第5話 限りなく透明に近いお母さん


 川平かわひら家の母親が透明になった。



 ずいぶん前からうっすらとはしていたのだが、この度、カーディガンやスカートも身に着けたとたん消えてしまい、完全なる透明になってしまった。

 やつかクリニックを受診した際も鞄からとりだした保険証だけが宙に浮かんで見えている状態で、待合室の椅子に座ることさえできなかった。

 黙って座っていると間違えてほかの患者さんがひざの上に腰かけてしまうからだ。

 あんまりきれいに透明になっているので、こういう症状にくわしいクリニックの院長でさえおどろいたほどだ。

 ただ、程度の差こそあれこうした症状そのものは、不登校になって引きこもりがちだとか、職場でいじめられて無視されているうちにとか、様々な理由で起きるものではある。


「あなたくらいの年齢の、主婦業をしてらっしゃる方はとくにかかりやすい病気なんです。薬もきかないとなると、ご家族とよく話し合って自分自身の存在感を取り戻すしかないですね。こちらにパンフレットがありますので参考になさってください」


 診察をした医師が渡したパンフレットには『近所の人とあいさつをする』『短時間でも良いので働きに出る』『本名で呼んでもらう』という対策について書かれていたが、それも手に持ったとたん、消えてしまった。





 かくして母親が透明になってしまったわけだが、驚くべきことに川平家の面々は特にそれで困るということがなかった。

 父親は仕事が忙しかったし、長女は大学受験でそれどころじゃない。

 タイミングよく小学六年生の長男も私立中学の受験を控えていた。

 誰も読まないパンフレットの表紙に、うっすらほこりが積もっていく日々が過ぎた。


 川平家の面々があわてふためくことになったのは、ある夕方。


 まず異変に気がついたのは仕事から帰った父親だ。

 自宅は真っ暗で、いつもなら玄関口まで迎えに出てくれる妻の姿がない。

 それどころか子供たちの送り迎えにすら行っていないようなのだ。

 もちろん携帯電話に掛けても出ない。


 それで面食らった父親が大慌てで「妻が狐にさらわれた!」と、怪異退治組合に電話をかけてくることになったのだった。


 通報があってすぐ、警察のパトカーが川平家に駆け付けた。

 やや遅れて怪異退治組合が事務所のバンで乗りつけ、七尾支部長みずから宿毛すくも的矢まとやという若手狩人を引き連れてやってきた。

 続いて警察が応援要請した猟友会のメンバーも集まった。

 父親が目を白黒させているうちに、川平家は大騒ぎになった。


「奥様は透明病にかかってらっしゃったんですなあ」


 七尾支部長はパンフレットを取り上げた。


「はい。……あの、透明病っていうのは進行すると、本当に消えちゃったりとか、するんでしょうか。お恥ずかしながら、あんまりよく知らなくて」

「川平さん、奥さんが病院にかかったのは三か月も前のことなんでしょう?」

「すみません」


 ちくりと睨まれて、川平つとむは顔を真っ赤にしてうつむいた。


「妻がどんどん透明になっていっているのはわかってたんですが、放っておいても朝晩の食事は出てくるし、家に帰ったら掃除も洗濯も、塾の送り迎えも終わっているし、だったらこのままでもいいんじゃないかって思っていたんです……」

「透明病が進行したってね、いくらなんでも消えてしまうってことはまずありません。こういう透明人間化ってのは二種類ありましてな、先天性のものと、奥さんみたいな後天的なものです。後天的なものは季節性のかぜみたいなもんで、きちんと対策をして養生ようじょうしとけば治りますよ」

「じゃ、妻はやっぱり狐に……!」


 真っ赤だった顔は、今度は一転、真っ青になる。

 赤くなったり、青くなったりと忙しい顔だ。


「川平さん、そこのところを詳しく話してくれますか。あんたがキツネって口走ったせいで、こんな大事になっとるんですからな」


 狐というのは知っての通り、茶色くて尻尾の先が白い、中型の動物である。

 古来から日本に住み、人をさらい、だまし、化かしてきた。信仰の対象となって神格化もされている動物なので、現代妖怪なんかとはくらべものにならない力がある。

 だから、いったん誰かが狐にさらわれたとなると大捕り物になるのは確実だ。

 

「実は、ずいぶん前に妻の元に贈り物が。高そうな着物が何枚も届きまして……」

「狐から?」

「はい。狐でした」


 川平勉が言うには、母親が透明になりつつあったのと前後して、ある朝、紋付袴を身に着けたずいぶん立派な狐がインターホンを鳴らし、門の前に立っていたことがあったのだという。

 もちろん、立っていたと言うからには二足歩行だ。

 狐はさるやんごとなき筋からの使者だと名乗った。

 そして丁寧なしぐさで「評判の奥様をうちの天子さまの元に奉公に出してくださらないか」と言って立派な桐の箱を置いていったのである。

 箱の中には社会科の資料集でしか見たことがないような十二単が入っていた。


「仕事が忙しかった時期なので、その場は妻に任せて、すっかり忘れていました」

「忙しい、忙しいって、どんな仕事をしてたら、そんな大事なこと忘れられるんですか。というか、普通は、その時点で通報しますわな。警察なり、組合なり……」

「すみません、すみません。わかってはいるんです! でも、こんな事態になるなんて思ってなかったんです!」


 見た目だけは反省している様子だが、わかってはいないからこんな事態になっているんだろうと、呼び出された面々の目線は冷ややかだ。


「その着物はどこに?」と七尾支部長が連れてきた青年が訊ねた。


 青年狩人は左目の近くに傷がある強面こわもてで、勉はびくりと震え、ますます萎縮いしゅくしてしまったようだった。


「わかりません。家のことはぜんぶ妻にまかせてたので……。妻は、本当に狐にさらわれてしまったんでしょうか」

「そりゃあ、今のところは何とも言えませんわな。まあ、あちらさんの要望通り奉公に出たとしても、年季が明けたら帰ってくるでしょう」

「困りますよ。娘も息子も、今年受験なんです。なんとか妻を取り戻せませんか!」


 七尾支部長は渋い顔つきである。


「そう仰られても、相手方はきちんと挨拶に来てるわけですからなぁ……。猟友会に頼んで無理に連れ戻したとしても、狐狸こりのたぐいの恨みを買うと後がやっかいです。やつか町全体の問題になりかねない。無茶なことはできないんですよ」

「なんてことだ。この役立たず!」


 川平勉がそう叫んだとき、廊下の近くから「勉さん、なんてことを言うの!」と女性の声が上がった。

 ただし、声だけだ。姿は見えない。

 勉は立ち上がり、あらぬ方向に声を上げた。


「お母さん!? お母さん、ここにいるのか!?」

「大きな声、やめて。けっこう前からいましたよ。ご近所が大騒ぎになってるから様子をうかがってたんです。それに、私、今朝言いましたよね。お仕事の面接に行くから、塾の送り迎えはお願いしますって……」


 どうやら、いつの間にか透明病にかかっていた奥さんが帰宅していたらしい。

 しかしそれで「よかったね」とはならない。とてもそういう雰囲気ではない。

 警察も、猟友会も、組合の面々も、じっと川平勉を見つめる。

 どうやら、彼は全て伝えられていたのに、忙しさにかまけて上の空で返事をしたものらしい。

 川平勉は首を甲羅に押し込められた亀みたいに縮め、スーツの中に逃げ込もうとしているように見えた。


「……仕事の面接だって?」

「ええ。例の、うちまで着物を届けに来てくれた狐さんのところです。朝の九時半から、午後三時までで、お昼休みは一時間。仕事内容はお掃除やお料理なんかの家事のお手伝い。まずは週三日勤務で時給は千五百円からのスタートだそうです」

「そんなわけのわからないところで働かなくても……。何より、お母さんは今、透明人間なんだぞ」

「わけがわからなくなんかありません。おやつとお昼ごはん、各種保険つきなのよ。狐さんたちは、神通力もありますし。最初は透明でも構わないそうです。あとその、お母さんって呼び方、もうやめてくれませんか? 私はあなたのお母さんじゃないのよ」


 空中から、ひどく冷たい声が発せられた。


「でも……お母さんは、お母さんだろう?」

「あのね、私もいつまでも透明人間でいたいわけじゃないんですよ。道を歩いてるだけでねられかけるし。塾の迎えにいっても、子どもたちに気づいてもらえないし。あなたが何と言おうと、ぜったいに勤めに出ますからね」


 川平勉はぽかんとしていた。

 ふたりの間には、夫婦らしい暖かな交流はない。

 それどころか凍えた北極の氷に入った深いひび割れが透けて見えるようだ。

 七尾支部長はこほんと咳払いをして、呆気に取られたままの川平勉に向きった。


「それじゃ、自分らは撤収しますんで。まあ良かったじゃないですか。奥さん、狐にさらわれたわけでもなく、癌だとか命にかかわる病気でもなくて。十二単もきっとお似合いでしょうよ」


 その後、川平夫妻は隣近所に謝って回った。

 ただ、奥さんのほうは透明なので、実質、頭を下げたのは夫のみである。

 子供たちの受験が終わった後、川平家のお母さんはアルバイトをはじめた。

 透明病の症状はゆっくりと元に戻っていっているそうだ。

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