四月二十三日(土)朝 藤石の部屋③
薄明りを瞼に感じると同時に、ズシンと何かが腹に落下した。慌てて忠志は目を覚ますと、敬太の左足が腹に載っている。
何とか足をどかせると、敬太もようやく起きたようだった。
「あれ、ここ……どこだ」
「何言ってるんだよ。泊めてもらっただろう?」
ああ、と敬太が声を上げた。
「オレ達寝ちまったのか!だいぶ遅かったもんなあ。でも何か熟睡した気分だぞ」
敬太は伸びをすると、再び床に転がった。
「さすがに二度寝はダメだと思うよ。今は何時だろう?」
忠志はスマートホンを開くと時刻は十一時を過ぎていた。
「えっ!もう昼だ!」
「マジかよ!さすがにヤバくねえか?」
二人が慌てて起き上がると戸が開いた。
「このヒマ人どもめ。やっと起きたか」
ストライプのワイシャツと緑色の眼鏡をかけた藤石が部屋をのぞいた。
「うあ、ティラノさんだ!」
「おはようございます……」
早く来いと藤石が引っ込んだ。
忠志と敬太は身支度を整えると、部屋の主はダイニングで新聞を読みながら座っていた。
そして、テーブルには食事の支度がされていた。
「俺は二時半に仕事だから、十二時過ぎには出るぞ。さっさと食え」
「あの、これは」
「ティラノさんが作ったんですか?」
忠志の目の前には、かなりザックリとした作りではあったが、目玉焼きやサラダが並んでいた。
「すげぇな。ティラノさんってマジ何でも出来るんスね」
敬太が椅子に座りながら感嘆の声を上げる。
「一人暮らしも長けりゃ大抵の家事はやれるもんだ。最近は、俺も料理に目覚めた」
忠志は目玉焼きの隣に転がっているウインナーを箸で持ち上げた。
「これは飾り切りですね。何の花だろう?」
「それは犬」
敬太も自分の皿にあったウインナーを取り上げた。
「チャパツの方は猫」
忠志も敬太もあらゆる角度から藤石の作品を眺めた。
「どこが、どう犬なんでしょうか」
「猫って四本足だと思うっス」
藤石が新聞から目を上げて不思議そうな顔で二人を見つめた。
それを察して忠志は慌てて取り繕った。
「あ、なるほど!きっとプードルですねっ」
「本当だ!やったあ、オレ猫好きなんスよお」
いただきます、と二人は手を合わせて食事を始めた。
味だけは普通に美味かった。
昼間の日が差し込む場所で、藤石を見るのは初めてかもしれない。
光のせいか、髪の毛が少しだけ茶色がかって見える。
これも若く見える要因だろうか。
「ティラノさんの格好、仕事なんスか?今日は土曜日なのに大変ですね」
敬太の言葉に忠志は少し身をすくめた。
夜中に自分もまったく同じ質問をしたことを思い出した。
藤石がコーヒーを啜った。
「いいなあ、学生は。俺も休みが欲しい」
「休みの日は何しているんですか?」
忠志も当たり障りのない質問をした。
「そうだな。ドライブしたり公園で本を読んだり弁当食ったり。意外にアウトドアだな」
「一人で、ですか?」
「一人で、です」
墓穴を掘った気分になった。もっと盛り上がると思っていたのに。
「ティラノさん、それアウトドアじゃないッスよ。女がいればまた違うけど」
「何だよチャパツ。ガキのくせにいちいち意見しやがって」
「あの、弁当ってティラノさんが自分で作るんですか?」
「もちろん。最近はこういうのも本屋に並んでいる」
藤石が隣の椅子に置いてあった男性向けの料理本を忠志に手渡した。
「意外に簡単で楽しいぞ」
「本当だ。写真もたくさんあるしわかりやすい本ですね。スペアリブとか本格的なのもあるんだ。僕も買おうかな」
藤石が眠そうな目を丸くした。
「偽マジメも料理するのか?」
「あ、ティラノさん。こいつも自分で弁当作って持ってくるんですよ。シイタケの煮物とかメチャクチャ美味いッスよ」
素晴らしいと藤石は軽く拍手をしながら忠志を褒めた。
そんなに手が込んで作る煮物ではなかったが、人に褒められると嬉しくなる。作り方を教えたら喜ぶだろうか。差し出がましいだろうか。そんなことを考えている間に、弁当の話題は終わってしまった。いつものことながら、会話に乗り切れない自分が悲しくなる。
しばらく食器の音だけが聞こえた。
「あ、味噌汁も作ったんだった」
藤石は立ち上がり、二人分の味噌汁を運んできた。湯気が立ち上り、味噌の良い香りがした。
「熱いから火傷するなよ」
忠志の前に朱色の椀が置かれた。
「ありがとうございます。優しいですねティラノさん」
「まったくだ」
忠志は笑った。藤石も意地悪い顔で笑った。
敬太も味噌汁の椀を手にとってふうと息を吹きかけている。その動作があまりにも長いので、顔をのぞき込んだ。
どれだけ猫舌なんだ、そう言おうとしてやめた。
敬太の目元が潤んで見えたからだ。
さっきまで楽しそうに喋っていたのに、一体どのあたりから感傷的になっていたんだろう。
忠志は気まずくなって正面に向き直った。見れば藤石もこちらに目をやったり、敬太の顔を見つめたりしている。
「味噌汁の破壊力は噂以上だな」
何やら意味ありげに言うと、藤石は柔らかい笑みを浮かべた。しかし、一瞬で顔が凶悪なものに変わった。
「いつまで優雅に食ってんだ!遅刻したらお前らのせいだからな。賠償請求するぞ」
とんでもないことを言い出した。
忠志も敬太も、むせ込みながら熱湯のような味噌汁を飲みほした。
食事を終えて、食器を運ぼうとすると藤石に止められた。それより早く帰り支度をしろと言われた。本当に時間がないようだった。
いつの間にか、敬太も元気を取り戻し、あの木箱は何だったのかとしきりに藤石に尋ねていた。確かに気になったが、もうあの関節技はごめんだったので、忠志は黙っていた。結局、藤石も最後まで何かは教えてくれなかった。
玄関を出ると、先に下で待つように言われた。藤石はすっかりビジネスマンの格好で、眼鏡も縁なしのシンプルなものに変わっていた。
忠志は、やはり敬太の様子が気になった。
あれは、間違いなく泣いていた。
同じ人間だ。家族や母親に対して思うことがあるだろう。食事も、小遣いをもらって外食が多いと言っていた。家に居場所がなく、一人暮らしにも憧れている。忠志とは逆だけれど、やはり自分の家に振り回されていることに変わりはない。今では、もっと具体的な悩みや相談も出来る間柄になったと思う。それでも、互いの家のことを知られたくない気持ちがどこかであるのかもしれない。
最終的には自分自身で解決しなくてはいけない問題なのだ。
「でも、楽しかったな」
敬太がつぶやいた。
「うん。すごく迷惑かけたけど」
「そうだなあ。そういや、そっちの腕は大丈夫か?」
心配しながらも敬太は大笑いした。
「あんなに綺麗に決まるとはなあ。忠志も体力ねえよなあ」
忠志は無性に悔しかったが、いつもの敬太に戻って安心した。
藤石が姿を見せて、手招きしている。
近づいていくと水色の軽自動車が止まっていた。
「近くまで送ってやる。めいっぱい感謝しろ」
二人はそろって礼を言い、自分たちより小柄な男に頭を下げた。
駅までの道は終始無言だった。
それでも忠志は藤石がどこかの銀行で仕事があることだけは何とか聞き出せた。司法書士の仕事のフィールドがどこまでなのかわからないし、それほど興味があるわけではなかったが、藤石ともっと話す機会があればと切に願った。
――昨日の六十点の意味もよくわからなかったし。
忠志よりは好成績だったけれど、不合格なら意味はない。
不合格って何なんだ。
それでも、落ちこぼれの二人に食事の支度までしてくれたのだ。
冷たいのか優しいのか。
忠志が後部座席からバックミラーを見ると、運転席の藤石と目が合った。眠そうな目で睨みつけられると、釣る下がっていたプテラノドンのぬいぐるみをこちらに向けて変な動きをさせた。
とにかく、おかしな人だ。
駅に近づくにつれて車の動きは遅くなり、渋滞につかまった。
隣の敬太が声を上げた。
「あれ?お袋か?」
窓に顔を貼り付けて外を凝視している。
「あ、伯父さんだ。一緒にいるの珍しいな」
忠志も思わず外に目を向けた。
歩道を歩く男女は一組しかいなかった。
女は細身で薄い黄色のワンピースを着ている。男はワイシャツにジャケットを着ていた。二人とも四十代前後といったところだ。
「何だよあの格好。まったく。年齢考えろよ」
「あれがチャパツの母さんか。綺麗だな。まだ若いだろう?」
「アラフォーですよ。三十八。ババアですよ」
藤石はバックミラーに映る敬太を見た。
「何を言うか。俺より五歳くらい年上であの腰のライン。いかん、胸が苦しいぞ」
「ちょっとっ!やめてくださいよっ」
藤石は冗談だよと目を細めて笑った。
それよりも忠志は藤石が三十代であることに驚いた。
本当は、普通のおじさんじゃないか。
まったく見えないのだが。
「しかし、うーん」
藤石はしばらく窓の外を眺めながら何やら考え込んでいるようだった。
視線の先には敬太の母親と伯父がいる。
「どうしたんですか?」
忠志の問いに、ため息で返された。
「いや、ちょっとな。あの伯父さんとやらが、どこかで見たことがあるような」
「マジっすか?」
「仕事で顔合わせたかな……いや、別人か」
「別人だと思うッス。伯父さん、この辺には住んでねえし」
そうか、藤石はどこか腑に落ちない顔をしつつもうなずいた。
車が動き出す。
敬太の母親と伯父が後ろに遠ざかって行った。
「アイツは家に泊まらなかったのかな。けど伯父さん、またオレに何か買って来てくれたのかな。へへっ」
敬太が嬉しそうな声で言った。
「アイツ?」
藤石の目がバックミラーの敬太を見つめた。
「あれ、昨日言いませんでしたっけ。オレの親父モドキですよ。昔、ぶん殴られた記憶しかないッス。最近はやけに馴れ馴れしいけど」
敬太はバックミラーの藤石に話しかけた。
「それも、お袋と再婚したいからなんですよ。いつも家に連れて来るし。超ウザいッス」
「なるほど。チャパツはそれで夜中に出歩いているのか。健気だな」
忠志もバックミラー越しに藤石の顔を見た。眠そうな目元しかわからない。
再び赤信号で車が止まった。車は遅々として進まない。
藤石が舌打ちをした。
「しっかし、混むな。よし作戦変更だ」
おい、と藤石が振り返った。
「俺はそのわき道使って別の駐車場まで行くから、お前らはここで降りて駅まで歩け」
「は、はい。わかりました。ありがとうございます」
忠志は降りる準備をした。
「あの、ティラノさん。オレ」
敬太が何か言いたそうだった。
気持ちはわかった。
忠志も藤石がどうしてゲームセンターで慕われるのか理解できた。
その説明は上手くできないけれど、次もどこかで会いたいと思わせる人柄なのだ。
横断歩道の信号が点滅し始めた。
そろそろ青になってしまう。
「わかったよ」
藤石は思いっきりため息をつくと、忠志と敬太に名刺を二枚差し出した。
「昨晩のことは黙ってろよ。お前らの親が、菓子折り持って訪ねて来られても困るからな」
信号が変る瞬間、二人は急かされて車を飛び出した。
藤石が見ているかわからなかったが、水色の軽自動車がわき道に消えるまで、二人は何度も頭を下げて見送った。
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