四月一八日(月曜日)夜 有平家
――もう八時か。
先週の水曜日に依頼人の家を訪ねたその日のうち、今回の件について隣家の有平家に手紙を送った。すると、翌々日には白井の事務所へ電話が来たのだ。
すでに相手は喧嘩腰だった。
相手は女性で土地建物ともに所有者だという。
しかも聞いていないこと――要は愚痴まで話し始め、おかげで白井は前情報だけで気分が滅入った。
話によれば、有平家は母子家庭だという。白井は母子家庭の実情をよく知らないが、生活が豊かだという印象はない。今回の話は寝耳に水だろうし、電話では強気な対応をしていたが、実際はたいそう困惑しているだろう。
どのように話を展開するか考えながら歩いているうちに目的の有平家に辿り着いた。
チャイムを押すと息子と思われる少年が出てきた。白井の姿に、あからさまに眉をひそめている。
「夜分失礼します。土地家屋調査士の白井と申します。お家の方はいらっしゃいますか」
少年は、驚いたような顔をして奥に引っ込むと、代わりに母親が出てきた。
母親――この家の登記簿から所有者の有平紗江子だと白井は認識した。
四十過ぎといったところか、姿勢が良く口元は引き締まり、気が強そうな印象を受けた。
有平紗江子は疲れたような声で言った。
「こちらから時間指定しながら申し訳ないですけど、まだ片付けが終わらなくて。もう少し待っていただいて良いですか」
時間通りに来たつもりだったが、白井は事前に一本電話を入れるべきだったかと後悔した。
「いえ、私はここでも結構です。今回の話の概要だけ説明に来ただけですから」
「そう」
白井の名刺を受け取ると、母親は玄関のマットの上に膝をついて座った。合わせて白井も跪くような格好になった。
「大方は先日お話したとおりですが、ご理解いただけましたか」
白井は紗江子の顔を覗きこむようにすると、紗江子は強い眼差しで見返した。
「話の筋は理解しました。が、納得したわけではありません」
口調は強かった。間違いなく困難な展開が予想され、白井は覚悟した。
紗江子が続けた。
「白井さん、あなたに言っても仕方ないですけど、私はこの家を十年以上も前に別れた主人から慰謝料の代わりにもらいました。ですから、この家はそれよりも前にここに建っていて、庭も当時のままです。私も自分で勉強しましたが、時効取得というものになるんじゃありませんか?今さらそんなこと言われても困ります。だいたい主人が買った時の不動産屋はそんなこと言ってませんでしたよ」
紗江子は真っ直ぐ白井を見つめた。気圧されそうになる。
まさか自ら時効取得について情報を仕入れているとは思わなかった。この母親の生き方を思うに、きっと自分で問題解決する力を培ってきたに違いない。
白井は心の中でため息をついた。双方の交渉は後日またセッティングするとして、今日の目的は相手の考えがどういうものか探るために来たのだ。
――もうこれで充分だけど。
白井は咳ばらいをしつつ、立ち上がった。
「ともあれ、境界測定の立会いにはご協力をいただきたいのです。その後でまた」
「だいたい、先生は何のお役目なんですか?土地家屋調査士って具体的に何をするの?」
「はあ。色々ありますが、最近多いのはこういった境界に関する仕事でしょうか。話し合いの仲立ちとして動きます。あとは土地の広さや用途などを、国の機関に備えられている台帳に登録する手続きをします」
「何度も言いますけど、うちの庭はうちのものです」
「はあ。お気持ちはわかりますが、万が一、有平さんの土地の境界が国が把握しているものと違っていたら、やはりその境界については話し合いが必要になってくるのです。もちろん、有平さんに非があるわけではありません。ただ、お隣が困っている事情も汲んでいただけませんか」
白井は慎重に言葉を選んだ。相手が逆上して、話し合いに応じないのでは仕事にならない。たいていは隣人のよしみだかでスムーズに話が進むのだが、今回の両家はほとんど関わりがない分、いつもより難易度は高い。
ふと、紗江子が宙を見るような眼差しを白井に向けた。
何か思惑があるような気がして、白井は自然と口を開いた。
「有平さん。どうしました」
「ねえ、お隣さんの土地を欲しがる会社があるということは、この辺りって、それだけ価値があるんですか?高く売れるのかしら?」
「そうなんでしょうね。閑静で、都心にも出やすいですし。その割には開発が進んでいないところもあったりして、業者が目をつけているのかもしれません」
「先生は土地の鑑定も出来るんですか?」
意外な言葉に白井は驚いた。
「いえ、それは不動産鑑定士の仕事ですね。私はただの手続き屋です」
そう、と紗江子は何か考え込んだ。
「忠志もあと三年だしな。いっそ売ってしまって駅近のマンションに引っ越そうかしら。いちいちこういうトラブルも面倒だし」
紗江子の独り言に白井は気が重くなった。
――さっきまであんなに境界の主張をしていたのに。
土地が大事なのか金が欲しいのか、いずれにせよ有平家が正式な境界に納得して侵出した庭を明け渡せば白井の仕事は終わりだ。それに向けて淡々とやるしかない。
「有平さんの主張として、先方にはお伝えします。後日、お互い話し合いの場を持ちませんか?」
「私、仕事が忙しいんですけど」
「存じ上げてます。ですが」
「それにどうして今さら?ずっと前から放置していたのは、あっちじゃないの」
「お気持ちはわかりますけど」
「今になって協力しろとか勝手ね。だいたい、貴方はお隣の味方なんでしょう?」
「先ほども申し上げましたが、土地家屋調査士は双方の仲立ちです。中立な立場ですから、ご心配いりません。訴訟まで及ぶ際には弁護士を立てることになるでしょうが」
その時、白井はすぐ近くの部屋から軽い物音がするのを聞いた。
――ずっと立ち聞きしていたか。
この大人の諍いを息子はどう受け止めただろうか。
白井は案件の複雑さよりも、そちらの方が気になった。
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