第3話 自壊してゆく僕ら [2]

赤い日の眩しさに目を焼かれるかと思った。目覚めたのは夕方だった。

昨夜の悪酔いのせいだろう。ひどい頭痛にこめかみを押さえた。起きたばかりなのに疲れ果てていた。


プレハブ内に瑞稀はいない。どこに行ったんだ。僕は服を手早く着替えた。

外に出たとき、自分が世界から取り残されたような寂しさを感じた。

瑞稀を探しに行こうと、僕は歩きだした。


彼女を探す手掛かりもなかった。

手当たり次第に、僕は町の中をひとりで歩き続けた。

その途中、哲郎に会った。彼はスクーターに跨がってどこかに行こうとしている。聞くと、実家の手伝いだと彼は言った。

彼の家は豆腐屋だった。ちょうど豆腐を届けた帰りらしい。


僕は瑞稀の居場所を知っているか尋ねた。

分からないと言う哲郎の答えに僕は落胆を隠せなかった。これ以上どこを探せばいいのだろうか。でも、探すしかない。会いたいなら、探さなくては。

彼に礼を言うと、また歩きだそうとした。

僕は早く瑞稀に会いたかった。


「乗っていくか? 探すならコレの方が早いだろ」


哲郎が僕を引き留めて、スクーターの座席を手のひらで叩いた。


「遠慮しなくていいぜ」

「でも、いいのか、家の人には連絡しなくて大丈夫か?」

「気にするな、親父には後で謝ればいいさ」もう一度、スクーターを叩く。

「乗らないのか?」

「……頼む」


僕は哲郎の後ろに座った。

捕まってろと、彼は僕の手を自分の腰に回してホールドさせる。

エンジンを吹かせて車体は走り出す。スピードに乗って、景色は徐々に加速しながらスクロールしていく。

瑞稀の行きそうな場所を僕ら二人は順番に回った。じきに日も沈んだ。夜になった。

何もない町だ。灯りは僅かで、星がよく見えた。羽虫が飛び回る。

すぐ見つかると思っていた。だが、彼女はいなかった。


「なあ、何か言って出ていかなかったのか?」


風に負けないように口を大きく開いて哲郎が訊いた。


「分からない、起きたらいなくなってた」


僕も声を張り上げた。

顔に吹きつける蒸し熱い風に、僕は思わず目を閉じる。


「昨日のことだけどさぁ」

哲郎が上ずった声を出す。

「瑞稀に言ったのか?」

「言ったよ。流れで、ついさ」

「言っちまったかぁ……瑞稀はなんて?」

「何も。ただ面倒そうにしてたよ」

「……もしかしたら、あそこかもしれないなあ」


僕の言葉を聞いて哲郎は考える様子をした後、そう言った。

途端、さらにスピードが上がった。三〇キロはすでに超えているだろう。車体は加速していく。


「目を開けてみろよ」

前で彼が言う。

「すげえ気持ちいいぞ」


僕は恐る恐る閉じていた瞼を持ち上げた。風で痛い目を耐えた。

眼前に広がる景色は、延々と続く夜の田園だった。若い稲を揺らし、穂先が擦れ合うときに鳴る音が、加速で生まれた風の吹き抜ける音とエンジンの音に挟まれて、小さく聞こえていた。

遠くに目を向けると、水を張った田んぼが青黒く光輝いている。

声も出せない。僕は圧倒された。

哲郎が笑っていた。僕も自然と笑ってしまっていた。

田園を抜け、民家が並んでいる路地を抜けていく。ヘッドライトに照らされる道路を、日の落ちた星空の下で走っていた。


ようやくスクーターが止まった。そこは小学校だった。


「ここにいると思うぜ」


哲郎はスクーターを校舎の陰に覆われるように駐輪した。

彼は黙々と歩きだす。砂埃の舞っているグラウンドを横切る。僕も後に続く。

体育倉庫の前に立つと、おもむろに重厚な鉄の扉を哲郎は開けた。倉庫の中は石灰や汗の臭いが混ざっている。


「誰?」


奥から聞き慣れた声がした。僕は走り出して、声のした方へと向かった。

体育用具に囲まれて、瑞稀が立っていた。彼女の手にはビニール包みが握ってある。


「透だ、それに」

黒くて、折れそうなほど細い人影が揺れた。

「……テツも来たんだ」


瑞稀が僕らのことに気付いたらしい。

目の前に近づいてきて、彼女はそのビニールを僕の胸元に押しつけた。


「花火、しようよ」


それは市販の花火セットだった。ビニールの中にはカラフルな花火がすき間なく詰め込んであった。

瑞稀の顔は暗い空間の中、ぼんやりとした影に覆われていて無表情だ。


「分かった、花火しよう」


後ろにいる哲郎にも聞こえるように、大きな声を出した。

三人でグラウンドに出た。瑞稀がバケツに水を汲んできた。僕と哲郎は蝋燭の支度をしていた。闇の中で人の動く姿は見えず、いきれや蠢きだけが感じられた。

哲郎が身をかがめて蝋燭の先端に火を灯した。その周りの濃い闇が薄れた。

まだ僕らの顔は見えない。

透明なビニール包装を破く音がする。

少しして、火の側に真っ白で細く、とても華奢な手が花火を持ちながら近づいてきた。

そして、先端が着火した。


弾けた。


音が破裂した。淡く飛び散る火花の影。

僕らの身体を暴れるように光が包み込み、真下から噴き上がって闇を払い、露わにした。僕がいた。

哲郎がいる。

瑞稀が手に持っている花火を次々に点火する。彼女は笑っている。


「透も早く。さあ、急いで火を点けて!」


僕たちは一斉に動き出した。花火を次々に点ける。火花が連続する。火薬の臭い。歓声が上がる。眩さに興奮した。儚く移り変わる闇と光の中で、人影が何度も交錯した。夏の暑さが、放出される火花の熱に溶け合っていた。


花火はあっという間に終わった。後に残った煙が鼻腔を刺してくる。


「線香花火は嫌い」


瑞稀が嫌がったので、僕と哲郎も手を付けずにいた。煙に満ちていた辺りは、使用した蝋燭の灯りでわずかに照らされている。

闇に目は慣れ、それぞれの顔がぼんやりと見える。表情までは分からない。

僕は息を吐き、揺れる灯の穂先を眺めていた。強烈な猛りの後には、倦怠感と空しさが残った。


「憶えてたの、この倉庫」

「もちろん」

哲郎は低く呟いた。

瑞稀の舌打ちが聞こえた。

「そうだね、テツは見てるだけだった」


二人の間には見えない糸が繋がっている。それは微妙なバランスで、辛うじて保たれた緊張感を作っていた。

押し黙る哲郎を瑞稀は正視しているのだろう。

哲郎もまた彼女の顔を、蝋燭の火に合わせて影の揺れるその表情を見ているのだろう。

僕は二人の間に立ち入れない。限界まで張りつめた空気が、些細なきっかけで容易く解けてしまいそうに思えた。

それを怖れて、僕は動けずにいる。

二人の会話をただ聞いているしかなかった。


「悪かった。後悔してるよ、あの時俺が動けていれば、瑞稀があそこまで傷つくことはなかった。だから」

「いいよ、謝らなくても。そんな言葉が聞きたくて、いままでテツと過ごしてた訳じゃない」

言葉を遮るように瑞稀の声が夜に響くのを聞いて、息を呑む。

「あの時私を見捨てたテツを、今さら許したりしないから」

「分かってる。だけど、だからこそ許してもらえるまで、俺は瑞稀に謝る必要があるんだ。いや、俺自身が謝りたいんだ」

「そうじゃないよ、テツは勘違いしてる。何をしようとテツがしたことは消えないんだ、私の過去が消せないように。テツが謝っても、私が幸せでいられたはずの時間は、絶対に戻ってこない。ぜんぶ無意味だよ」


風がなくなった。

汗が肌を濡らした。Tシャツの下が蒸れている。

瑞稀の言葉に哲郎は強く叫んだ。


「仕方なかったんだ、無視しないと俺まで……!」


今まで避けていた彼ら二人の過去の核心に、彼女が深くメスを入れた。

切れ込みから幼い後悔と消せない過ちを噴出させて、哲郎を苦しめる。

僕の目はもう闇に馴染んでいた。二人のつながりを見つめることができた。


一歩、瑞稀が近づいた。闇の中にその顔が浮かび上がった。

「テツの気持ちはさ、贖罪じゃなくて罪悪感でしょ」

微笑みを浮かべて瑞稀は言った。

「昔からそう、傲慢なんだよ」

冷たく、感情の抜けた笑みだ。

「ちがう!」

間髪を入れず哲郎が叫んだ。

僕は思わず彼の方を向いた。

「俺は後悔してるんだ、償いたかった!」

「嘘だよ。もしそれが本当なら、どうしていままで一度も会いに来てくれなかったの? 口をきかなかったの? 施設に行く私を引き留めてくれなかったの? 結局、その程度だよ、テツの気持ちなんて。いまさら善人面したって遅いよ。もう一度言うね、私はテツを許さないよ、絶対に」

「……透! 透だっていじめっ子だ、お前の敵みたいな存在じゃないか。あいつを許して、なんで俺は許されないんだよ! おかしいじゃないか、なあ、瑞稀!」


哲郎は悲壮さを全身に纏って叫んでいた。無我夢中で言葉を言い続ける。

僕は彼の声を静かに聞いていた。

瑞稀は蔑むような目を彼に向けている。

哲郎の怒号が自分の耳に凄まじい速度で届く。

頭の奥の方へ爆音のように重たく響いてくる。

聞いていると、彼に対する感情がだんだん薄れていった。

瑞々しかったものが死んでしまったようで、それはひどく切ない。


叫んでいる最中、哲郎と僕と、一瞬目が合った気がした。闇の中のはずなのに、彼の顔が鮮明に見えたのだ。

哲郎の顔は、醜く、歪んでいる。

僕と彼は視線を重ねる。途端、冷静さを取り戻したのか、彼の顔から血の気が引いていった。唇をきつく閉じ、拳をギリギリと、力を込めて握った。

僕の方にもう一度視線を向ける。嘲るように、軽蔑の表情を彼は目もとに滲ませる。涙袋に小さな皺が刻まれる。


「なあ、本当のことだろ。透からも言ってくれよ!」

「僕は……」

「二度と顔を見せないで」

瑞稀がぽつりと呟いた。

「私はもうテツに会いたくない」

そう言い終わったとき、哲郎の表情が固まった。

「帰って」

今度は大きな声で、語尾を切るように瑞稀は言った。

「帰って」

「……分かったよ」


哲郎が肩を落とした。背を向けて校舎の方へかけ出した。駐めていたスクーターを押しながら、校門の方へと進んでいく。

彼の背中が闇に沈んでいく。大きな背中は、暗がりのなかで小さくなって僕の目に見える。


「哲郎」


僕は彼の名前を呼んだ。哲郎はゆっくりと振り向いた。


「気持ちよかったよ。哲郎と感じた風」


僕は胸の中の空気をすべて吐き出さんばかりに、声を張りあげた。

彼は数秒のあいだ静止していた。それから、また進み出した。夜の中へ、完全に姿が見えなくなる。

すぐ後を追うようにエンジンを起動させて、スクーターが走り出す音が響いてきた。向こうでチカチカと点滅した光。頭上の星に似た光だ。それも消えた。

静寂のみが僕らには残った。


「花火、しようか」


黙っていた僕の側に瑞稀が歩いてきて言った。


「でも、線香花火しか残ってない。瑞稀は嫌いなんだろ、これ」

「透と二人きりで、花火がしたかったんだよ」


瑞稀は哲郎を気にもとめていない様子で話す。僕は動揺を隠せなかった。


「でも、哲郎は」

「テツの話はもういいよ」


僕の声は震えていた。

だが、彼女はそれすらも無視した。

先程の花火の炸裂が、何かを完全に終わらせてしまった。そう思った。




「瑞稀は、哲郎を恨んでるのか?」


僕の質問に瑞稀は答えない。じっと黙って、花火の先を垂らしている。

やはり聞かれたくないのだろうか。僕はもう一度尋ねるか迷った。それ以上を口にできず、どう伝えるべきか分からない。結局、自分の持ち得る言葉では足りないみたいだ。

僕も大人しく、花火を灯した。ゆっくりと火薬が爆裂を始める。

チカチカと微細な影を作って、線香花火は弾けている。僕と瑞稀はしゃがんで、花火の光を見つめていた。

無言で囲んでいる、僕ら二人だけの秘密の輝きを。その秘密は、数秒もしたら衰え始めて、力なく光源とともに落下してしまった。

地面に落ちた線香花火の突端は土を焼く小さな音を出して消滅した。


「私さ、卒業式にも出られなかったんだ」


次の花火に火を点けながら、瑞稀が唐突に声をこぼした。

僕はそう、と応えた。


グラウンドのすぐ横に校舎がある。モルタルの壁に茶色い染みがいくつも付着している。

座っている分、僕らの視点は低くなった。

校舎は巨大な山のように見えた。あの山の影が僕らの身体を覆い尽くす。僕らは動けない。

線香花火の灯りはその影の中で、弱々しく光を散らしている。


「学校に行くのを肉体が拒絶してるんだよ、行こうと思っても今日は外に出たくない日だなって、それがほぼ毎日続くんだ。たまに外に出るとね、何もかもが変わり果てていてさ。もっと外に出たくなくなるんだ」


瑞稀は僕にかまわず話し続ける。彼女の瞳は火花だけを見つめている。

まるで自らの身を削るように発光し、死に急ぎながら花火はその輝きを終わらせていく。空に雲のないおかげで星が綺麗に見える夜なら、顔を上に向ければ、さぞ美しい光景が見えるはずだろう。

でも、僕ら二人は次々に線香花火を灯しては、顔を下に向け続けていた。

そこにこそ輝きがあると祈るように。


「怖いよ、いつのまにか私の知らない場所になってるんだから、音も立てずに消えちゃったみたいに、いなくなるんだ。私の欲しいもの、全部無くなってしまうんだ。だから執着してしまう前に自分から手放すの、変わってしまうことに傷つかないために」


「変わらずにはいられないものもあるはずだろ」


「透は強い人だから、そんな事が言えるんだよ。確かにさ、力がないものには、どうにもならない事だってある。でも、受け入れられるかは別さ」


「僕は弱い人間だよ」


「みんな自分では気付かないんだ。でも、私には見えるよ、透は確かに強い」


「それなら、僕なんかより瑞稀の方がもっと強いよ」


「ううん、違うよ。私の強さはね、もうへし折られてしまったんだよ」


瑞稀が笑う。何もかも諦めたような笑顔で僕を見る。

こんなにも弱々しい彼女を初めて見た。

瑞稀は僕にとって理解不能で、美人で、変人の先輩だ。

でも、いま僕は瑞稀の言葉に共感していた。

思わず泣きそうになってしまった。


僕と瑞稀はきっと似ていたんだ。だが、僕はいまこの瞬間まで気付かなかった。

僕らは似ていた。それが嬉しかった。

決して喜ばしくはないものでも、僕と彼女の間には確かな絆があるのだ。

仄暗く、同時に煌めきを放つように、僕らは無力さの中で脆く、弱々しく結びついていたのだ。


僕の手に持っていた線香花火の灯が消えた。動き出さなくてはならない。

僕は立ち上がった。

走り出した、突き動かされたように。

もう止められないだろう。


「どうしたの?」


瑞稀が不思議そうに僕を見ていた。

彼女に答えることなく、僕は走る。

グラウンドの真ん中で立ち止まった。

スニーカーの踵を地面に打ち立て、それから引きずって線を引いた。

真っ暗で見えない。

感覚のみを信じた。

足の動きと自分の思考を一致させて線をつなげる。

グラウンドに大きく、形の崩れた漢字四文字を書いた。


卒業証書、と。


僕は瑞稀のいる方を向いた。蝋燭と花火の微弱な光が地面すれすれに見える。

すぐ側には立ち上がった瑞稀の影がある。


「瑞稀!」


僕は大声を出した。息を限界まで吸いこんで吐き出した。


「卒業証書だよ! 君の卒業を祝して、この卒業証書を進呈する!」

胸が張り裂けんばかりだ。

「なーにー?」

瑞稀は笑いながら、こちらへ声を出す。

「卒業証書だよ。グラウンドに書いたんだ、卒業証書って」


子供騙しだ、こんなもの。

そんなことは分かっていた。最低でくだらない座興だ。

でも、この声が届けばいい。


誰かに何かをしたい。

取り返せない時間を否定したい。


そう願ったんだ。


「卒業おめでとー!」

「アハハ、本当に君は、最高だね。……透!」

「何だー!」

「バーカ!」


瑞稀が身体をくの字に折り曲げて、長い間、バーカ! と叫んだ。

僕は瑞稀の側に走って戻った。

彼女は花火を放り投げて、一生懸命に両腕を振り回している。

僕も同じように腕を振った。

笑い声がした。僕らはお互いにバーカと騒いで、理由も分からずに蝋燭の周りをぐるぐると回っている。行き場も分からずに腕を振り回す。回転を続けている。目が回る。

地面に倒れた。はずみで蝋燭の火が消える。

一転して、真っ暗だ。視界が闇に埋まった。見上げると星だけが見えた。噴きこぼれるような星だ。

息切れがした。それでも、無理やり笑ってやった。

瑞稀の顔がすぐ目と鼻の先にあるのを感じる。お互いの息がかかる。熱くて、湿っていた。


「私の卒業証書、大きすぎて、持って帰れないよ」


彼女の顔が闇の中でうっすら見えた。


「ありがとう」


そう呟くと、小さな嗚咽が聞こえた。

涙が彼女の頬を静かに流れているのが分かった。

瑞稀が泣いている姿を見ながら、僕は「翼をください」を一人で歌った。


この大空につばさを広げ、飛んで行きたいよ。


「下手くそ」

瑞稀が耳もとで囁いた。

「おめでとう」

僕は瑞稀にそう言った。

返事はなかった。

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