第4話 傷だらけの君は花火 [2]

九時頃、プレハブに戻ると瑞稀はすでに起きていた。

服を着替えて僕の帰宅を待っていたらしい。


「遅いよ、透」

彼女は頬を膨らませて剣呑な視線を向ける。

「ごめん」

即刻謝った。


逆らってはダメな空気だ、これ。

瞬時に察知し、ショッピングモールへ行く準備を僕も済ませた。

その間、わずか四〇秒。自己ベスト更新だ。


冷や汗をかいて瑞稀の方を向くと、よろしいと言った表情で頷いている。

どうやら少しだけ、機嫌も直ったらしい。

僕らはプレハブを出て、この町の小さな駅に向かった。電車に乗って、ショッピングモールへと行く。

忙しない朝だった。照り射す太陽の光。隣の席の瑞稀は、いつにも増して笑っていることが多かった。


「頭を撃ち抜いたら、気持ちいい日だね」


ショッピングモールは賑わっていた。

周辺の住人のほとんどが、気晴らしやデートでここに集まっているみたいだ。

瑞稀ははしゃいで、次々とモール内を回った。どこに目を向けても、あの町では見られない物がショーウィンドウに陳列されている。雑多で色鮮やかな場所だ。

朝ご飯にジャンクフードを食べてから、僕らは遊んだ。施設内は僕が下宿する街にそっくりだ。でも、あの街よりも楽しい場所だ。

瑞稀にもそう感じてもらえるといいな。

僕は先を歩いて、嬉しそうに次のお店を指差す彼女を見てそう思った。


ショッピングモールの全店舗を回ろう。

瑞稀の突拍子もない提案は半日でようやく達成された。飲食店は特に辛かった。店員や他の客の視線が辛い。

彼女は軽自動車にFワンのエンジンを積んだように、猛烈な勢いで動き回る。ついて行く僕の都合なんてお構いなしだ。そのほうが瑞稀らしい。僕は黙って従った。


それから映画も見た。

「スプラッターはないね」

いじわるな笑みを僕に向けて瑞稀は言う。まだ憶えていたのかと僕は苦笑した。


「関係ないよ」

「へえ、強がってるね」

瑞稀はいつもの調子で僕をからかう。

「見たい映画は他にないのかい?」

僕はそう尋ねる。

「あはは、……そうだね」

瑞稀は少し考える素振りを見せて、

「あれ見ようよ」

上映予定表を指し示した。


カッコーの巣の上で。


再上映する作品の一つだった。

聞いたことのない映画だ、どうやら洋画らしい。


「瑞稀、これ知ってるの?」

「テキトー」


僕の問いかけを気にもせず、彼女はもうポップコーンに目移りしている。

僕はチケット二人分を購入してシアターに入った。瑞稀はポップコーンのキャラメル味を貪っている。途中で飽きて、僕が残り半分を無理やり食べさせられた。

映画が始まってから、瑞稀はエンドロールまで熟睡していた。

この映画鑑賞は、果たして面白いのだろうか。結局、内容は一切頭に入っていない。

瑞稀の天使みたいな寝顔を見ているだけだった。


「そういえば、私があげたりんご飴、あの後どうしたの?」


上映後、喫茶店に入ってクリームソーダを飲んでいると、唐突に瑞稀が訊いた。


「食べたよ」

「え、ばっちい! 嘘でしょ?」

「嘘だよ、食べられないさ、あれじゃあ」

「……透のくせに、嘘なんて生意気だよ」


拗ねたようにクリームソーダを吸いながら僕の顔を見る瑞稀。

僕は困った。本当の結果を話してもよかった。だが、それを何故だか瑞稀に言いたくなかった。


「ねえ、話題を変えようよ」

思った以上に大声が出ていた。

「大学が始まったらさ、一緒に暮らそう」

僕は前から考えていたことを話した。

「二人でこの夏みたいにずっと過ごすんだ。来年は花火大会にも一緒に行こう、りんご飴とか買ってさ。なあ、楽しそうだろ」

自分でも気持ち悪いほど舌が良く回った。


「……いいよ」


少し考える素振りを見せて、瑞稀は頷いた。

僕は我慢できず、ガッツポーズをしてしまった。その子供っぽさに恥ずかしくなる。

赤面していると、瑞稀が僕を指差して笑った。すこし照れた横顔で。

その時に見せた笑顔は、ひどく優しい印象を僕に与えてくれた。


瑞稀は僕に、彼女の下宿先の住所を教えてくれた。そして、小さな鍵を僕の手のひらに握らせる。


「戻れたら、一緒に行こうか」


僕は力強くうなずいた。あの街に帰るときの楽しみがまた一つできた。

とにかく、その日は激動のような一日だった。


外に出たとき、もう日が落ちていた。

僕らは他愛のない話ばかりをした。帰り道が短く感じられた。駅についても、その話は続いた。きっと車内でもうるさくなるな。

切符を買って、僕と瑞稀は一緒に改札を通った。

瑞稀は電車に乗る前にトイレに行くと言った。


「車内は嫌だからね」

瑞稀は僕に、先にホームへ行っておくようにと、手で払った。

「女の子には色々あるんだよ」

僕はまたいつもの気まぐれか、もしくは嘔吐かも知れないと思った。

「気分は悪くない?」

心配を声に表した。だが、彼女は吹き出すように笑う。


「絶好調さ、すぐ行くよ」


瑞稀はトイレの前でピースサインを作る。

その状況は、端から見ればすごく恰好悪いはずなのに、瑞稀だと妙に様になって見える。

僕も相当おかしくなってるのかもな。瑞稀の影響を受けているのだろう。

小さく笑いがこぼれた。

僕は素直に従って、一足先にホームへと行った。人は少なかった。ショッピングモールの客も何人かいるはずだ。

僕はスマホをいじっていた。


もうすぐ帰りの電車が来る。

瑞稀は間に合うのだろうか。

どうにも不安になったが、僕が乗らなければいいと考えることにした。

終電はずっと先だ。

まだ次があるさ。


スマホの画面を久しぶりに開いている。瑞稀と過ごすようになってから、ほとんど触らなくなっていた。充電の減りも遅い。

僕は画面を確認して、次のアルバイトのシフトはもう二日後に迫っていると思った。

こんなに日々が早く過ぎている。そう感じると、僕は自分が本当にこの町を楽しんでいたのだと思った。

瑞稀はこの町が嫌いと言った。でも、僕は気に入っている。

いつか瑞稀と、また一緒に来ることができればいい。何年後になるか分からないけど、不可能ではないだろう。


その時、僕らはどうなっているだろう。




「透ー!」


ふと向こう側から、聞き慣れた声が聞こえた。僕は顔を上げる。

向かい側のホームに瑞稀がいた。

何をやってるんだ。自分の乗るべき電車を勘違いしている。そんな間違い、大学生にもなって普通しないだろう。

僕は苦笑いを浮かべ、こっちだよと呟いた。

向こう側で瑞稀は僕の名前を大声で呼び続け、手を振っている。

ひどく恥ずかしい。

早くこちらのホームに来て欲しい。

周りのことも考えてくれ。

そう思いながら、僕は瑞稀を恨めしそうに睨んだ。瑞稀はさらに嬉しそうに笑う。

完全に弄ばれている……。

僕は知らんぷりをした。

放っておけばいい。そのうち飽きて、こちら側のホームに渡ってくるはずだ。

彼女を待ちながら、そんなことを考えたとき、不意に声が止んだ。

僕はゆっくりと顔を瑞稀の方へ向ける。彼女は笑っていた。僕も笑い返した。


「透ー」


もう一度、彼女が僕の名前を間延びした声で呼ぶ。

僕は黙った。

瑞稀は挨拶をするような声で、また僕を呼んだ。そのまま言葉を出し続けた。


「やっぱり私、透とは暮らさないことにした。お別れ、だよ」

 

……彼女の言葉が、うまく飲み込めない。

僕は少しのあいだ、思考が停止していた。

何が起きたのだろう。信じられない。僕は自分の耳を疑った。

視線を瑞稀に向ける。笑っている彼女が見える。


嘘じゃないよ、彼女の口が動いた、嘘じゃないよ。


「嘘じゃないよ」


僕は身体が冷えてしまった。いや、それとも熱いのか?

混乱する頭を整理し、僕は返事した。

またいつもの気まぐれかい? そう言ったつもりだった。

でも、思ったように口が動かない。

舌が微震して、僕の声は望んだ形とは別の言葉を作った。


「……なんでだよ。瑞稀は、僕が嫌いなの?」

「嫌いじゃないさ。大好きだよ」

「なら、どうしてさ!」


思わず叫んでいた。でも、到着を告げるアナウンスにかき消えた。

怒りが湧いていた。それ以上に、悲しみでからだが押し潰されそうだった。

ショックだった。

僕を裏切らないと思ったのに、どうして。


「飽きちゃったんだ、この生活に」


淡々とした口調で瑞稀は喋った。

電車の警笛が聞こえてくる。


「透、君とはここまでだよ」


瑞稀は柔らかな目元を丁寧に歪ませる。

いままで見せたことのなかった、優しすぎるほどの切ない笑みをみせた。


「――ありがと」


瑞稀は、身を投げた。


夜の駅。

向かい側のホーム。

急流のように突っ込んでくる電車が、瑞稀を頭から吹き飛ばす。

身体と車体が接触し、同時に彼女の命はほんの一瞬で尽き果てた。

指先さえも、僕は動かせなかった。

声も出せなかった。

鈍く弾ける音がしたことにようやく気が付く。

肉体の破片が、内臓が、血が、線路の一帯に散っている。

煙のような白い気体が漂っている。

強い臭いが鼻を突いた。


瑞稀だった。

夢で再会した少女に似ている瑞稀だった。

瑞稀だった死体が、目の前にあった。


夜の中、電灯に照らされて赤く開いていたそれは、まるで花火だった。


視界が揺れたのに、目が渇ききっていた。

彼女の最期の声と笑顔が光となって、僕の網膜に鮮やかな色彩をもって張りついた。だがそれは数瞬の内に、ことごとく色褪せてしまった。

瑞稀の影は強く煌めき、またたく間に消える。薄れ火のように儚く。

夜の駅舎に次々と小さな悲鳴が上がった。

駅長を呼びに行く青年。腰を抜かした女性。

騒然とした場所に僕はいる。

誰もが信じられないと首を横に振っている。吐きそうになっている者もいる。

僕は立ち尽くし、彼女の亡骸を見ていた。


必死で直視した。

失いたくない。

瑞稀の見せてくれた彼女自身の何もかもを僕の思考から離したくなかった。つなぎ止めたいと強く願った。

少しして、地元の警察官が駆けつけた。現場が取り押さえられる。ブルーシートでホーム一帯は制限された。瑞稀の死体が黄色い布のような物で覆われ、運ばれて行く。


線路の血を洗い流すと、警察官は帰って行った。僕は彼らに同行し、その日の内に聴取を受け終えた。

警察署を出たとき、すでに夜明けだった。朝日が昇り始めていた。清澄な空気に張りつめた道を歩き、駅まで向かう。

駅のホームは整然としていた。昨日のことが嘘のようだ。


僕は自分が抜け殻になったと思った。

あの瞬間以来、どんな感情も湧いてこないのだ。


そういえば明日はバイトだ。

シフトは一三時からだった。

疲れをとるために眠らなければ。

僕は快速電車ではなく、普通電車に乗って自分の下宿へ帰った。景色も見ずに僕は寝ていた。無意識に乗り換えを済ませた。

到着まで五時間かかった。


後日、瑞稀の葬儀が行われた。

僕は通夜と告別式、両方に参列した。喪服に袖を通し、快速電車で三時間のあの場所に向かった。

焼香を終えて、彼女が斎場に運ばれて行くのを見送った。棺の中は一度も見ていない。見ることができなかった。

哲郎は終始泣いていた。

瑞稀の両親は親戚への挨拶で忙しいみたいだ。母親は僕を見て、汚物に出くわしたように顔を歪ませた。父親はしきりに、娘は強い人間ではなかったのですと言っていた。

それを聞いて、靄のような苛立ちが沸いた。殴りかかりたいと思った。しかし、できなかった。

常識的ではないと、僕の脳内で警鐘が鳴ったからだった。こんな時まで、人の目を気にしている。

僕は誰とも話さず、式が終わり次第、その場を離れた。


電車内、瑞稀に貰った鍵を握りしめる。帰途にて僕は、あの街にある彼女の下宿に行ってみようと決めた。

街に戻ると、僕は目的地へ進み始めた。

外は日が沈み始めている。夕方の風は、なぜか胸を締めつけるように淋しい。

オレンジ色の光に染まった、見慣れた街のはずなのに。

アルバイト先の喫茶店、花火大会で屋台が並んでいた通り、市街を流れる濁った川。

生前に彼女から聞いていた住所を頼りに、僕は無我夢中でその下宿を目指した。

ちょうど日が沈みきった頃だった。ようやく僕は、無事に彼女の下宿に辿り着いた。

震える手で鍵を持ち直す。

鍵穴に差し込み、ゆっくり捻る。ガチリと音がした。僕は慎重に扉を開けた。


その下宿には、何もなかった。

八帖ほどの部屋にシングルベッドと丸テーブル、段ボールが三箱置いてあるだけだった。

カーテンも無いため、壁という壁は日焼けしている。段ボール箱を開くと、大学の教材と服だけが入っていた。他には何もない。

冷蔵庫の中は空っぽだった。


僕はしばらく、瑞稀の部屋のベッドに座った。布団に彼女の長い髪の毛が落ちていた。真っ黒な、絹の糸のような質感の髪だ。

ぼんやりと、その髪の毛を拾いあげてベランダから外へ向けて飛ばした。あっという間に、夜に見えなくなる。

そうして、何もせずにベランダから室内を眺めてみた。すると、ベッドの下から僅かな切れ端がはみ出しているのを見つけた。


僕は気になり、部屋に戻ってそれを引っぱり出した。

恐る恐る引きずり取り出したそれは、ノートだった。そこからは、大量のノートが出てきた。


数えると全部で二十三冊。各自の表紙に番号だけが振ってある。

僕は開いた。それは瑞稀の日記帳だった。日記帳と言うには、内容がおそろしく統一されていた。その日、瑞稀が考えた自殺と他殺の方法が事細かに記してあるだけだった。


死にたい。

延々と続く、死にたい。

願いを込めるような、殺したい。

殺してしまいたい。

自分自身を。卑屈で陰惨な過去も未来も。

その為の手段がびっしりと、すべてのノートを埋め尽くす。


死んで何が変わるの?

私が望むものだけが今すぐ欲しいの。

あの場所で、今度こそ死んでしまえたら。

すぐにでも死んでしまいたいよ。


ある日のページに、殴るような筆致で書かれた文章。

僕はその言葉に目を釘付けにされた。

日記帳を閉じたとき、瑞稀の柔らかく、ひどく敏感な部分に僕は触れた気がした。

あの明るい瑞稀の笑い声を思い出そうとした。けれど、彼女の日記帳に刻まれた言葉が、その笑い声に重なって聞こえてきた。


死にたい。


僕に出会った瞬間から、瑞稀は笑っていた。


死んでしまいたい。


笑い声が確かに聞こえた。

その声は今、錆びた鉄が割れる音だ。


彼女の下宿を出るとき、日記帳を元に戻した。あの夏の瑞稀が、僕から遠いところに離れていく。

僕の知らない彼女の姿は目の前に映る街の、夜闇の中で、鮮やかな火花を散らしながら光を放っていた。

僕はその煌めきに戸惑った。

瑞稀は、なぜ死を先延ばしにしたのだろう。

どうして、僕に声をかけたのだろう。

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