四月一八日(月曜日)夜 急行列車

 土地家屋調査士の白井麻人しらいあさとは、満員電車の中で、今週のスケジュールを頭の中で整理する傍ら、先週の水曜日に出会った依頼主のことを思い出していた。


 思い出すたびに、気分が沈む。


 基本的に自分の人生において心が晴れやかになる瞬間など滅多にないのだが、今回は仕事であるがために逃げ出すわけにもいかず、ただただ滅入ってくるのだ。


 コミュニケーション力に乏しく心が弱い自分が、どうしてこんな「人と関わる」仕事をしているのかと、悩み後悔することもあった。それでも、サラリーマンのように会社に迷惑をかける心配がない独立業なので、自分だけ痛い目に遭えば良いという開き直りもあった。それがなくては、とても続けられなかっただろう。



 先週の水曜日――あの日、依頼主の家のインターホンを押すと、中から青白い顔の女性が顔を出した。

「ああ、先生。お待ちしておりました」

「お世話になります。土地家屋調査士の白井です」

 どうぞと白井を中に招き入れると、突然、女が白井を振り向いた。

「片付いておりませんの。ここでもよろしいかしら」

 そう涙声で言った。すでに、泣きはらした目をしていたので、何だか大変な時に来てしまったのかと、白井は一瞬たじろいだが、女の言うとおりに玄関先で話を聞くことにした。

「遠くからありがとうございます。先生のことは須賀不動産さんからも聞いております」

 女は深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 白井は名刺を差し出しながら、女を観察した。今は落ち着いているようだったので、本題に入ることにした。


 すると、女が突然喋り始めた。


「早く売りたいんですの。せっかく買って下さる業者さんが見つかったのに、土地の面積が違うとか何とか言って……先生、どうしたら良いんですか?」


 白井は女の話に相槌を返しながら、不動産会社からの報告内容を思い返した。


 須賀不動産という業者は、この女性から、今の住まいを売りに出したいという話を受けた。そして、この不動産屋もそれを購入する方向で動いていたのだが、土地の面積が実際のものと、台帳に載っているものと違うと白井に相談してきたのだ。女性が言うには、知らない間に隣人が石垣を立てたらしい。つまり、石垣が突出している部分は、本来ならこの女性の土地なのだと主張しているのだ。


 最近特に多い土地の境界問題。


 万が一、その侵出している部分が女性の所有する土地なら、それも含めた広さでないと購入できないと不動産業者は主張し、その隣人との境界交渉も含めてて、土地家屋調査士の白井が紹介されたのだった。

「先生」

 目の前で依頼主の女が不安そうな顔をして言った。

「本来は私の……いいえ、私の先祖代々の土地なんです。祖父や父から譲り受けた大切な土地です。三年前にこちらへ引っ越してきましたけれど、まさか、お隣が我が物顔で庭にしてるなんて思いもしませんよ。それなのに、どうして面倒な手続きを踏まなくてはいけないのですか」

 白井は図面を見つめながら言った。

「お気持ちはわかりますが、土地の境界問題は非常にデリケートなところがありまして……」

 すると、女の顔が急ににこやかになった。

「まあ、こちらとしては手放す土地ですから境界などどうでも良いのですが、売買が成立しなかったり、代金が差っ引かれたりするのだけは困るんですの」


 白井はうすら寒いものを感じた。

 つい今、先祖から受け継いだ大切な土地だと言っていなかったか。

 どうも、精神的に不安定なような気がする。


 白井は刺激しないように、言葉を選びながら話を進めた。

「お隣の家ですが、登記簿から判断すると所有してから二十年近く経過していますね。その間ずっと自分の土地だと認識して石垣を立てたなら、時効取得を主張してくる可能性もあるでしょう」

 女が呆けた顔で首をかしげる。

「登記簿?時効?どういうことです?」

 白井は、少し語調を緩めて説明することにした。

「登記簿というのは、法務局という国の機関に備えられている台帳のようなものと考えてください。もっとも、今はすべてコンピューターで管理されていますが、そこには土地や建物、マンションから工場まであらゆる不動産の情報が書かれています」

「不動産の情報……?」

「広さはどれくらいだとか、持ち主が誰であるとか、抵当権――わかりやすくいえば住宅ローンでいくら借りているとかそういう情報です」

 白井は女の表情に注意しながら続けた。

「時効取得というのは法律上の規定です。自分の土地だと信じて十年以上住んでおり、なおかつ本来の持ち主――今回ならあなたですが、その人が所有権を主張してこなかった時は、ずっと住んでいたお隣さんが土地の権利を取得できるというものです。ただ、裁判所の許可が必要です」

 すると女が顔を歪めた。

「よくわかりません!何にしても、私の土地なんですっ。裁判なんてしなくても、それは明白なんですよ。無断で人の土地を使うなんて図々しいにも程があるわ」

「はあ」

 白井は少し顔をうつむかせた。どうやら説明が理解されなかったらしい。確かに一般人には馴染みがないだろうし、この女性の気持ちもわかる。しかし、相手方にも必ず言い分があるはずだ。


 白井は自分の仕事がたまに呪わしくなる。

 人間の土地に対する執着の強さ、そこから生じる争いをさんざん見てきた。仕事とはいえ、自分の性格が向いていないのはよく知っている。


 今回も予想通りの展開だった。


 女は身を乗り出して白井に言った。

「先生、さっそく掛け合ってもらえませんか。こちらの主張はお伝えしたとおりです。もし庭を明け渡さないなら、それなりの対価を支払ってもらいたいくらいです。時間がないのよっ」

 声色に怒気がこもっている。ここは一旦引いた方が良さそうだった。

「今日はこれで失礼いたします。ただ、あらかじめ申し上げておきますが、先ほども言いましたように、境界の問題は早急の解決が難しいです。お気持ちはわかりますが、お隣との関係が悪くなれば尚更でしょう。そこはご理解下さい」

 白井は、立ち上がって会釈をした。



 その来訪から四日後の今日。


 電車を降りた白井は、例の依頼主の隣家――有平家に向かった。すでに桜も散り始めているが、夜風はだいぶ冷たい。先ほど降った雨のせいで、ところどころに水溜りがある。濡れた地面と草の匂いがたちこめる中、白井は再び同じ道順で目的地へ向かった。

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