四月二十三日(土)夕方 鹿端家
リビングの時計が四回、菜々美はソファに寝そべってボンヤリとその音を聞いていた。
もう何時間、ずっとこうしているのだろう。
カーテンの隙間から差し込んでいた陽の光がゆっくりと失われ、今は少し薄暗い。
あの晩――。
ゲームセンターから警官に連れ出された菜々美たち三人は、それぞれの家に連絡が入れられた。他の二人がどうなったかは知らないが、女の子だからと菜々美は優先的に帰宅させられた。
親に怒られるとか、悲しませるとか、そんな気持ちは微塵もなかった。ただ、面倒なことになったとうんざりした。
家の前に来ると、部屋の灯りがついており、母親が起きていることがわかった。
時間は十一時。
父親の帰りはまだ先だろう。
玄関を開けると、母親は疲れた顔をしながらも、娘を送り届けてくれた警官に手をついて謝罪した。
菜々美は一言も話すことなく、その横を通り抜け二階の自室に閉じこもった。
下の階では警官が母親を指導するような声が聞こえる。担任の前でヒステリーを起こしたようにならないでくれと菜々美は願った。あんなにみっともない姿、よく晒すことができたものだ。
しばらくして家の中は静まり返り、灯りが消された。
菜々美はベッドに潜り込んで、夜の街を思い返した。
ネオンの明かり、ゲームセンターの大きな音、タバコの匂い――。
すべてが新鮮だった。
家と学校の世界しか知らない菜々美のような人間は異物だと思っていた。けれど、そんなことさえ、どうでもいい世界なのだ。
自分を知らない大勢の人々。
知らないがゆえに、どんな自分をも受け入れてくれる包容力を感じるのかもしれない。
次は、いつ夜の街に抜け出そうか。
菜々美はしばらくそんなことばかり考えていた。
おそらく、そのまま眠ってしまったのかもしれない。
ふと目を開けると、依然として暗闇が広がった。
しかし、ある一定のリズムで布団の隙間から何かピカピカしているのが見えた。
何時だろう。
菜々美は頭を持ち上げると、その光が部屋中に点滅していた。
赤い。
完全に身体を起こすと、自分の顔や腕にもその赤い光が差し込んだ。
下の階から慌しい足音がすると、いきなり激しくドアが叩かれた。
「菜々美ッ!菜々美!」
父親の声だ。繰り返し息切れをしている。
ドアを開けると父親が震えながら立っていた。
「母さんが、死ぬかもしれない」
「えっ?」
「大量に薬を飲んだ!お前は一緒にいたんじゃないのかっ!」
下に降りていくと、救急隊員が玄関から担架を運ぶところだった。
母親の細くて白い腕だけが見えた。
父親が何か喋っているのはわかったが、耳に入って来ない。
かろうじて、病院に行くという単語は理解できた。救急隊の一人が、立ち尽くす菜々美の肩を叩き、優しい音声で何か言った。
玄関のドアが閉じられ、サイレンの音が遠くの方から聞こえてくると同時に、菜々美は我に返った。
廊下には父親のビジネスバッグが転がっている。玄関には踏みつけられた菜々美の白いスニーカーがあった。そして、ダイニングの電気をつけると、母親の薬が散らばっていた。
時計が一回だけ鳴る。
零時半だ。
菜々美が帰宅してから、そんなに時間が経っているわけではない。あの直後に、母親は薬を飲んだのだろう。
死ぬかもしれない。
父親のその言葉だけが菜々美の心を支配した。
死ぬかもしれない
二時間くらい経ったのだろうか。
テーブルに突っ伏していると、電話が鳴った。あまりの大きさに菜々美は心臓が飛び出しそうになった。
受話器の向こうから、押し殺すような父親の声がした。母親は一命を取り留めた。しかし、精神的に不安定なため入院を余儀なくされたという。
菜々美は安心したものの、
――人騒がせなヤツ。
心の中で罵った。
母親が入院してから父親の帰りも少し早くなった。
帰ろうと思えば早く帰れるじゃないか。
しかし、菜々美は自分の分は自分で夕食を作り、父親が帰宅する頃には自室にいるように心がけ、極力顔を合わせることをしなかった。父親もそれについて叱ることもない。互いがそれぞれの生活サイクルを淡々とこなすような日々となった。
父親が家にいるとなると、夜の外出は難しくなりそうだ。昼間では、あの異国顔の男と会えるかわからない。もちろん、夜でも会える保証はないけれど。菜々美はこの自分の気持ちが一体何なのか理解できなかったが、次に会うことが出来ればハッキリするような予感がしていた。
午前中、父親が出かける前に担任の小野へ電話をした。そういえば、小野から再び家庭訪問の打診をするメッセージが昨日の留守電に残っていた気がする。
――すみません、妻が入院しまして。
――私も今日は仕事で時間が取れません。
――娘ですか?家におりますが、話せるかどうか。
そんなようなことを早口で言っていた。
父親は、小野に会うつもりがないらしい。娘のことなど興味もないのだから当然か。
母親が入院してから、一応は早く帰宅するようになったが、極力顔を合わせないようにしている娘に対して何か言うでもない。説教をするでもない。
聞こえるのはため息ばかりだ。
菜々美はリビングのソファに転がって、だいぶ前に買ったティーン向けの雑誌を眺めた。友達の美咲が読んでいたので、自分も欲しくなって買ったものだ。ヘアスタイルやファッションの情報が満載で、その色とりどりのポップ文字を見ているだけで、自分もオシャレになった気分になっていた。
毎月、買わないと友達との会話についていけない。雑誌だけではない。本もマンガも、映画も、DVDも。すぐに小遣いがなくなった。
しばらくすると美咲が雑誌を買わなくなった。流行の入手ルートがスマートホンに変わったからだ。やたらと男性アイドルや恋愛関係の話題が増えた。菜々美は母親に話を切り出したものの、スマートホンの購入は許可が下りなかった。金額だけではなく、内容そのものに眉をひそめられたのだ。それ以来、菜々美は美咲が話す【イマドキ】の内容を、あたかも知っているかのように聞くフリをしていた。少しも楽しくなかったが、それが友達付き合いだとわかっていた。
この古い雑誌も捨てればよかったのに、なぜかそのままになっていた。とうに流行りも過ぎたファッションモデルがいびつに笑っている。
菜々美は寝そべりながら、時々カーテンの外を気にかけた。
担任の小野は、来るのだろうか。
電話でのやり取りだと、菜々美が話せる状態なら会って話したいと言ったようだ。父親は来訪を拒絶したが、本来なら父親など関係ないのだ。
顔も知らない担任の教師に、菜々美自身も何を期待しているのかはわからない。
けれど、気になって仕方ない。
起き上がってカーテンの隙間から外をうかがってみる。ここから玄関の様子は見えないが、音は聞こえる。人の気配も感じることはできるはずだ。
気配。
――。
身の毛がよだつ。
――誰か、いる。
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