第3話 自壊してゆく僕ら [1]

河原からの帰り道、哲郎から聞いた言葉が頭から離れなかった。

彼女がいじめを受けた過去の話は、深く重たい楔を僕の心に打ち込んだ。

僕はひどく落ち込み、動揺した。

僕は哲郎に自分の過去を打ち明けてしまった。

きっと贖罪ではない。もっと別の、醜い何かだと思う。

あの時、僕は自慰的な機会に飛びついただけだ。


プレハブ小屋に戻ってから、瑞稀と二人で夕食を食べた。

カセットコンロを使って沸かしたお湯で、カップ麺を二人分作った。

啜りながら、僕は哲郎に話したことを後悔し続けていた。

あの時、彼の視線から軽蔑を感じた。隠していれば知られるはずが無かったのに、言わずにいられなかった。

自分はこれほど口軽くものを言えたのかと恥じた。一時の感情で関係が壊れる可能性を作ったと考えると、愚かな行為だったと思った。

その日は食事も進まなかった。僕は早い時間に床についた。


夜半、慌ただしい物音で目が覚めた。

プレハブの扉を乱暴に開け放つ音だ。

離れから瑞稀が走り出ていったようだった。


こんな夜中にどうしたのだろう。

僕は気になって、部屋の明かりを点けた。

暗い室内は、あっという間にはっきりとした光景に変わる。

開けっぱなしの冷蔵庫、その周りにスナック菓子が散乱している。

無造作に、次々と開けられたお菓子の包装ビニール。


尋常じゃない。


即座にそう思い、タオルケットをはね除けて、瑞稀の後を追った。心臓が痛いほど速く鼓動した。


瑞稀は本邸側にある庭の前でうずくまって泣いていた。植え込みに顔を近づけて嗚咽していた。すると、彼女の口元からボタボタと黄色い液体が出てきた。

酸性の臭いが届く。

瑞稀は吐いていた。吐瀉物はまだ原型が残っているものが混じっている。さっき見たスナック菓子だ。


「……見つかっちゃった」


ぜえぜえと息を吐いて、瑞稀は僕にへらへら笑いかける。顔が土気色をしていた。


「食べても、すぐ吐いちゃうんだ。摂食障害ってやつだよ」

「いつから?」

「小学生の時からさ、何食べてもそうなの。参っちゃうよね、ホント」


瑞稀は落ち着きを取り戻したのか、いつものように高い声を出し、笑顔を向ける。

僕は彼女の背中をさすった。


「優しいね」

そう茶化す瑞稀はぶり返したのか、胃の内容物を一斉に吐いた。


夜の暗闇に彼女の嘔吐きと、臭い立つ吐瀉物が地面に落ち続けた。

不意に、バン、と大きな音がした。

驚いて立ち上がり、辺りを見回した。目の前にある大邸宅の引き戸が開いていた。その中から皺だらけの顔の、和服に身を装った女が出てきた。


「母さん」


弱々しい声で瑞稀が呟いた。

彼女の母親は、娘とまったく似ていない。夜だから曖昧にしか見えないが、厳しい顔つきをしている。表情が岩のように固まっている。

僕は瑞稀の介抱をしてもらおうと、その母親に声をかけた。


「すいません、娘さんが体調不良で。すぐに――」

「汚らしい。掃除したら早く出ていってちょうだい、目障りだわ」


それだけ言うと、母親は薄い羽織の袖で鼻を覆った。こちらを一瞥し、ピシャッと引き戸を閉め、襖の向こう側へ入っていった。

呆然と母親が立っていた場所を僕は見ていた。

瑞稀はまた吐いている。酸性の臭いだ。

思い出して、瑞稀のすぐ傍にしゃがんで背中をさする。

彼女の目尻が薄く濡れている。


「相変わらずだね、あの人も」

弱々しい笑みを作って、彼女は力尽きたように地面へ倒れ込んだ。

「透、小屋まで運んでよ。ちょっと立てないや」


ひとまず瑞稀をプレハブに運び、楽な姿勢で休ませた。そのあいだ、置いてあった新聞紙や古雑誌で彼女の吐瀉物の跡を掃除した。

付近を散水し、全て片付けてから戻った時、瑞稀は薬を水で流し飲んでいた。

何種類もあった錠剤の中から四つを服用したらしく、破れた包装が床に転がっていた。


「大丈夫か?」

「だいぶ落ち着いたみたい」

手を振って彼女は僕に応えた。

「助かったよ。ところで透は驚いたかい、こんな姿を見てしまって」

僕は首を横に振った。

「どうして?」

瑞稀は興味深そうに僕を見つめ、尋ねた。


線の細い身体で、僕の方へと撓垂れかかる。

彼女の体温と体重がこちらに向けられる。

運んだときも思ったが、彼女の身体はあまりに軽かった。


「瑞稀は僕にとって謎だらけだ。謎が一つ解けただけだろ」


 僕の答えに瑞稀は愉快だと言いたげに身体を揺らす。


「特別に教えてあげるよ」


肩をすくめ、本題から入っていいよねと僕に聞いた。もはや誰の許可も求めてないはずだ。

瑞稀は勝手に話し始めた。

彼女のいじめが執拗に行われた小学六年生の時だ。

虫や汚水を無理やり飲み込まされ、乱暴されて、ストレスから胃が食べ物を受け付けなくなったこと。

それが原因で摂食障害になり、そのまま不登校になった。

彼女はいじめのことを話しながら、僕が驚かずに聞いている理由を尋ねた。


「哲郎から教えてもらった」


僕がそう答えると、瑞稀は溜め息を吐いて、

「つまらない事してくれたなぁ」

と、面倒そうに呟いた。

「まあいいや、続きを話そう」


瑞稀はその後、心に負った傷を中々癒やせなかった。

不登校は三年にわたって続いた。

彼女は狭いこの町で、腫れ物のようになっていた。

次第に親も諦めて、瑞稀を見る目はわが子への同情から、疎ましさへと変わった。そして、僕らがいるこのプレハブへ強制的に隔離したらしかった。

数日が経ったとき、遂に彼女は自殺を図った。


「でも、死ねなかった」


 悲しそうに、淋しそうに、瑞稀は天井にぶら下がっている小さな裸電球を見上げた。


「強度が足りなくてさ、首吊ってみたけど失敗しちゃった」


舌を出し、はにかむ。イタズラがばれたのを恥ずかしがる子供みたいだ。

瑞稀は児童相談所に預けられ、施設に半年ほど入所した。かなり暴れていたようだ。脱出ばかりを考えていた日々だったと言った。

施設を出てこのプレハブに戻ってきた彼女は通信高校を経て、今の大学に入ったらしい。


「どうかな、私のこれまで、透から見て面白かった?」


瑞稀は好奇心を隠さずに尋ねる。

僕はどう返事をしたらいいのか分からなかった。彼女の話は、面白いか否かという尺度で計るべきなのだろうかと思った。

僕は少しだけ言葉に窮した。よく考えて答えないと駄目だ。頭の中で、限りある語彙の中から答えを絞り出した。


「不思議な話だと思う」

「不思議かい?」

「ああ」


僕は不快感を滲ませて答える。

人に対し嬉々として、自分がいじめられていた過去を話すというのは普通ではないだろう。その点から見て、瑞稀は変人だと思う。

やはり僕には理解が及ばない存在だ。

そう伝えると、瑞稀はすこし考え込んだ。


「透、君はいじめを許せるかい?」


不敵な笑みを瑞稀は浮かべた。

偶然にも、哲郎が僕に夕方の帰り道で投げかけた質問と同じだ。

僕はゴクリと唾を飲んだ。

もう哲郎に話したんだ。

その内、瑞稀の耳にも入る。話せばいいと、僕は腹を決めた。

僕は息継ぐ間もなく、せっつかれるように声を出した。


「その質問は正しくない。瑞稀、僕は既にいじめっ子だよ」

話し始めれば、言葉は滝のように口から滑り落ちていく。


「僕はね、小学生の時に一人の女の子をいじめてた主犯格だ。些細なきっかけだった、その子が不出来なのを嘲って、爪弾きにしたのさ。徹底的に仲間はずれにして、自尊心をへし折ってやったよ。それでその子はね、自殺しちゃったんだ、彼女の住んでたマンションのベランダから飛び降りたんだって、六階だったらしいね。内々で自殺は揉み消されたよ。学校も事件を表に出したくないと、相当揉めた末に示談で話をまとめたらしかった。でも、分かるだろ? それからすぐに僕は学校にいられなくなったんだ、周りから白い目で見られる、アイツらも僕に同調してたのに、簡単に突き飛ばすんだ。今度は僕が爪弾きにされる番だった、そのくせ皆が僕を見ているんだ、嫌な視線だよ、視線に敏感になってさ、耐えられなくなったから転校したよ。高名な経営者だった父さんは僕を指差して人殺しが甘えるなって、散々怒鳴られて、殴られたよ。このガキ、俺に恥をかかせやがって! 母さんにお前の育て方が悪いんだって言ってさ。俺の資産が目当てで嫁いだんだろ、育児ぐらいきっちりしろ! って何度も言ってた。すみませんって、母さんは肩をビクビク震わせていつも父さんの足下に跪いてた。親に売られて、頭までイカレたのか、あぁ、なんとか言え! そう怒鳴り散らして、すぐに次の商談に父さんは向かうんだよ。母さんは泣いてた。あの時、母さんは僕に言った。透、正しくありなさい、二度と間違えちゃダメよ、人の目を常に意識するの。その時、僕は初めて母さんの悲しそうなほど引き攣った怖い顔を見たよ。透は母さんを困らせないわよね? 僕はもう失敗できないと思ったよ。僕はやり直すことになったわけだ。それから僕はずっと世間の倫理や道徳、常識に固執するようになった。こうすれば二度と、僕は誰もいじめないと安心したんだ。あの視線を向けられないと思ったんだ。母さんを困らせないで済むんだ。父さんは、あの人は母さんを怒ってぶったりしないんだ。あの人達の目の奥に映る僕の顔は、いつだって幸福で、笑っていられたんだ。それなら嘘でも偽善でもいいじゃないか、目的は達成できるはずだろ。でも、どうして壊れてしまうんだろう。ねえ瑞稀、分かるかい? 僕は許す側じゃない、許される側さ。僕を分かってくれるか? ねえ、瑞稀は僕のことを軽蔑するか?」


「透、君はやっぱり異常だね」


瑞稀は心底嬉しいと僕の肩を強く掴み、しきりに頷いた。頬を紅潮させて、白い歯を見せて笑う。


「僕は普通だ」


はっきりとした声で訴えた。


「いや、君は異常だよ、私たちは同類さ」


僕の否定の声はすぐにかき消される。

瑞稀はまくし立てる。


「私の勘は正しかったね」


キラキラとした目で僕を見る彼女は、感動に打ち震えているように見えた。


「あの夜、死にたいような顔をしてた君は、私には仲間に思えたよ」


彼女は手を叩きながら盛大に笑い転げた。


「傑作だね!」


嬉しくて、たまらないように。


「いじめ被害者の前で、自分がいじめの主犯格だったなんて言ってさあ。何を考えてるんだろうね、君は!」


これまで見たどの瑞稀とも違う、彼女の笑顔が胸に突き刺さった。


「君は最高だよ」


僕は瑞稀の姿に、すでに何を言っても無駄だと分かった。


それから夜通しで瑞稀は延々と騒いだ。

何もかも忘れてしまいたいと、胃に酒を流し込んだ。僕も彼女に付き合った。

飲料缶を開けて、スナックを食べて。むせて吐き出しては、また何か口に入れる。

騒々しくて、楽しいと思うしかない、後で振り返ると痛々しくもある夜だった。

アルコールを飲むと、瑞稀は再び嘔吐する。

途中から意識も無くなったように、会話がかみ合わなくなってきた。

脈絡のない話だけが聞こえる。瑞稀はガタガタ震えている。


「寒いよ」


そう言って彼女は自分の細い上腕を強く噛んで笑った。

僕も途中から記憶が混濁していた。

黄色に発光する夜光虫が目の前をブンブンと、音を立てて飛んでいる。

狂騒の最中、気になって聞いてみた。


「いじめっ子だった僕を、瑞稀は許せるのか?」

「許すも何も、透からの実害ゼロだし、関係ないでしょ」


彼女はすこぶる快調に、


みんなブッ殺してやる!


と、夜に叫んだ。

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