第2話 旅に出よう!

一緒に旅に出よう!


昨日の瑞稀の突拍子もない提案に、僕は諦めて従った。

一週間の休暇をアルバイト先の店長に申請した。

店長は面倒そうな表情をしたが、最後には承諾してくれた。

そうして、いま僕はこの町の駅から快速電車に乗っている。客は五人程度。

僕の隣の座席には瑞稀がいる。

二人ともリュックサックで出かけた。

僕らは車内でババ抜きをしているが、これは二人でするゲームじゃないと思った。

果てしなく退屈で、何よりつまらない。


「ババが全然こっちに回ってこないね。ねえ透、もしかしてババ抜き弱いの?」

「僕はババが好きだから、なかなか手放せないんだよ」

「アハハ、バーカ」


電車の中で二人きりのババ抜きは続いた。結局七回して、僕は一度も勝てずに終了した。

ゲームが終わったのは、単に瑞稀が飽きたからだった。その間に彼女はきのこの山を二箱完食していた。余裕綽々といった様子で。実に忌々しい。

その後、次の学期の講義に関する話や、いつもの死に方談義を二人でした。

彼女は妙に饒舌だった。


「死体を洗うバイトがあるんだって」

「何それ、ばっちいよ」

「どんな風に死ぬべきか分かるかも、ほら、いっぱい死体を見て検証するんだよ」

「いまどき無いよ、そんなバイト」


会話は果てしなく続いた。


その内、僕はこの旅の行き先が気になってきた。内容は瑞稀に一任しているけど、本当に目的ありきの旅なのか不安だった。

すでに車窓から見える景色は川と山ばかりの田舎である。野生動物注意と書かれた、黄色と黒の道路標識もある。

質問はしたくないが、仕方ない。


「ところで瑞稀。僕らは一体どこに向かってるんだ?」


尋ねた瞬間、瑞稀はピタッと談笑を止め、僕の顔を正視する。

気まずそうに頬を指でかく。

その様子に、僕は「無計画」という最悪の答えを予想した。

だが、瑞稀の答えは違った。

しかし、やはり良い答えではなかった。


「私の故郷だよ」


申し訳なさそうに笑った瑞稀は、これで勘弁してと、ポッキーを一箱リュックサックから取り出し、僕に手渡した。

それから、ちょっとお手洗いと言って、席を離れていった。


瑞稀はまたトイレか。

どうやら彼女は頻尿らしい。

忙しい人だ。


僕はひとり座席に残った。

電車は進み続けた。

今日は気持ちのいい快晴だった。


……それがどうした。


ポッキーが賄賂とは安すぎるだろう。

第一、肝心のチョコレートが溶けている。すでにベトベトだ。これでは味無しプリッツだ。何のための賄賂なのか。

瑞稀の退避行動もまた迅速だ。それが余計に腹立たしい。 

一気に憂鬱になった。彼女の地元への帰省に、僕を同行させる理由が分からない。良くない事なのは確かだと思う。

だって瑞稀だもの。もう聞くのも怖かった。


ようやく彼女の地元の駅に着いた。僕らは乗り継ぎを二回して、およそ三時間にわたり電車に揺られた。長いし、実に遠かった。

駅から彼女の実家へと歩く。

草と水の匂いがする。照りつける陽に肌が痛い。あちこちで虫が鳴いている。

田んぼや河原の見える細い道を少し行くと、一軒の壮麗な日本家屋が見えてきた。随分と立派だ。一〇〇〇坪は優にあるだろう。小屋や庭まである。瑞稀はその建物に向けて指を差す。


「透、着いたよ」

「まさかあれが、瑞稀の家なのか」


彼女は頷いた。驚いた僕は気力を振り絞り、歩く足を速めた。


「待ってよ」


後ろから呼ぶ声がする。でも、振り返るのも嫌だった。

あれ程の邸宅だ、きっと相当の出迎えが待っているはずだろう。そう思うと最後の力が漲ってきた。

邸宅に辿り着いた僕は肩で息をし、門の前に立ってインターホンを押そうとした。もう喉がカラカラだ。

その時、


「違うよ。あっちじゃなくて、こっち」

と瑞稀が僕の手を引く。

家の門からさらに離れた左の戸口へと向かった。小さな扉を開けるとそこに、さっきの小屋がある。


「ここが、私の家だよ」


プレハブで出来た小さな離れだった。

期待した僕が馬鹿だった。そう思った。



プレハブの中は思った以上に快適だった。

エアコンはある。寝床もある。冷蔵庫まである。電気が通っていて、プレハブの外には簡易トイレと個室シャワーが併設してある。

ほとんどホテルだ。これなら、まだ野宿より幾分はマシだろうと考えた。


僕は荷物を下ろすと、彼女の両親に一応の挨拶だけでもしようと思い、瑞稀に尋ねた。


「挨拶してこなくて良いのか?」

瑞稀は不機嫌な表情になって、

「いいよ、あの人達は」と言った。


仲が悪いのだろう。そう思って、それ以上の詮索は控えた。

その日、僕はプレハブ倉庫で初めて眠った。

エアコン一つでこんなに快適になるとは驚いた。おかげで僕は同室に女性がいるにも関わらず爆睡できたようだ。そのことで今朝、起きたときから彼女にずっとからかわれている。


「透はインポなの?」


瑞稀は変人だ、欲情なんてするものか。

そう口にしようとして止めた。

言ったら最後どうなるのか、さすがに気付いた。

瑞稀も女性だ。彼女にもプライドがあるだろう。下手に刺激して追い出されでもしたら、ここで野宿はまずい。もうエアコンなしでは無理だ。

脳をフル稼働して導き出すんだ、唯一絶対の最適解を!


「瑞稀の魅力を前に、僕は理性を総動員していたんだ」

「爆睡していて、その言い訳は苦しいね」


鼻で笑われた。


だから、早朝から気分は最悪だった。

僕は朝食の後、彼女が簡易トイレに行っている間、瑞稀の弱みを探すことにした。

プレハブ内にきっとあるはずだ、どうにかやり返したい。

子供じみた仕返しを考えて辺りを探った。その時、冷蔵庫の奥に何種類もの錠剤が大量に入っているポリ袋を偶然見つけた。どのような薬かは知らないが、触れてはいけないものを見つけた気がして、そっと元の位置に戻した。

心臓がひどく速まって鼓動した。落ち着くまで、深呼吸を繰り返した。おかげでトイレから戻ってきた彼女に怪しまれることは無かった。

早々に朝の支度を済ませた僕らは、瑞稀の案内で小さな町を見て回った。

大学のあるあの街に比べたら、ここは町どころか村のようだった。田んぼと畑ばっかりだ。

確かに狭いよねと、瑞稀は苦笑いを浮かべていた。


本当に何もない。

僕らが乗ってきた電車で七駅戻った所に、ショッピングモールがあって、それが近隣で最大の遊興施設だった。


「行ってみる?」

「いや、またの機会にとっておくよ」


僕らは彼女の小さな故郷の道路を歩いた。コンクリート舗装が一部剥がれていた。

小学校と中学校は、今や生徒総数が合計百人に満たないらしい。もはや限界集落だろう。


「瑞稀の地元、自然豊かな場所だな」

「まあね、本当にド田舎だよ」

「今回、なんで地元に戻ってきたんだ?」

「気分だよ。透がいれば、退屈しなくて済みそうだし」


僕はヒマつぶし要員か。

瑞稀はアハハと笑い、それから僕に謝った。

僕は別に気にしていなかった。初めて見る場所は、僕にとっても引きつけられる場所だった。何もないことが、かえって面白いと思った。無性に心地良いのだ。

早く案内を続けて欲しいと彼女に頼む。瑞稀は不思議そうに僕の顔を見つめた。


「怒らないの?」

「瑞稀には怒るよりも呆れたよ。もうこの際、この町を満喫してやる」

「……やっぱり君は変な奴だね」


瑞稀にだけは言われたくないと、僕は猛抗議した。彼女は微笑んで、出会ったときからそうさと、僕の肩を叩いた。


「行こう」


まだ案内は続いてると、瑞稀が催促する。

僕は彼女の言い分に納得いかないながらも、どうしてだか言い返せなかった。

僕は普通だ。そう言えばいいだけなのに。

喉の奥に変な引っかかりを感じながら、先へ進む瑞稀の後を追った。


それから一日かけて、小さな町を見て回ったが、結局恐ろしいほど何もなかった。

あの街で瑞稀が、何に対しても強く興味を示した理由が分かったような気がした。

歩き疲れた重たい身体を引っ張り、瑞稀のプレハブに戻ろうとしたとき、家の前に誰かがいた。

男だ。スポーツ刈りで体格は良く、盛り上がる筋肉で身体が張っている。まるでラガーマンみたいだ。

見たところ、同世代ぐらいだと思う。


声をかけようと足先を男の方へ向けた矢先、隣で瑞稀が声を出した。


「哲郎だ、どうしたの?」


その声を聞いて振り向いた男が、驚いた表情をする。


「瑞稀、おまえ本当に戻ってたのか」


事態が飲み込めない僕に、瑞稀が耳打ちする。私の知り合いだよ。


「瑞稀の幼馴染みの哲郎です、あなたは?」

「……透です、瑞稀の、大学の後輩の」


僕は自己紹介をしながら、会釈した。

哲郎という男が、物色するような視線を僕に向ける。

彼が僕に対して戸惑う様子が、こちらからも見てとれた。初対面だから、普通のことだろう。

僕らは瑞稀の案内で、とりあえずプレハブの中に入った。


哲郎は好青年だった。瑞稀の小学校の同級生で、大変気前の良い人だった。

この頃、瑞稀とばかり過ごしていたからか、同年代の男性は一緒にいて楽しかった。

話してみると、僕らはすぐに彼と打ち解けた。兄弟か親友のようだと、瑞稀も言うほどだった。

瑞稀と哲郎、そして僕。

三人で一緒に行動するようになった。

まるで昔から三人一緒に過ごしてきたみたいだと思った。


三日間でこの町のほとんどを回った。駅舎、小さな商店、山中、河原、野原。

僕は特に河原を気に入った。

黄色、赤や青の小さな花が咲き、バッタ等の虫が潜む雑草が繁茂している。その少し先に砂利を敷き詰めた岸辺があり、そこは水と草が混ざった濃い匂いにむせ返っている。

街にはない、僕の経験したことのない景色だ。

僕には淡泊な街の汚れた河川よりも、河原の濃密な清涼感が肌に合っていた。


昼下がりの河原は人が少ない。

水面は日に当たり、激しく輝いている。


「水浴びしようよ」


瑞稀は言ったそばから、全力で河原へと駆け出していった。

僕と哲郎も彼女を追いかけた。

彼女は急いでビーチサンダルを脱ぎ、後ろに放ってしまう。

瑞稀は岸辺の水に足を浸けた。


「冷たい!」


陽気に騒ぎながら水を蹴り、笑っている。

水滴が彼女の周りで跳ねる。日に光る。

自らの感情を惜しみなく露わにしているような彼女に、僕は自分との程遠さを感じて見惚れた。

あのように笑ったことが、僕には果たしてあっただろうか?


「おーい! 透、早くおいでよ。すっごく気持ちいいよ!」


こちらに向けて手をぶんぶん振っている瑞稀に、いま行くよと、大声で応えた。

僕もスニーカーと靴下を脱いだ。ジーンズの裾をまくり、素足で入った。

冷たさが足の先から背筋を這って全身を巡る。外の暑さに相まって、さらに冷たく感じる。

隣で哲郎がズボンだけ履き、上半身は裸で川に飛び込んだ。辺りでバズンッ! と水が大きく跳ね上がり、僕と瑞稀の身体を満遍なく濡らした。

浮上した哲郎は水面から顔を出して拭い、髪をかき上げた。

息の上がっている哲郎に瑞稀が水をかけた。


「うわっ……よっしゃ、仕返しだ!」


哲郎からの反撃に瑞稀は可愛らしい悲鳴を出した。


「もう、本気出すからね」

「やってみろよ」

哲郎はニヤリと笑う。

「ねえ、透も。ほら、いっしょに!」


瑞稀が僕の手首を掴む。


「やろうよ」


そう言って、僕を二人のすぐ近くへ引っ張って行った。

手加減しないぜと、哲郎が足で水を蹴り上げる。瑞稀が僕を盾に躱した。当然、水は僕の顔に全てかかった。僕は下を向いて黙った。

水中に僕の足がある。

足の裏に砂礫が当たる感触がした。小さな魚が慌てふためき、すぐ向こうでめちゃくちゃに暴れながら泳ぐのが見える。

目の前のすべては自ら動いているのだ。

止まっているものはなかった。

ワクワクした。

胸の奥底がひりつくように熱い。


「おい透、大丈夫か……」


顔を伏せたままの僕を心配したのか、哲郎がこちらを覗きこんだ。

その瞬間、僕は顔を上げると、哲郎へ目がけて思いっきり水をかけた。そのまま続けて、手の平で水をすくってかけた。


「こいつ!」


哲郎がはにかんで、僕を水中に引きずり込もうと、こちらに倒れ込んだ。

それを僕は躱し、瑞稀と手をつないだ。


「行こう」


思わず叫んでいた。

瑞稀は笑った。

二人で哲郎から距離を取った。


「待て!」と、後ろから大声が聞こえた。そう思ったときには、身体が宙に浮いていた。

僕の視界には水面と、瑞稀と、哲郎の太い腕があった。


一際おおきな音を立てた。

僕らの身体は哲郎に覆い被され、水中へと頭から倒れ込んでいた。

絡まった糸が解けるように水中で僕らは散らばる。目を瞑って身体をひねる。

あぶくが鼻と口からこぼれた。水流の低い音が鼓膜を震わす。光を、水上を目指した。


「――ぷはっ」


顔を水面から出して、大きく息を吸いこんだ。

気持ちいい。心臓が鼓動している。生きている。実感する。それが新鮮だった。

知らなかった。身体中が軽かった。

すぐ近くから、瑞稀の突き抜けるような笑い声が聞こえてきた。

哲郎の太い笑い声が聞こえた。

僕も思わず笑っていた。

腹の底から声が出た。

頭上に広がっている空を見上げた。

雲ひとつ無く、届きそうにないほどの青い空だ。


帰り道は三人とも全身ずぶ濡れだった。僕らの歩いた道の上に水がしたたり落ちていく。

一人先に歩く瑞稀。彼女の履いているサンダルからパタパタと音が鳴る。

夏の小道に咲くカンナ。

前方にどこまでも広がる空。

瑞稀が振り返らずに一人、鼻歌交じりに進んでいるのを後ろから眺めた。


「楽しかったな。なあ透、お前ってあんな風に笑えるんだな、俺もっと静かな奴かと思ってたよ」

哲郎が白い歯を見せて笑う。

「ああ、自分でも驚いているんだ」

「そっか。じゃあ、良かったんだろ、きっと」

「そうだね」

僕は哲郎の言葉にうなずいた。

「まあ、瑞稀も良かったよ、アイツがあれだけ笑えるようになったんだから」


哲郎がゆっくりと、しみじみした様子で呟いた。

その言葉に、僕は首をかしげた。


笑えるようになった瑞稀とは、一体どういうことだろう?

彼女は出会ったときから傍若無人で、笑っていないことの方が少ないと思う。

ポッキーを賄賂に出す人が、実は暗い性格だというイメージがいまさら湧かない。


「何なんだ、その話」

僕は哲郎に聞いてみた。

「笑えるようになったって、どういうことだ?」


僕の問いかけに対し、哲郎は驚いたようだった。

知らないのかと、強い調子で聞かれる。

僕は首を縦に振った。

すると、彼は信じられないほど冷めた声を出した。


「透は関係ないもんな」


哲郎の顔つきが一瞬だけ別人のようになるのを、僕は見逃さなかった。

快活な彼が不意に見せた、暗い表情が妙に引っかかる。


「教えてくれよ」


再び聞いてみた。

哲郎は少しのあいだ思案していた。

それから、やっぱり透は知っておいた方がいいと、やっと口を開いた。


「瑞稀はさ、小学生の頃にいじめられて、自殺しかけたんだよ」

哲郎は前を歩く瑞稀を一瞥し、また言葉を連ねる。

「ひどいいじめだった。アイツ、タチの悪い男子の三人組に目をつけられたんだ。初めは些細なことだったけど段々エスカレートしていってな。その内、机を隠されたり、給食に虫を入れて食べさせられたりしてさ、学校の倉庫に閉じ込められて乱暴されたんだ。それから……男子トイレの便器に顔を突っ込ませて、その水を飲まされてたよ。俺はそれを知ってても、何もできなかった」

「……それじゃあ、哲郎は傍観者だったのか」


努めて冷静に声を出した。

そうだよと、恥じるように彼は言った。


僕は前を歩く瑞稀を見つめた。

陽気で変な先輩だと思っていた彼女には、いじめられた過去がある。その自殺未遂の少女はいま、楽しげに鼻歌を口ずさむ。

翼をください。

瑞稀の話は僕にとって、唐突に判明した過去の事実だ。

哲郎がいじめの傍観者だったこともだ。

現実感が湧かなくて、僕は思わず閉口してしまった。足が僅かに震えていた。


「ひどい出来事だったよ、最低だった」


哲郎は眉間に皺を寄せた。

喉が潰れてしまうのではないか。そう思うほど、彼の声は低かった。


「哲郎は今、いじめが許せるか?」

「いや、許せない」

彼は僕の問いに即答した。

「いじめた奴も、それに傍観していた奴だって同じだろ、許しちゃダメだ」


哲郎の語気は話し始めたときよりも明らかに強くなっている。

僕はだんだん動悸が速まるのを感じた。

心臓が痛くなった。

喉から熱い泡を噴いて倒れるかと思った。


「人間は正しくあるべきだ。透もそう思うだろ?」


言え、言うんだ。

頭で騒ぎ立てる誰かの声。

無視できないほどの大声だ。

彼の穏やかな顔が一変する状況を想像する。

僕の答えを、彼は許さないかも知れない。

哲郎を凝視した。哲郎の顔を見ると、僕は堪らなかった。

下腹部が燃えるように痛くなった。喉が渇いていた。

僕はいま、哲郎に糾弾されているのだ。彼にその認識と自覚は無くとも。

哲郎は怪訝な顔をし、どうしたんだよと僕の肩を揺すった。


……哲郎に嘘は吐けそうにない。いずれバレるだろう。だが、本当に一時の感情で言うのか?


脳裏で問いかける声を無理やり振り払った。

打ち明けるなら早い方がいい。彼も話したんだ。

僕だけ隠し事をするなんて、それは卑怯じゃないか。

浅く息を吐いて、呼吸を整えた。指先が冷たかった。手のひらを強く握り、拳をつくる。


「哲郎、僕はいじめをした側の人間だ」


僕は彼の目を覗きこんだ。哲郎は目を開き、信じられないと呟いた。


「僕は哲郎になら、話せると思ったんだ」


哲郎は僕に、驚愕の眼差しを向けた。

気まずそうな顔をして、額から噴き出る汗をしきりにこすっていた。

きっと暑さのせいではないのだろう。

この話は止そう。彼はそう言った。

僕はその時、彼の瞳の奥に安堵の色を見た気がした。

哲郎からはそれ以上何も言わなかった。

僕も話さなかった。


日が傾いていた。

夏の夕焼け空はまたたく間に色を変え、紫に淡く沈み、暗く横に広がっていく。

襲いかかって来る後悔や羞恥心を無理やり押し返し、僕は歩いた。


「でっかいタヌキ見つけた! ねえ透、タヌキがいるよ、死んでんの!」


突如、瑞稀が僕を呼んだ。

夏草の根元を指差し、彼女は喜びながら一人ではしゃいでいる。

屈託のない笑みを僕に向ける。その表情を信じるべきか、戸惑ってしまう。


「いま行くよ」


僕は大声で応えた。

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