 もう何か月も顔を見ていない。

 夫婦の間には会話がなく、声も聞いていない。


みやこさん……」


 恐怖に震えながら、彼は名前を呼んだ。

 

「なあに? 勉さん」


 透き通った声がする。

 柔らかな、少女らしさを残した丸みを帯びた輪郭。黒々とした大きな瞳の中で、ひらひらと桜の花びらが散っている。

 レースのカーテンが風に舞った。

 明るい陽射しに照らされて、床に美しい影が落ちる。


 川平勉は問いかけた。


「どうしてこんなところにいるの?」

「三者面談があるから、お休みさせてもらったのよ。あなたこそ」

「君が消えてしまうんじゃないかと思ったんだ……」

「なあにそれ、そんなわけないじゃない」


 川平都の声が、いかにもおかしそうに答える。そこに彼女の姿はないがソファの上に丸いへこみができていた。


「さあ、窓を開けますよ」


 彼女が体を伸ばすのが気配でわかった。

 さわやかな風にカーテンがゆれ、フローリングに影が落ちる。

 あのときと同じだ。

 拳をぎゅっと握りしめ、川平勉は誰よりも美しい影を見ていた。



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