第四 草 コルチカム       楽しい思い出

【 嘔吐、下痢、呼吸困難 】

17

幼子おさなごがあどけなく笑う。


「これ、パパ」


握り締めたパステルでてのひらが赤く染まっている。テーブルに置かれた石板を見ると、グシャグシャと赤い線が塗りたくられているだけだ。


幼子は赤いパステルを箱に戻すと、しばらくその箱の中身を探っていたが、げ茶色のパステルを見つけ出すと嬉しそうに、再び石板に塗りつける。


そして、

「ママ」

と、ニッコリ笑うと、自分をひざに乗せている男を見上げる。


見上げられた男は微笑を返し、そっと幼子を抱き締め、頬を摺り寄せた。


「そうだね、パパの髪は赤。パステルの横に掘られているのは『文字』で、『赤』と書かれている。そしてママの髪は栗色。このパステルには『焦げ茶』と書かれている。だけれど、ママの髪に近い色だね」


「パパの髪、赤! だぁい好き」


幼子は男の膝に立ち、男の首に腕を回して抱き締めてくる。動き回る幼子を注意して抱き止めている男はビルセゼルトだ。


「グリン、汚れた手で触ったら、パパも汚れてしまうわ」


花瓶に花を活けていたリリミゾハギが慌てて幼子を止めようとする。事実、ビルセゼルトのシャツが赤や茶色に染まっている。


「構わない。これくらい、すぐに消せる」


そう言ってビルセゼルトは幼子の手に触れ、その手が触った自分の服を撫でる。どちらからもパステルでついた色が消える。


グラリアンバゼルート、ノンスアルティム、『ペガサスの住処すみか』と呼ばれる森に面した庭を持つ、ビルセゼルト所有の別荘でのことである。


ここにビルセゼルトは、リリミゾハギと二年余前に生まれた息子グリンバゼルト――通り名はグリン ―― を住まわせていた。


季節は立秋をとうに過ぎ、残暑もそろそろ影を潜め始めていた。吹く風が、時折 涼しさを通り越して冷たくなってきている。


「今日は白いバラなのだね。やはりあなたがこの庭で育てた花?」


ビルセゼルトの問いにリリミゾハギがひっそりと答える。


「はい、あなたがお好きな白バラ・・・私には草花を育てるしか取り柄がありませんから」

「・・・」


頭にしがみ付いて登ろうとするグリンバゼルトに気を取られたふりをして、リリミゾハギにビルセゼルトは答えなかった。


「ほら、グリン。頭に登ってはだめだよ。肩に座れるかい?」


モゴモゴしているグリンバゼルトの腰を持ってビルセゼルトは自分の肩に座らせる。するとグリンバゼルトが嬉しそうに笑い声をあげた。


「かざぐるま!」

「そう、かたぐるま。でも動いちゃ危ない。それにパパの目をふさぐのもダメだ」


否定することなく修正するビルセゼルトだ。いずれ自分で自分の間違いに気付く時が来るだろう。いまは導くだけでいい。


動くなと言われても、動きたい盛りの子どもがジッとしているはずもない。とうとうビルセゼルトは諦めて、グリンバゼルトを床に降ろす。


「グリン、ここに座って。パパがくれたブドウを食べましょうね」

リリミゾハギがグリンバゼルトに声を掛けた ――


1年ほど前に父親が他界し、ビルセゼルトは名実ともに王家の当主となり、グラリアンバゼルート他の領地を受け継いでいる。


そして半年前、東の魔女ソラテシラが引退し、夫ダガンネジブとともに東の魔女の居城から、ノンスアルティム郊外にあるダガンネジブが所有する屋敷に住処を移した。


ビルセゼルトの別荘のすぐ目と鼻の先だ。『ペガサスの住処』にある湖を見下ろせる丘の中腹の屋敷だった。


新たな東の魔女の選考は揉めに揉め、結局、ビルセゼルトが推したアウチャネハギと決まった。


アウチャネハギはリリミゾハギの妹だったが、魔女としての力はリリミゾハギと違い、突出するものがあった。


王家の森魔導士学校に入学してきて以来、その資質に目を付けた校長ビルセゼルトが、いずれは統括魔女に、と手を掛けて育てた魔女だ。


周囲はビルセゼルトが権力に執着し始めたかと勘繰ったが、アウチャネハギの魔女としての才能は認めざるを得ないものがあった。また、アウチャネハギの婚約者がビルセゼルトとは全く流れの違う魔導士だったこともあり、アウチャネハギを東の統括魔女とすることを納得した。


北ギルドの長ホヴァセンシルも子を得ている。グリンバゼルトより三月ほど後に生まれたのは女児で、北の魔女ジャグジニア、つまりはホヴァセンシルの妻が呆れるほど溺愛していると、噂が南にまで流れてくる。


何年も前に流産を経験し、その後なかなか恵まれなかった子宝だ。そうなるのも無理はない。


そして、リリミゾハギには二人目の子が宿っていた。雪が降り始める頃に生まれるだろう。


グリンバゼルトがブドウを食べるのを見守っているリリミゾハギにビルセゼルトが問う。


「体調はどうだ? 悪阻つわりの時、桃以外は食べたくないと言っていたが、今はどうだ? 食べたいものとかあるのか?」


グリンバゼルトの口元を拭いたり、食べこぼしを始末しながらリリミゾハギが答える。


「いいえ、何を食べてもおいしくて、少し太ってしまいました。癒術魔導士から、太り過ぎに注意するよう言われるくらいに」


幸せそうな笑みを浮かべてリリミゾハギが答える。そしてその微笑のまま、


「ジョゼシラ様にお子はまだできないのですか?」

と、ビルセゼルトに問う。


慈愛に満ちた母の笑顔に見えていたリリミゾハギの笑みが急に、勝ち誇った女の笑みに変わって見えて、ビルセゼルトは思わず顔を背けた。


リリミゾハギをノンスアルティムの別荘に入れる話をして以来、ジョゼシラとはしっくりいっていない。それまでは呼ばれなくても自分から足を運んだ南の魔女の居城に、呼ばれなくては行かなくなっていた。


そしてグリンバゼルトが生まれてからは、ジョゼシラのビルセゼルト呼出しも次第に減っていった。


ビルセゼルトは果たして自分がジョゼシラを求めていいのだろうかと迷い、ジョゼシラには、子と父親を取り合うことになってしまう、と遠慮があった。


互いに相手の思惑に気が付けないまま、おうどおとなるばかりだ。


ジョゼシラのもとを訪れない代わり、と言うのもなんだが、ビルセゼルトの足はノンスアルティムの別荘に向かう事が多くなる。特にグリンバゼルトが生まれてからというもの、時間ができれば顔を見に行くようになった。


自然、リリミゾハギのもとに留まることも多くなる。リリミゾハギに二人目ができ、ジョゼシラには妊娠の兆候すらなくても当然と言えば当然だ。


「いや・・・まだだ」

そう答えながらビルセゼルトは別のことを考えていた。


来年の夏至には、ジョゼシラも子を産み落とす ――


四年前、星見魔導士が予言した神秘王の誕生は来年の夏至。神秘王はビルセゼルトとジョゼシラの間に生まれるはずだ。


だが、現在の冷えた関係のまま、子を授かることなどあるはずもない。修復する妙案もなく、時間は過ぎていく。星見魔導士が読み違えたか? だが、あのデリアカルネが読み違えるか?


「パパ!」

ブドウを堪能し終えたグリンバゼルトが膝にしがみ付いてくる。いつの間に本棚から取り出したのか、手には一冊の本を持っている。


「よぉし、おいで」

本を受け取り、グリンバゼルトを膝に乗せ、グリンバゼルトからよく見えるように表紙をめくる。


「お魚!」


描かれた魚の絵を指さしてグリンバゼルトがニッコリ笑う。黄金の魚の物語が書かれたその絵本がグリンバゼルトは何故か好きで、ビルセゼルトはこの屋敷に来るたび相手をさせられる。


「そうだね、お魚だ。そしてこっちは月」


書かれた物語を読み聞かせることは今のところはない。絵を見て楽しむだけだ。


「違う! お月様!」

「! そうだね、お月様だ」


思わず苦笑するビルセゼルトは、どれほどグリンバゼルトに癒されていたことだろう。ビルセゼルトにとってグリンバゼルトだけが、何も考えずに一緒にいられる存在だった ――


そろそろ帰ろうとビルセゼルトが思い始めた頃、屋敷で雇用した魔女が慌てて部屋に飛び込んできた。


「南の魔女様のお使いが、大至急、ビルセゼルト様にお会いしたいとおでです」

「すぐにお通ししなさい」


ビルセゼルトより先にリリミゾハギが答えている。ビルセゼルトがリリミゾハギに遠慮するのを見越したのだ。


「ジョゼシラ様におかれましては、昨日よりご気分優れず、ビルセゼルト様に早急のご帰城を願いたい」

用件を聞いてビルセゼルトの顔色が変わる。


詳しく聞くと、居室から一切出てこない上、食事を摂っている様子もない。どうしたのか尋ねても、何でもないと返事があるだけで、要領を得ない。しかも今朝、体が燃えるようだ、とポツリと漏らしたらしい。


「発熱しているのか?」

「それが、そうではないと、仰るのですが、癒術魔導士さえお部屋に入れて貰えず、城中の者が心配して様子をうかがうのですが、さっぱりわかりません」


ふん、とビルセゼルトが鼻を鳴らす。


「あの魔女の結界を破れる者などそうはいない。判った、すぐに戻る。先に戻って私が帰るとジョゼシラに伝えてくれ」


慌ただしさに怯えたグリンバゼルトがリリミゾハギにしがみ付いているのを見て、ビルセゼルトは膝を折り話しかける。


「また、近いうちに来るからね。ママの言うことをよく聞いて、いい子にしているんだよ」

「パパ・・・行っちゃイヤ」


グッとビルセゼルトの胸が詰まる。だが、それを表情に出すことなく、グリンバゼルトの頭を撫で、リリミゾハギに

「頼んだよ」

と、だけ言うと、ビルセゼルトは火のルートのある部屋へと消えた。

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