第1話 ―― SOMEDAY.1 ――

あの日、彼女が僕の前から去って、ちょうど一年が過ぎた。


その間、労働は続いた。

自分が笑顔を向ける、目の前に立つ客のことを僕は知らない。

僕は彼らをテーブルに案内し、注文を取る。簡単な関わりだ。


店内はコーヒーと煙草の臭いが充満している。

客入りはそれ程多くない。

彼ら相手に僕は働く。

高い声を出し、丁寧な口調で話し、注文を取ってから客へと食事を運ぶ。

最後に会計を済ませる。

無心で繰り返す。


やめたかった。

何のために自分がこのアルバイトを続けているのか、分からなかった。

それでも、自然と足は店へ向かってしまう。

スニーカーを履く。

自転車をこぐ。

朝の街の光景から目をそらす。


金が欲しい。

社会経験を得るため。

時間が余っているから。


労働の理由は、いくらでも絞り出せるような気がする。

だから、すべて本当じゃないんだと思う。


その日は和やかな老夫婦が店に来た。

話を聞くと、彼ら夫婦は五十年以上連れ添った仲らしい。

二人でテーブルに腰を下ろして、しばらくの間ゆっくりとブレンドコーヒーを飲んでいた。

コーヒーが自然と似合う。

僕は二人の座っているテーブルの側で、その様子を眺めていたいなと思った。


いまも夏だった。

この店は夏の間、毎日営業している。

僕もアルバイトとして労働を続ける。

あの夏も瑞稀は頻繁にこの店に来て、クリームソーダを頼んでいたのを思い出した。


飲み終わったのか、男性が会計を済ませた後に女性が彼へ向けて、

「ありがとう」

と言う。

すると、恥ずかしそうに照れながら、

「やめろ。笑っちまうだろう」

と男性は白くなった髪の薄い頭をかき、身体を上下に揺らす。


「こんなこと言うんだ、参っちゃうよ、ホント」

妻を指差しながら顔をクシャッとさせ、二人の近くにいた僕に向けて言う。

それを聞いた女性がにこやかに身を乗り出して言った。


「ありがとう」


もう堪らないと、男性は僕を見て笑う。

その笑顔に思わず、僕も目を横に細めた。

そんな自分に驚いた。


退店時、足が悪いのだろうかゆっくりと杖をついて歩く妻を、先に進んでいる夫が何度も立ち止まって振り返りながら行く。

店を出るとき、二人とも深々と頭を下げていた。

僕も深くお辞儀した。

その間、最後に見えた老夫婦の腰が曲がった背中を思い出す。


頭を上げ、僕は食器を片付けに二人が座っていたテーブルへと向かう。

ソーサーの上に置かれていたカップの側には、ボールペンで余白に丁寧な文字の書かれた、一枚の名刺が残してあった。


――ありがとう、また来ます。


男性の残したであろう名刺を取り上げ、数瞬見てから、ポケットの中へ静かにしまった。

その後も労働を続けた。


あれから一年が経った。

瑞稀はもうこの店に来なくなった。

相変わらず、僕はこの店で働き続けている。

下宿では、眠るか食うかの日々だった。


接客中、あの老夫婦のような人間が来るたび、決まって瑞稀を思い出していた。

彼女は彼ら夫婦の品性ある佇まいには程遠い、粗野で怠惰な変人の先輩だ。

それなのに、思い出さずにいられないのはなぜだろうか?


店でも、下宿でも、ああいった二人組を見た日は、瑞稀のことをしがみつくように考えている自分がいるのを実感した。


よくあることだ。

でも、今回は特に強烈だ。


会いたくもない瑞稀のことを、どうして僕は考え続けているのだろう。


もしかしたら、いまが彼女との旅先で過ごしたあの夏と同じ、熱に満たされた大気の季節だからかもしれない。

そう思った。


バイトを終えて家に帰り、シャワーを浴びた。

布団に寝転び、強い眠気に微睡む。

また同じ夢を見るのだろうかと、ぼんやり考えていた。


その時、スマホが鳴った。

億劫だ。いったい誰から?

僕は緩慢な動きで起き上がると、電話に出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る