第4話 忘れられない思い出と感触

「遠塚さん、泣かすなよ」


 もう泣かしています。

 あの言葉には、そう心の中で返していた。




「よろしく」

「あっ、よろしく……」


 人見知りなんだろうな、この子。

 それが、ひとみの第一印象だった。


「おはよう、ひとちゃん!」

「あ、おはよう」


 おれと言葉を交わした直後、ひとみは集まってきた友達と話し始めた。

 あ、笑ってる……。


「やっしー! おーっす!」

「おー、おはよ」

「同じクラスで良かったぜ!」

「うん、よろしく」


 おれも自分の友達と集まり出した。

 また後で声をかけよう。

 心を許されたら、おれにも笑ってくれるかな。


「何だよ~。やけに隣、気にしてんな?」

「そんなことないって」

「入学早々ナンパすんのかぁ?」

「ははは、しないしない」




「ひとみ、おはよう」

「おはよ近岡」


 入学してから数日後の朝。

 ひとみの笑顔を見られた日は早かった。おれは最初から「ひとみ」と呼んでいた。初めは遠慮がちに「近岡くん」と呼んでいたひとみも、あっという間に「近岡」と気楽になっていた。




 おれたちは徐々に仲良くなっていったが、ひとみが柔道部に入るとは思わなかった。意外なので理由を聞いてみると、


「美術部とか良いなと思ったけど……女子が多いから、やめた。いざこざ怖い」


 とのことだった。

 でも人見知りなのに、男しかいない柔道部に入部とは……。失礼かもしれないが、その選択は謎に感じた。

 ひとみは大丈夫なのか?

 おれは心配していたが、それは杞憂だった。唯一の女子部員ということで、ひとみは随分チヤホヤされ、めちゃめちゃ丁寧に扱われていた。ひとみ以外の女子部員が入部することはなく、マドンナとかアイドルとかマジでそんな感じだった。

 でも、おれは少し違った。


「ひとみ、勝負しようぜ」

「うん」


 よく組んでいたからか、おれたちは自然とライバル同士になっていた。初期は体格差も実力差もなかったから、男女なんて気にせず戦っていた。幼いころから習っていた空手でも、女子とガッツリ争ったことはない。おれに初めて女子のライバルができた。

 お互いに体の変化はあったが、おれはひとみとの練習をやめなかった。とにかく、ひとみとやる柔道が楽しかったからだ。


「イタタ……」

「ごめん! 大丈夫か?」


 しかし女の子の強さには、おれたち男と違って限度がある。やり過ぎたら謝った。ひとみが泣き出したときも焦った。おれが女の子を泣かせたのは、あれが初めてだ。

 ……思えば、ひとみの悔しそうな顔がすごくかわいかった……。大人しそうなのに、負けず嫌いな一面を見せたのも意外だった。

 そして、ある日の練習中に大変なことが起こった。


「あっ……」


 ひとみの声と、おれの声が重なり、共に顔を赤く染めた。


「……!」


 おれはひとみの柔道着ではなく、左胸を掴んでしまったのだった。


「ご、ごめん!」


 胸元を両腕で覆っているひとみに、おれはすぐに謝罪した。


「し、仕方ないよ、柔道だから……。ほら、続けよう」

「……うん……」

 

 その後、おれたちは体に力が入らず早く相手を変えたいと思いながら組み合っていた。あれが最初で最後の、恥ずかしい乱取りだった。



 

 その日の夜、おれはひとみで頭がいっぱいだった。寝る前に右手を見ながら、ひとみの胸に触れたことを思い出していた。

 柔らかかった……。

 これまで絶対に触れなかったし、誰も触ったことがなかったが……。ついにおれは、やってしまった。おれたちが入部してすぐに「ひとみへのセクハラ禁止」というルールを男子の間で作ったのに……!

 例えば、女子更衣室を(ドアの開閉は関係なく)三秒以上じーっと見た者は道場の雑巾がけという罰があった。


「どうして雑巾がけしているんだろ?」

「あー、ひどい汚れがあったらしい」


 ひとみが知らない、ひとみに知られてはいけないルールだったので、罰を受けている男子については何とか誤魔化していた。

 ひとみの胸に触れたその日、おれは相当悩んだ。これからどうするべきか。そして色々と考えた結果、今までのように練習することにした。おれが意識し過ぎたら、ひとみに悪いと思ったからだ。

 ちなみにこの件は、二人だけの秘密にした。こんなことが広まったら、おれたちは学校に行けない。




 今でも、あの出来事と……感触を思い出す。特に就寝前。

 ……よし!

 その度に、おれは自分の煩悩を打ち壊すように正拳突きをする。部屋が明るいことに気付いた母親に「いつまでも稽古していないで、もう寝なさい!」と怒られるまで。

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