四月二十二日(金)深夜 藤石の部屋②

 忠志はボンヤリと部屋のインテリアを眺めた。整頓されているというより、そもそも置いてある物が少ないのかもしれない。テレビのラックには恐竜の置物が並んでいた。


 恐竜が好きみたいだ。だからティラノさんか。


「一人暮らしって憧れるけど、やっぱり大変なんだろうな。オレもバイトしながら一人で暮らしてみてぇなあ」


 敬太が言うと切実に聞こえる。忠志も一人暮らしを考えたことはあるが、不安なことの方が多い。やはり自分はあの母親に頼らざるを得ないのだ。


 キッチンから藤石が戻ってきた。


「風呂沸かすから、順番に入ってさっさと寝ろよ」


 二人で礼を述べると、藤石はテーブルをずらすように指示した。そして、隣室から毛布を持ってくると床に放り投げた。

 忠志が毛布を広げていると、外国の土産品のような木彫りの箱が、テレビの棚の近くに転がっているのを見つけた。細かい装飾だ。忠志は気になってそれに何となく手を触れた。


 その瞬間、恐ろしい速さで藤石が忠志の襟首を掴んだ。


「こら」


「いっ……ぎゃあああーっ!」


 忠志の身体が捻じ曲げられて、右腕があり得ない方向に向けられようとしていた。


「ちょっと、ティラノさん何やってんスか!」

「何やってんスかだと?こっちの台詞だよ。純朴そうな顔をしていながら抜け目ない男だコイツは。この偽マジメ」


 容赦ない力が込められている。完全に関節技が決まっていた。何とか外そうと試みたものの、その度に変幻自在に技が変化する。


「いたたたたたたたっ。さ、触っただけじゃないですか!中身は見てないですよぉ!」

「最近は親も学校も人様の家の物を勝手に触っちゃいけませんと教えないのか?小学校から英語だのプログラミングだの教える前に、叩き込むことがたくさんあるだろうが」


 敬太が恐る恐る言った。


「ティラノさん、許してやってよ。こいつの家も母子家庭なんですよ」

「ふん。母子家庭だろうが何だろうが知ったことか。俺には関係ない」

「忠志、大丈夫か?ティラノさん、超怒っているぞ」


 言われなくてもわかっていた。

 だから忠志は必死になって謝った。


「すみません。ごめんなさい。もうしません。お願い、許してください」

「おいおい、自力で外してみろよ。体育で習うだろう?」

「もう体育の武道はなくなったんですぅ……それが出来ないから……こうして僕は」


 いつの間にか絞め技に変わっている。

 様子がおかしいことに気づいて藤石は力を緩めた。


「おや、大丈夫かな?タダシくん」

「ティラノさん、それはあんまりです。忠志しっかりしろ」


 必死になって酸素を求めた。五分程、自分の生命維持に全力を注ぐと、何とか呼吸も穏やかになり、右腕の無事も確認できた。


 忠志は手をついて藤石に謝った。怖くて顔が見られない。


「ご、ごめんなさい」

「猛省しなさい」


 藤石は学校の先生のような口調で言った。


「しっかし、ティラノさん色々とスゲーな。仕事は何してんですか?」


 敬太が生き生きとした目で尋ねると、


「司法書士」


 と藤石は眠そうな顔で答えた。


「何ですかそれ」

「お前らとは縁がない仕事だ。登記屋さん。書類屋さん。あとは適当に辞書でも引け」

「そんな、もう少しちゃんと教えてくださいよ」

「身近な例でいえば、偽マジメの家が今度売られた時に、お袋さんから新しい持ち主に名義を変えるための書類を作ったりする」

「まだ売るとは決まってませんよっ」


 反論しながらも、忠志は堀江との別れ際に話したことを思い出してみた。


「あの、堀江さんという人がティラノさんを藤石先生と言ってましたが。実は、何かすごい人なんですか?」


 すると、藤石が片方の眉を釣り上げたので忠志は思わず身をすくめた。


「先生でもないし別にすごくもない。世間的にそう呼ばれるけど、俺は嫌いだね」

「じゃあ、何て呼べば良いんスか」

「すでに好き勝手呼んでいるだろうがよ」


 忠志は司法書士という職業を初めて知った。漢字だけ見ると法律関連の仕事だと推測できるが果たして当たりだろうか。


「あの堀江さんとかいう人は何ですか?同業なんですか」

「いや、あの人は不動産屋だ。俺の仕事は不動産を主に扱うからな。大事なお客様だよ」

「よくわからないッス」

「登記そのものが一般人には馴染みがないから仕方ない。すべての土地や建物には持ち主がいるということはわかるか?」

「あ、はい。えっと、何となく……」

「それを変更したり登録したりする手続きは難しくてね。それを代わりに担う専門家とでも思ってくれ」


 具体的な細かい業務はわからないけれど、藤石が簡単に言うには法律に即した書類の手続きをやる代理人らしい。


 ゲームセンターで見かける時も、常にスーツを着ていた。休みとかないのだろうか。


 敬太が藤石の顔をじっと見つめて言った。


「何か羨ましいッスよ。背丈はアレですけど、顔はイケメンだし仕事もバリバリやっていてさ。女にモテまくりでしょう?」

「今は……そうでもない」


 藤石は少し遠い目をした。


「今は?昔はモテたんですね」

「チャパツがいう女にモテるがどういう状況を指すのか知らんけど、俺は男子校だったから華やかな感じじゃなかったな。今みたいにスマートホンもないから女子とコミュニケーションを取るのは至難の技だった。むしろそれが良かったのに、今のガキは何でもメールやSNSで済ませるから、恋愛の醍醐味もありがたさも知らずに育つのか。可哀想に」


 確かにスマートホン端末に頼り切っている毎日だ。あれがない生活など想像できない。


「じゃあ、ティラノさんも女子とはあまり接点なかったんですね」

「どうだろうな。あれは学園祭がキッカケだったか。一週間で五人の他校の女子に真っ向から告白されて、日替わりで同時に付き合ってた。しばらくしたら、真っ向から全員にフラれた。ああ懐かしいな。クリスマス前だったんだよな」


 少し沈黙が続いた。


「何やってんですかティラノさん」

「普通にひどいですよ」


 しかし藤石は平然としていた。


「そんなものだろう?高校生活なんて」

「な、バカにしないでくださいよっ」


 敬太が声を張り上げた。


「最近の若者はゆとりだ甘えだ何だってオレたち言われますけど、結構マジメに考えて生きているんですよ?家のこともそうだし、女のこともそうだし」

「ほほぅ。あのゲーセンの子か」


 ニヤついた藤石の言葉に敬太が言葉を詰まらせた。


「か、関係ないッスよ」


 敬太がうつむいた。


 ――そうだ。


 あの隣家の少女は敬太の知り合いでもあった。中学の先輩後輩の間柄のようだったが、警察に連れて行かれた際にも二人は言葉を交わすことはなかった。妙な気まずさに、一切触れることはなかったが、ここで話をしておこうと忠志は決めた。


「実は、敬太。あの女の子、僕も知ってるんだ」

「はっ?マジかよっ」


 敬太の予想以上の反応に忠志は慌てた。


「知ってるというか、鹿端さんは、うちのお隣さんなんだ。少し前に引越してきたんだよ。でも、喋ったことはないし、顔もオボロゲだし。向こうは僕のこと知らないと思う」


 すると、藤石がテーブルに肘をついてため息をついた。


「……当たりか。あんにゃろ」


 ブツブツと独り言を漏らす藤石に、敬太が詰め寄った。


「ちょっと、ティラノさんまで何スか?さっきから鹿端のこと気にして……。あ、あの外人みたいなヤツとの関係も聞きたかったんですよ!アイツ何ですか?ティラノさんの友達なんですよね」

「いや?不法滞在の外国人か何かだろ。急に話しかけてきて失礼な奴だったな」

「嘘つかないで下さいよ!もう何なんだよ……」


 敬太が苛立ちを見せたので、忠志がそれをなだめた。

 そんな二人を眺めて藤石が笑った。


「心配するな。別にあの女の子をどうこうするわけじゃない。少なくとも、あのデカ男は彼女の味方だ。たぶん」


 藤石はそう言うと大あくびをした。


 時間はもう夜中の――。



 夜中の一時頃だったはずだ。



 忠志が周りを見渡すと、すでに部屋は真っ暗だった。身体を起こすと、毛布がかけられている。隣には丸まった敬太が転がっていた。寝息が聞こえる。


 スマートホンを開くと時刻は二時半を告げていた。いつの間に寝てしまったのだろう。結局、風呂にも行かずそのまま二人は眠ってしまったようだ。


 忠志は起き上がり、トイレに行こうと部屋を出た。

 すると、一室から明かりが漏れていた。


 確か藤石の寝室だ。


 中から何か聞こえる。キーボードの音か。

 忠志が数秒間だけそこに留まると、


「そこ、左側」


 と声がした。


 驚いた忠志は差し込む光に向かって小声で言った。


「ティラノさん、寝ないんですか?」


 さすがに部屋の中をのぞくことは出来なかった。

 何をしても逆鱗に触れそうで怖い。


「寝るよ。これ終わったら」

「何しているんですか?」

「仕事の準備」

「明日、いや今日か。土曜日ですよ?休みじゃないんですか?」

「そうもいかんのよ」


 キーボードの音が軽快に響く。


 忠志は少し後悔した。

 自分達のせいで、こんな時間まで仕事をさせてしまうことになったからだ。

 自然と口が開いた。


「あの、すみませんでした。ティラノさんの都合とか無視してしまって」


 藤石は何も答えない。


 光が揺れた。


 今度は何かプリントアウトする音も聞こえる。


 忠志は少し大きな声を発した。


「本当に、あの」

「聞こえてるよ。チャパツが起きちまうぞ」


 静かな部屋にパソコンだけが機械音を立てる。

 忠志は戸口から離れた。


 仕事中なのだ。邪魔してはいけない。

 すでに、この空間にいること自体が迷惑なのだから。


 部屋の中から藤石の声がした。


「トイレわかんないの?左だって言ったろ」

「あ、ごめんなさいっ」


 忠志は小声で謝るとトイレのドアを開けた。

 何だかさっきから謝ってばかりだ。


 どうしてだろう。

 母親に対して抱くことがない気持ちが湧いて仕方ない。

 人に迷惑をかけているということをここまで実感したことがあっただろうか。


 トイレから出ると、明かりが消えていた。

 一気に暗闇が増す。

 すると、闇をまとった小さな人影が近づいてきた。


「おやすみ」


 と藤石はあくびをしながら不明瞭に言った。


「ティラノさん」

「気にするなよ。自営業の仕事ってのはこんなもんだ。今日は少し遅いけど」


 忠志は通り過ぎていく小さい人影に向かってなおも言葉を続けた。


「いつもなんですか?身体壊しちゃいますよ」


 藤石の影が止まって忠志を振り返る動きをした。


「偽マジメも社会に出ればわかる。俺は自分がやりたいようにやっているだけだから眠いけど苦じゃない。お前のお袋さんの方を心配してやれよ」

「僕の母ですか?あの人はメチャクチャ元気だし、家のことより仕事のために生きているとしか思えないですけど」

「その言葉。数年経ったら間違いなく後悔するぞ」


 藤石の声が一気に低くなったのを感じて忠志は口をつぐんた。


 ガキだなあ、影はつぶやきながら壁にもたれかかった。


「まあ、ガキであることがお前らの特権だけど、もう少し深く考えられるだろう?お袋さんは、生活のために仕事していることくらいわかるだろうが。お前が飯食えてるのは、誰のお陰だ」

「それはわかってますよ。感謝もしてます。でも、そうじゃないんですよ」


 忠志は下を向いた。自分の足元が闇に溶け込んで何だかおぼつかない。


「僕の家族はみんな勝手です。父は浮気をして母と離婚しました。母は父から譲り受けた家を売り出そうとか考えています。兄は独立して一人で暮らしていますが、帰ってくることがありません。何だか自分だけが今の家に執着しているようで、それがバカバカしく思えたり、ものすごく暗い気持ちになったりするんです」


 女々しい。

 そう言われる覚悟はとうにしていた。

 だから忠志は続ける。


「家の庭が隣の土地だったことがわかったとき、母はそれを守るとか考えるより先に土地の値段を気にかけました。僕は、あの黒い服の人と母の会話を盗み聞きしていたから、あの庭が有平の家のものだと主張できる手続きがあることも知ってます。それなのに母は都心のマンションのことばかり考えています。でも、あの場所には」

「偽マジメは純粋だな」


 藤石が言った。


「隣にはみ出している庭、何かあるのか?タイムカプセルとか」

「ち、違います」

「まあ何でも良いけど。とにかく、お前がどうにか出来るレベルの話じゃない」


 ふうと息が吐き出される音がした。


「せいぜい家を売らないように根気よく説得するとか、高校を出るまで待ってもらうか、かな」

「僕はあの家に住んでいるのに、それしか選べないんですか?」


 忠志は声を荒らげた。しかし、すぐに声を押し殺してすみませんと言った。


「お前の気持ちもわかるけど、お袋さんの気持ちもわかるなあ、俺。大人だから」

「どういう意味ですか?」

「お前とは逆の思い出しかないんだよ。親父さんと喧嘩ばかりしていたんじゃないのか?生活のために住居を与えられたけど、もうすぐ子供も独立するなら、苦い思い出の場所を離れて新しい生活の場を探したいと考えているんじゃないのかね」


 忠志は答えられなかった。

 そんなこと考えたこともないし、そもそも母親が子供のために生活を守るのは当たり前だという認識があったからだ。それがガキなんだと藤石に散々言われたけれども。


 やはり納得はできなかった。結局、駄々をこねるしかないのか。


 また暗闇からあくびをする気配が感じられた。


「すごく眠いぞ、俺は」

「すみません」


 藤石の影が寝室の戸口を開けて中に消えていく。


「こら、偽マジメ」

「はい」


 忠志は暗闇を見つめた。


「意見論述は六十点だ。自分自身を正直に見つめなさい。ちなみにチャパツは二十点」

「へ?」

「二人とも不合格」


 完全に戸が閉められた。

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