8

北の統括魔女ジャグジニアはその寝室で、眠る夫の顔を見ていた。


寝室はもとより、その居室も、魔女とその夫以外は入室できない。だから、魔女もその夫も、安心して過ごせるはずの部屋だ。


けれど、ここ、北の魔女の居城に住む夫婦にとっては違っていた。


もちろん安全は確保してある。城は強力な結界に守られ、城の内部にも大勢の魔導士が詰めて、それぞれの任についている。警護魔導士も充分に配置している。


だが、この城の三の塔の最上階に閉じ込めた魔導士が、逃亡のチャンスを虎視眈々と狙っていることを魔女もその夫も忘れていない。


もしあの魔導士が、何かのきっかけで解放されてしまったら、その時、再び封じ込めることができるだろうか? 常に北の魔女はそんな不安を抱えている。


私には無理だ、と北の魔女は思う。臣下たちが力を合わせたところでかなわないだろう。


頼みの綱は、夫のみ、それとて互角と夫は言う。だから、監視を怠るな、と。


全て私が引き寄せてしまった事、北の魔女の頬に後悔の涙が光る。夫の顔を見詰めながら、申し訳なさと、夫への愛しさで胸が苦しくなっていく。


その顔に触れたい。でも触れれば、この人を起こしてしまう。この人は、きっと熟睡するということがない。


あの、九日間戦争の時から、その少し前から、私があんな我儘わがままを言い出した時から、この人の心は安らぎを忘れてしまった。


誰よりも誠実なこの人に、なぜ私は隠し事をし、意地悪を言い、困らせ、責任を押し付け、悩ませたのだろう。


最初から打ち明けていれば、聡明なこの人は必ず解決策をいだし、私を助けてくれたのに。


北の統括魔女になど、ならなければ良かった。私には荷が重すぎたのだ。


この人が望んだように、街の魔導士の妻となり、街の屋敷に住み、この人の家族と共に、笑って暮らしていれば、こんな事にはならなかった。


私の両親を呼び寄せて、みんなで幸せに暮らせただろう。


だが時は戻らない。


私は北の統括魔女となり、九日間戦争を起こし、ギルドを二分し、夫から友人を取り上げた。そして私自身も友人を亡くした。


私の良き夫であるために、この人はどれほどの苦しみに耐えてきたことか。


判っているのに、と北の魔女、ジャグジニアは思う。


恋に酔いしれたあの学生時代から、ずっと変わらずにこの人は私を愛してくれている。私もこの人を愛している。


なのにまた、私はこの人をどうやってだまそうかと考えている。


騙したいわけではない。でも、この事を知ったら、この人は、怒りを抑えてくれはしない。


穏やかで慈しみ深いこの人は、だからこそ罪なき人を苦しめるなど許しはしない。


隠さなくてはならない。この人の傍にいるために。知られてはいけない。この人の愛を繋ぎ止めるために。


「うん?」


不意にホヴァセンシルがじろぎし、ジャグジニアを驚かせる。


「さっきから感じる視線はおまえか・・・」


眩しそうな目をしてホヴァセンシルがジャグジニアを見る。


「どうした? 眠れないのか?」


そう言って、ジャグジニアの頬にホヴァセンシルが触れる。


「泣いている?」


自分の頬に触れる手にジャグジニアが自分の手を添える。


「夢を見ました」

嘘ではない。だから目覚めて夫の顔を見ていたのだ。


「夢か・・・」

どんな夢だった? とは聞いてこない。


涙が出るような夢が楽しい夢であるはずはない。それを語らせて、更に泣かせることはない。ホヴァセンシルはそう思っている。


「マリが・・・」

ところが聞かれもしないのにジャグジニアが話し始める。


マリとはマルテミア、学生時代にはジャグジニアにとって無二の親友。


そして九日間戦争当時の西の魔女で夫はサリオネルト。西の城の落城の時、夫とともにこの世を去った。


「マリが微笑んでいるのです。微笑んで、私を見ているのです」


ジャグジニアから嗚咽が漏れる。そのジャグジニアを、腕を伸ばしてホヴァセンシルが抱き寄せる。


「微笑んでいたのだろう? 泣くような夢じゃない」


そう言いながらホヴァセンシルも、それは違うと判っていた。


ジャグジニアはマリの死に責任を感じている。だから、マリの微笑は責め苦にほかならないのだ。いっそ、なじられた方が気も楽だろう。


ホヴァセンシルとて何度も、サリオネルトの夢を見ている。やはり、いつも明るい夢だ。


陽の光を受けてきらめく黄金色の髪がサラサラと風になびき、時には暗い閃光が迸る琥珀こはく色の瞳が、その時は悪戯いたずらそうに輝いて、ホヴァセンシルを呼んでいる。


人懐ひとなつこい笑顔、それが、弓の弦が切れてしまったと、残念そうに言い、今度は悲しそうに笑む。


そして、頼んだよ、と手を振る。


俺は何をすればいいんだ?


叫ぶホヴァセンシルに後姿を見せると、急に現れたマルテミアと微笑みあってどこかに行ってしまう。


追っても追いつけず、そして目が覚める。


げん王はサリオネルトであり、死罪を求める。


そんな告発状をギルドに届けたのはホヴァセンシルだった。


緊急招集が掛かったギルド会議で、サリオネルトを処刑しろ、と書かれた告発状を読み上げたのはホヴァセンシルだった。


その文章を書いたのもホヴァセンシルだった。


それを、サリオネルト本人、そしてその双子の兄ビルセゼルトの目の前で読み上げたのはホヴァセンシルだった。


ビルセゼルトたちとの連絡方法を失したあの時、それが最善だとホヴァセンシルは考えていた。


ビルセゼルトが、ギルドにサリオネルトの処刑を認めさせるはずがないと信じ、

戦争もやむなし、だがサリオネルトに罪がないことを証明できれば、

終戦に持ち込んで、サリオネルトを助けられると信じた。


妻を納得させる自信もあった。


サリオネルトの処刑を求めたのはジャグジニアだった。サリオネルトが示顕王であり、示顕王が災いをもたらすと思い込んでいた妻を説得するにはそれしかないと思ったホヴァセンシルだった。


けれど九日間戦争では示顕王の正体をつかむこともできず、サリオネルトが示顕王だったか否かもわからないまま、西の城は落城した。


西の魔女とその夫は死し、戦火のなか、二人の間に生まれたはずの息子の行方は判らなくなった。


「サリオネルトの息子をなんとしてでも見つけ出す。見つけて保護しなくてはならない」


ポツリとホヴァセンシルが言った。


「ホビス・・・」


抱き寄せたジャグジニアの額に、自分のあごを押し当ててホヴァセンシルが言う。


「マリはきっとおまえに息子を見て欲しいんだ。サリーだって俺に息子を見せたいはずだ。どちらに、より似ているか楽しみだね」


「でもホビス・・・その子は示顕王かもしれない。それに私たちはあの二人を追い詰めた」


「示顕王? それがどうした? まだやっと歩き始めるかって赤ん坊が、どうやって災厄をもたらすんだ?


そして、サリーの懐の広さをおまえも知っているだろう?

あれはあれ、これはこれ、と、割り切るところもアイツのいい所だった。


そしてマリは一切、難しく考えることをしない人だった。

その二人が、赤ん坊の事で政治を持ちだすと、俺には思えない」


西の魔女が見つければ、無傷で連れてこいとの命令が破られる危険がある。命すらあやうい。なんとしてでも我らで見つけ出さなくてはならない。


ホヴァセンシルの言葉に『西の魔女』と聞いてジャグジニアが黙った。これ以上話せば、隠し事のボロが出るかもしれない。


「ホビス・・・」


自分にしがみ付いてくる妻の恐れに気が付かないまま、ホヴァセンシルは妻をきつく抱きしめた。

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