四月二十三日(土)夕方 鹿端家②

 菜々美は慌てて顔を引っ込めた。

 息を止めて外の様子に全神経を集中させる。


 その気配の主が、あれ、と声を発した。


 ――気づかれた?


 しかし、怪しい気配はそこから遠ざかり、家の門の外で何やら話し声が聞こえてきた。


 門の外にも誰かいるようだ。


「あの、どちら様で」

「うん?そういう貴方は?」

「私は、あの、学校の者ですが」


 外の状況はよくわからないが、学校という言葉から、声の片方が担任の小野だと菜々美は確信した。


 やはり、会いに来たのだ。

 そして、玄関先にいた声の主と鉢合わせたのかもしれない。


 一体、もう一人は誰なのだろう――。


「ああ、リスカちゃんの学校の先生か。こりゃどうも、土曜日なのにお疲れ様です」


 菜々美の背中が冷たくなった。


 ――あの男。


 長身の異国顔が浮かぶ。

 なぜ、この家の場所を知っているのだ。


 再びカーテンの隙間から外をのぞくと、西日に照らされた二つの人影だけが見えた。


「あの……失礼ですけれど、貴方は鹿端さんのお知り合いか何かですか?」

「うん!」

「ああ、もしかしたら今から帰られるところだったんですね。ご家族はいらっしゃいましたか?」

「え?いやいや、逆だよ先生。オレも今来たところなんだ。さて、と」


 菜々美は音を立てないように玄関の方へ移動した。鍵がかけられていることを確認して、再びリビングで息を殺した。


 外から二つ足音が近づく。

 止まった瞬間に家中にインターホンが響き渡り、菜々美は身体を固まらせた。しばらく間を置いてもう一度鳴らされる。


 担任と思しき声が聞こえてきた。


「ああ、いらっしゃらないのかな。せっかく話が出来ると思っていたけど」

「ちゃんとアポ取ったの?先生」

「いや、私は親御さんからは都合が悪いと言われたんですけどね、どうも気になって来てしまったんです。また出直しますよ」

「あのリスカちゃんと話をしに来たって?やるねえ、先生」

「あの、貴方は鹿端菜々美さんのことをご存知のようですが、一体どういう関係ですか。それに、その呼び名は……」

「まあ心配しないで先生。怪しい者じゃないし、悪いヤツでもないから。むしろ歓迎されるべきだとオレは思っているんだけど」


 またチャイムが鳴らされた。


「しかし学校の先生も大変だねえ。毎日この家に通っているの?普通は生徒が学校に通うもんでしょうよ」

「仕方ないんですよ。そういう決まりですから。学校側も何か対策を講じないといけないんです。私も着任早々こんなことになるとは考えてなかったですが」


 菜々美は小野の声に耳を傾ける。


「まだこの学校のルールも手探りですし、受験の準備も急がなきゃいけないし。それでも生徒のことは心配ですから足を運ぶのは苦じゃないです。が、報われない時は正直落ち込みます」

「オレに愚痴らないでよ先生。まあ、学校のやり方が正しくないとは言わないけど、効果があるかないかは一目瞭然だね。先生は避けられているよ」

「はは、わかってます。実際、こんなことは初めてじゃないです。でも、やるしかないんです」

「何それ?手紙書くの?」

「訪問して留守だった場合は書置きして帰ります。張り込むわけにいかないですし」


 しばらくすると郵便受けがガシャンと音を立てた。


 何だ今のは。


 もう、帰るの?


 電話をしてくるとか、少しだけでも待ってみるとかしないの?

 学校のルールだから仕方なく今まで家庭訪問に来ていたの?


 菜々美の心に黒い濁流が溢れた。

 小野との間に見えていた、細い細い糸があっという間に押し流される。


 その時、突然ドアが激しく叩かれた。

 それに合わせてあの大男が声を上げた。


「いるのはわかってますよーっ。おとなしく出てきなさいよーっ」

「ち、ちょっと、何をしているんですかっ?」

「ダメダメ先生。電気メーターが動いているじゃないの。中に人がいて電気使っている証拠よ。それにさっきからカーテンが不自然に動くの見えちゃったし」


 とっくに感づかれていた。


 あの男。

 あの男。


 菜々美自身が濁流に飲まれていくようだった。


 戸棚の引き出しからハサミを取り出す。


 ドアを叩く音は止まない。その方向へ視線を向けた。

 閉ざされたドア。

 蝶番の隙間から差し込む西日。


 菜々美の影がノロノロと伸びていく。


 もうイヤだ。


「う、う」


 イヤだ。イヤだ。イヤだ。


 消えたい消したい死にたい。


「うああぁああーーーーッ!!」


 鍵を力任せに跳ね上げ、レバーを掴むと菜々美はドアに体当たりした。


 そこには、陽を背に受けて顔は良く見えないが、紛れもないあの長身の男と、黒髪のスーツ姿の男がいた。


「ホラ、いたでしょう?」


 長身の男が笑った。対して、スーツ姿の男が目を丸くしながら口を開いた。


「鹿端……さんかい?」


 菜々美は二人を睨み上げた。


「何しに来たのよ。笑いにきたの?蔑みにきたんだろ?」


 スーツ姿の男――担任の小野は、菜々美の手元を見て声を震わせた。


「とりあえず、それは下に置こうか。いや、それとも先生が預かろうか?」

「はっ?」


 菜々美は持っていたハサミで左手首を切り込んだ。


「お、おい!」

「何ビビッてんの?こんなもんじゃないんだから」


 菜々美は袖を捲り上げた。

 横に刻まれた無数のリストカット。

 菜々美はその上をハサミで縦に掻っ切った。


 こんなに綺麗に出来ることもあるのか。


 ぷつぷつと血が雫になる。


「何するんだ!やめないか!」


 小野が青ざめながら叫んだ。

 腕をつかもうとするのを菜々美はかわして笑った。


「うるさい、指図するな」


 ハサミで皮膚をつまみあげて、そのまま捻ると、新しい傷がまた生まれた。


「落ち着け、鹿端」

「先生こそ落ち着きなよ」


 小野は苦しそうな顔を向けてきた。

 菜々美が、もう一度ハサミで皮膚をつまみ上げようとした時、長身の男が菜々美の背後に回り、右腕を掴んだ。


「はいはい、そこまで」


 不意をつかれて菜々美は憎々しげに声を張り上げた。


「離せよっ!」

「うるしゃい、指図するにゃあ」


 ふざけて笑う男に、菜々美は無意識にハサミを左手に持ち替えた。


「ぁああああああーーーーッ!」


 菜々美はなりふり構わず暴れた。髪を振り乱しながら奇声を上げて、ハサミを振り回した。


「ふざけんなよっ!さっさと消えろッ!帰れよ!」

「おお、怖い怖い」


 それでも男はあっさりと菜々美の手からハサミを取り上げた。


「ハサミは回収しまーす。あらあら、ずいぶん可愛いハサミじゃない。クマさんかな。色も剥げ落ちた上にこんなことに使われて可哀想に」


 そのままジャケットのポケットにしまう。

 菜々美は長身の男に掴みかかったが、両腕を掴まれてしまった。今度は足で思いっきり蹴飛ばす。


「元気だなあ。それならこうだ」


 一瞬、何が起きたかわからなかった。

 突然、男は菜々美の身体を軽々と持ち上げ、さらに肩へ担ぎ上げた。


 コイツ頭がおかしいんじゃないか?


 菜々美は足をバタつかせたた。


「離してよ!離せ!」


 大男は菜々美を担いだまま身体を反転させた。


「そうだ、先生」


 小野は呆然とした顔で大男を見上げている。


「オレの自己紹介まだだったね。オレは宇佐見。ヨロシク。とりあえず今日は帰りな」

「え、ちょっと、しかし」


 小野が何か言おうとすると、異国顔の大男――宇佐見がそれを制した。


「アンタじゃ無理だ。この子の傷は想像以上に深い」


 今までと、少し違う声色だった。しかしすぐに笑い声となった。


「まあ、後はオレに任せてちょうだいな。あ、くれぐれも通報しないでね。約束」


 宇佐見は放心する小野を置き去りに、家の中に菜々美を連れて行く。


 ドアが再び閉ざされ、家の中は薄暗さを取り戻した。

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