3ミリの答えが知りたくて

@archer07

3ミリの答えが知りたくて



3ミリの答えが知りたくて


 


 トンネルに入ると車内が少し明るくなった。


腰を下ろした席は固かった。落ち着かない気持ちであたりを見渡すと、一人の男の人と視線があった。見られている。瞬間、視線を切って別の方を向いた。向いた先には女の人がいた。その人とも視線があった。視線を切って、見渡して、視線を落とした。


 誰もが私に視線を向けている。当然だと思った。だって今はまだ昼過ぎで、私は制服姿だ。学校が終わるにしてはまだ早い。遅刻して登校するにしては遅すぎる。どんな事情があるのだろう。勝手にふけたのだろうか。体調を悪くしたのだろうか。人に言えない事情があるのだろうか。多分そんなふうに考えているに違いない。


居心地が悪い。背筋を無理に伸ばすと元通りの姿勢へ戻す時にため息が出た。けれどこの胸のモヤモヤが晴れることはなかった。当然だと思った。だってこのモヤモヤは、この半年の間ずっと抱え続けてきたものなのだから。


抱え続けて、半年が経った。結局、納得いく答えを導き出すことが出来なかった。答えを知る機会はいくらでもあった。けど、出来なかった。私はあの人に直接電話をできるほどに親しくない。大っぴらに聞くことは出来るけど、大勢の人に聞かれていいと思う話でもない。   最悪人伝てでもいいけど、出来ることならあの人の口から直接答えを知りたい。


気づいた時には学校を抜け出して電車に飛び乗っていた。我ながら驚いた。自分にこんな行動力があると思っていなかった。あの問いがそれほどまで自分を追い詰めていたのかと思った。それほどまでその答えが知りたかったのかと思って、不思議に思った。


列車はまだトンネルの中を通過中だった。いくら眺めても窓の外の景色は暗がりのまま変わらなかった。車内掲示板を見れば、目的の駅はまだ六つも先だ。


ため息が一つ漏れた。顔を上げてあたりに視線をやると、もう誰も自分に視線を向けていないことに気がついた。誰もが手にした携帯に視線を落としている。いつもなら私もきっとみんなと同じように携帯の画面へ視線を落としていたことだろう。


携帯は魔法だ。携帯の中は光に溢れている。知りたい出来事の名前や特徴を入力すれば、大抵は納得出来る答えが返ってくる。それが普通で、当たり前だ。私もついこの間までは、その普通の流れの中に身を委ねていた。


けれど携帯は今日まで私が抱え込んでいる問題に納得のいく答えを返してくれなかった。どれほど調べてみても返ってくる普通の答えは、私を満足させることが出来なかった。


ゆっくりと瞼を閉じると、トンネルのそれとは違う暗がりが目の前に広がった。暗がりの中でぼーっとしていると徐々に時間の感覚がなくなってあの日の記憶が蘇ってくる―――



 


「あれ? 髪切ったの」


「え、あ―――うん」


「いいじゃん。似合ってるよ、それ」


「ありがとう……」


 教室の隅、自席の近くで行われたのは他愛もない会話だった。一月に一度、美容室へ足を運んだ直後になら、身内同士で交わされて珍しくもない会話だった。


けれど、その会話に衝撃を受けた。だって私は前日、美容室になんかいってない。金欠だった。先月お金を使いすぎて行く余裕がなかった。けれど伸びた前髪が視界を遮って鬱陶しかった。髪留めで対処しようとも思ったけれど、いつもしてないところにすると違和感があった。


だから、前髪を切った。ハサミで、目に掛からないくらい、ほんの少しだけ切り落とした。誰も気付かなかった。同じ台詞を聞いたのは、次に美容室に行った直後のことだった。


 だれも気づかない3ミリの違いに、あの人は気づいた。席が近いというわけでなく、仲がいいというわけでなく、単なるクラスメイトだった。そんな程度の中の人がたった3ミリの違いに気づいた理由を知りたくて、それがなぜだかわからなくて―――、気付けば半年が過ぎ去っていた。


聞こう聞こうと思っているうちに時間は過ぎていて、気づいたあの人は四月を境に少し離れた場所の別の高校へ行ってしまった。


携帯を使えば答えを聞くことが出来る。けどその方法だと、みんなにも知られてしまう。それは嫌だった。その質問を、その答えを、他の人には知られたくないと思った。


思いは日に日に募っていった。ぼかして尋ねた質問が私を満足させることはなかった。


他の人は誰一人として私を満足させる回答を持っていなかった。晴れないモヤモヤが胸の中を占拠し続けて、何をやっていても集中が途切れるようになってしまった。気づいた時には電車に飛び乗っていた。我に返った時、馬鹿なことをやってものだと呆れてしまった。


 今ならばまだ昼休み前だ。降りて引き返せば笑い話で済むだろう。体調悪かったから家に帰りましたといえばそろそろのはずだから通じるかもしれない。担任はいい顔しないだろうが、男だから詳しくは突っ込んでこないだろう。


 列車はトンネルを抜けていく。乗車客は誰もが携帯を覗き込んでいる。誰もがそれぞれの普通の中に戻っている。普通の私が異物である事が出来たのは一瞬のことだった。けれどもあの人はそんな普通の私の小さな異変に気づいたのだ。


 風が吹いた。誰かが隣の車両から移ってきたのだ。扉はすぐに閉まって、風はすぐ止んだ。起こった風に少しの間だけ前髪が舞ったたけれど、誰もその変化に気づく人はいなかった。誰もが携帯に目をやったまま動かない。隣の車両から移ってきた人も、壁際に自分の居場所を確保した途端、携帯を弄り始めた。


列車はトンネル内を走ってゆく。誰もが自分の普通の中に浸っている。外は変わらず暗いままだ。明るいのは電灯のついた列車の中だけだ。私の異常に目を向ける人はもういない。お昼休みを少し過ぎた今、制服はその魔力を失い続けている。私は普通の人に戻りつつある。あと数回チャイムが鳴り終わったとき、私は完全な普通の人に戻るのだろう。


 普通の私が髪を切ったことに気づく人は誰もいない。いつもとたった3ミリ違う長さに気付いて褒めてくれる友達は一人としていなかった。違いに気づいてくれたのはあの人はもういない。携帯の向こう側の普通の中に紛れてしまった。


 列車は変わらず暗がりを走っていた。顔を上げて普通から外れる人は誰一人として現れなかった。誰もがみんな自分の普通に浸っていた。物足りなかった。少しは変化に気づいてくれてもいいのではないだろうかと思った。


 列車は地下の駅を通過した。わずかに車内が明るくなって、顔をあげる人が現れた。並ぶ顔に深い印象を受けることはなかった。きっと数分もしないうちにすぐさま忘れてしまうだろう普通ばかりが、そこには並んでいた。


あの人の見た目も普通だった。濡れたようなまつ毛をしていたわけでも、ほりの深い顔をしていたわけでも、流行りの髪型をしていたわけでもない。白皙というよりも木石だ。顔の良さに偏差値をつけるなら多分五十前後くらいの、どこにでもいる普通の人だった。


けれど、ほとんど話したことのないあの人の普通の顔を覚えている。声をかけらえたあの日から一度たりとその顔を見ない日はなかった。休日はこっそり撮った写真を眺めていた。


 好きなのだろうかと自問した。ネットにも同じような話が転がっていた。何をしている時もその人のことを想うのはその人のことを好いている証だと書いてあった。好きなら告白してしまえと、多くの人が囃し立てていた。


けれどきっと違うと思った。誰かを好きになったことは何度もあるけど、今回はあの心が燃えるような感じがしないからだ。考えたところでワクワクするわけでない。ドキドキするわけでもない。大声を出したくもならない。誰かとそれを共有する気にもなるわけでもない。


ただ、考えていないと落ち着かない。気付くと頭の片隅が占有されている。携帯であの人の画像を眺めている。あの人の投稿を探っている。あの人の普通を知りたいと思っている。


まるで熾火だ。静々と燃え続けては熱を発し続けている。厄介なことに、日常の幾らかが好きでもないあの人によって占有されている。答えが見つからなくて苛々させられている。この半年でどれほどの時間を費やしただろうか。あの時間がなければ、もっと出来たことがあったはずなのにと思う。


列車はトンネルを進んでゆく。暗がりの中を真っ直ぐ進める列車を羨ましく思った。列車には線路がある。定められた道がある。列車はその道の上を進んでいくだけでいい。線路があるから、暗がりの中でも列車は進んでゆける。迷わず悩まず乗客を乗せて進んでゆく。


思い返せばこの半年、迷ってばかりだった。聞けば良いと思い立ち、携帯を手に取っては文字を入力して消しての繰り返しだった。あの人がいなくなる前も後も、いなくなった後はもっと多く同じことを繰り返していた。おかげで寝不足になった日もあった。遅刻も増えた。成績も少し下がった。約束も何回かすっぽかしてしまった。


列車は暗闇を進んでゆく。線路を頼りに迷わず暗がりを進んでゆく。今の私はまるで故障してしまった列車だ。脱輪こそしないけれど、何度も故障と遅延を繰り返している。これが列車なら、すぐさま原因調査のため車庫に戻されていることだろう。


私も似たような状況だ。こうなった理由を知らないと、元通りに走れなくなってしまった。こうなった原因はわかっているのに、こうなった理由がわからない。どうすればわかるのか、見当もついていない。


列車に飛び乗ったのはそれが原因だった。あの人がどこの高校に行ったかは知っていた。それがそう遠くないことも知っていた。列車で数十駅乗った先にある高校だということを知っていた。


高校までの道は調べればすぐに出てきた。携帯に名前を入力するだけで、最寄駅も経路も偏差値も校風もその全てを知る事ができた。


あの人が通っている部活の情報も知ることが出来た。あの人はマスクをするのが当たり前の生活になって以降、練習時間が減ってしまったと愚痴をこぼしていた。今日もそのせいで本来あるはずだった交流試合が潰れてしまったと愚痴を載せていた。そのせいで今日は学校終わり次第すぐに帰る予定と呟いていた。


その呟きを見たのは昼休みにだった。調べると、ここからならちょうど学校が終わる頃に到着することに気づいた。途端、体は勝手に動いた。きっとこの不調の理由を知りたかったのだろうと思ったのは、列車に乗ってしばらくしてからのことだった。


トンネルの暗がりが深まった。列車がトンネルの真ん中あたりにきたのだろうと思った。窓の外に映る光景は黒い壁ばかりだ。代わり映えのしない景色を眺めていると、気分が鬱々としてくる。不安定だ。落ち着いていない。列車の揺れが大きくなったように感じられた。


客を乗せた列車は私が何をしなくとも暗闇の中を勝手に進み、私ごと未来へ運んでゆく。その有様をまるでこの半年のようだと思った。


 この半年はなかなかに激動の半年だった。いなくなるまでもその後も、辛かった。あの人に時間を取られすぎて、多くのものを失った。私はやがて普通のレールから外れていった。


友達の変化にすぐ気付けないようになったのが一番大きかった。私たちが互いに可愛いと褒め合うのは、私はあなたの味方ですよ、変化にすぐ気付けますよ、だから仲良くしてねというアピールだ。私たちは可愛いは褒め言葉であると同時に、仲間意識を高める挨拶でもあるのだ。


けれどあの日以来私は周りの可愛いに鈍感になってしまった。誰かの可愛いに可愛いの言葉を返すのが遅れるようになってしまった。誰かの可愛いに反応が遅れてしまうというのは、私たちにとって結構致命的だ。それはすぐさま私はあなたへの興味が薄らいでいますの意味になり、仲間意識が薄れてきているという合図になり、やがて私はいつも身を置いていた仲良しグループのみんなから少し距離を置かれるようになってしまった。


そんなわけで中学からの友達とは少し疎遠になってしまった。高校に入ってからの友達を多く作れなかった。お陰で、放課後や休日に一緒に過ごせる人が少なくなってしまった。機会を逸してしまうようになった、それでも日々は私と少し疎遠になった古くからの友達と新しく出来た少しの友達を乗せて過ぎ去って行った。私の身を置く場所が暗がりだろうと関係なく、時間は常に進行し続けていった。


このままではいけないと感じた。放置すると何もかもが隙間からこぼれていく気がした。多分、それも私を列車に飛び乗らせた理由の一つであるのだろう。


列車は暗がりを進んでゆく。私の都合も気持ちもお構いなしにズンズン前へ進んでゆく。流れに逆らえないことはわかっていた。出来たレールの上を走る以外にやれることはないと思っていた。


けれど違った。レールから外れられることを知った。違う列車に飛び乗れることを知った。列車は暗がりを走ってゆく。いつもと違う場所へ私を運んでゆく。レールはあの人の住む街に繋がっている。そんなレールの上行く列車に、私は飛び乗った。


列車は暗がりを進んでゆく。あと少しすれば列車もトンネルを抜けることだろう。その先にどんな街があるかを知っている。ネットで調べればその程度のことは造作もないことだ。


けれど私はその街に住むあの人のことをよく知らない。入っている部活とか通っている学校のことは知っている。どんな趣味があって、どんな友達がいて、どんな子がタイプで、どんな性格であるかを知っている。


けれど私は、唯一、あの人が3ミリの違いを見抜いた理由を知ってない。それが抜けない棘となって、今日という日まで私を苦しみ続けてきた。


列車は暗闇を進んでゆく。トンネルは思ったよりも長かった。後どのくらい続くのだろうかと考えた。調べればわかるだろうと携帯を取り出しかけて、けれどいつものように文字を入力することなく、手の内で遊ばせたのちにしまい直してしまった。なぜ何も調べないまま携帯をしまったのかはわからなかった。けれどきっと、今の私がこうなってしまった理由と同じなのだろうと思った。


不意に列車は止まった。異常を知らせる信号をキャッチしたからだと車内アナウンスが告げていた。誰もが顔を上げて車内の電光掲示板を眺めていた。しばらくすると再び車掌のアナウンスがあった。車掌が調査したけどなんの異常もなかったというような内容のことを言った。その後少ししてから列車は何事もなかったかのように動き出した。


列車の普通が戻ってくる。みんなが再び携帯に目を落としてゆく。みんなが普通に戻ってゆく。普通が保たれていないのは私だけだ。


 掲示板を見ると、目的の駅まで後三駅だ。思うと胸が高鳴った。突然落ち着かない気分になって、手を足を無意味に動かした。急に人目がまた気になるようになった。昨日ちょっとだけ切って揃えた前髪を弄った。この違いに気付く人はやっぱりいなかった。あの人はこの違いに気づいてくれるのだろうか。


 列車は暗闇を進んでゆく。もうすぐ着くのだと思うと、居ても立っても居られない気分になって、席を立った。近くにいる人の視線が妙に刺さる感じがした。居心地の悪さを覚えて、逃げるよう隣の車両へと移動した。


 扉を開けるとまた視線を浴びせられた。居た堪れない気分になって、また隣の車両に移動した。次の車両でも同じ目にあった。その度に移動して、気付くと一番前の車両の車掌席の直前にまでやってきていた。


 列車は暗闇を進んでいた。どうやらこちらは進行方向の一番前の車両であるらしかった。列車の真ん前は思ったよりも暗かった。車の時みたいにライトがトンネルのはるか先まで照らすようなことはないのだということを初めて知った。


 アナウンスが流れた。また一つ、目的地に近づいた。胸はさらに大きく早く鳴った。髪を撫でつけて、キョロキョロと辺りを見渡して、無意味に膝をさすったりした。気持ちは全然落ち着いてくれなかった。駅に着いた途端、知り合いやあの人が乗ってくるのではないかと、変な妄想までしてしまった。


 列車は駅を出発した。最後の目的地と次の駅の名前がアナウンスされた。知り合いもあの人も乗ってこなかったことに安堵した。高鳴る胸の鼓動が小さくなることはなかった。


 急に何をしているのだろうという思いが湧き上がってきた。突然学校をサボって、列車に飛び乗って、3時間近くもかけて数十先の駅を目指すなんて馬鹿じゃないだろうかと思った。行き帰りの電車代だけで結構な額の小遣いが吹っ飛んでしまうのだ。


 他に充てれば、十日は遊び倒せただろう。休みの日にパーっと使ってしまうのも良かったかもしれない。そう考えるとムカムカしてきた。けれどそうやって遊びを楽しむには、この胸のモヤモヤを解消しなければならないのだということを思い出して、ムカムカはさらに強まった。


 会ったらどうしてやろうか。文句の一つでも言ってやらないときっと気がすまない。何せ半年も悩まされ続けてきたのだ。なんで3ミリの違いに気づいたのか。それがつまらない理由なら、思いっきりひっぱたたいてやる。


 でも、もしそれが納得できる理由だったらどうしよう。この3ミリの違いに気づいたら、どうだろう。その時は全てを許せそうな気がする。何もかもを呑み込んで、なかったことに出来る気がする。


 いや―――、それでもなかったことには出来ないだろう。というよりも、なかったことにはしたくない。だって半年も悩まされたのだ。なら、半年損させられた分の損害を支払ってもらわないと不公平というものだ。


 とりあえず何かを奢らせよう。一回や二回ではなく、十回二十回奢らせよう。それくらいしてもわらないと割に合ってない。半年分のあれこれを埋めるには、もっと奢ってもらってもいいくらいだ。


 不意の刺激に、前を見た。見れば列車はトンネルを抜けていた。目の前には光に包まれた街が広がっていた。遠く離れた場所にある見覚えのない街を綺麗だと思った。あの人がいる街に近いのだと思うと、また落ち着かない気分になった。ドキドキと不安が混ざり合って、ただ立っているだけも辛かった。


 列車は山沿いを走ってゆく。少し離れた場所には海が広がっていた。海は青かった。空も青かった。水平線のところで海と空が交わっていた。雲一つ見当たらない晴れ空の下、海を眺めてのんびりと潮騒の音を聞き続ければ落ち着かない気分も少しは和らいでくれる気がした。


次の駅がすぐ近くにまで迫っていた。それは海近の駅だった。けれど降りようという気にはならなかった。列車は見る間に駅に辿り着き、止まり、再び出発した。乗り降りする客は一人としていなかった。


目的の駅にまた一つ近づいた。気分はさらに昂った。いっそう落ち着かない気分になった。兎にも角にも動いていないといられなかった。


目的の駅に到着した。降りる時、駅の名前がやけに大きく聞こえてきた。そうしている間に、扉が閉まって列車は行った。夢見心地で出口へ向かってゆく。改札を越えた時、後戻りは出来なくなったのだとそう思った。


 携帯を取り出した。胸が高鳴った。起動してルートを画面に出した。目的地まで徒歩十分ほどの場所だった。駅の地図を見つけて、方向を確認した。


―――間違いない。


 ついでにこの場所が確かにあの人のいる駅なのだと理解させられて、胸の高鳴りはさらに早まった。落ち着かない気持ちのまま一歩を踏み出すと、右手と右足が同時に前に出た。慌てて矯正しようとすると、左手と左足が同時に前に出た。はやく治そうと思うほど、歩速だけが早まった。


結局歩き方を治せたのは数十歩不自然なやり方で歩いた後のことだった。歩き方を矯正できた後も、歩く速度は治らなかった。逸る気持ちが遅く歩くことを許さなかった。気付くと案内に表示された到着予想時刻よりも五分も早く目的の場所についていた。目の前には見たことのない校門があった。タイミングよくチャイムが鳴って、思わず近くの電柱に身を寄せた。


空が高く、雲は遠く、気分は実に落ち着かなかった。地に足をついている感覚が薄かった。呆けているとあの人の顔が浮かんできた。今からあの人と会うのだと思うと、胸が躍った。


しばらくすると見知らぬ学生服を着た連中が出てきた。そいつらは近くの電柱にいる私に物珍しそうな視線を向けては、すぐさま興味を失ったよう立ち去ってゆく。誰も私の変化に気付くものはいなかった。初めて合う連中なのだから当然だとは思うが、それが今は無性に腹立たしかった。


あの人なら多分すぐに気付くだろう。近寄って、挨拶だってしてくれるだろう。3ミリの違いに気付くかもしれない。―――いいや、きっと気付くに違いない。


だってあの日あの人は、私がいつもと3ミリ違うことに気づいてくれたのだ。他の誰もが気付かなかったたった3ミリの違いに、あの人がだけが気付いて褒めてくれたのだ。


あの時から私の人生は変わってしまった。油断するとあの人のことを考える体になってしまった。一緒のクラスだったのにほとんど話したことがないあの人の顔が忘れられなくなってしまった。いなくなってからは映像の入った携帯を手放せない体になってしまった。


なのにあの人はこちらのことをまるで気にしていない。呟くのはいつも今の高校や部活のことばかりで、呟く相手はいつも私以外の誰かとばかりだ。


不公平だ。釣り合いが取れていない。実にムカつく話だ。出会ったらとっちめて―――


「あれ? もしかして―――」


「―――」


振り返ると見慣れた顔があった。瞬間、思考が吹き飛んだ。


「やっ―り! 久し―りじゃ―、―――」 


頭の中を列車が走っている。鳴り響く汽笛みたいな雑音のせいで声がまともに聞こえない。


「……あ、髪切った?」


けれど聞こえてきた言葉に頭の中の雑音は全部消え去って胸の高鳴りは最高潮になった。


「ってか、どうしてこんなとこにいんの? もしかしてうちの学校になんか用?」


嬉しい。幸せだ。足りなかったものが満たされていく。私の普通が戻ってくる。外れてゆく。


「誰かに用なら案内してやるよ。そっちもその方が気楽だろ?」


頭の中は真っ白だ。目の前はチカチカしている。鼻がむずむずする。耳の中が孕んでいる。口は変な形に歪んでる。お腹の中がぐるぐるする。胸の中がこれ以上ないくらい熱くなっている。さっきまで何を考えていたか思い出せなかった。


「……おーい、おたく、聞こえてるー?」


「あ、あのっ」


声に、とにかく何でもいいから言わないといけないと思った。


「お、おう」


 声に、慌てた。言ってやりたいことはいくらでもあった。この半年、あなたのことばかり考えていた。あなたのことを考えない日はなかった。暇さえあればずっとあなたのことだけを考えていた。お陰で寝不足になった。遊び金が減った。成績が下がった。友達と少し悪い雰囲気になった。居た堪れなくなってついにここまで足を運ぶ羽目になった。それもこれも全部あなたのせいだ。


「あの―――」


あなたが悪い。だから責任を取ってほしい。損した分を返してほしい。会えなかった分、これからはもっと会ってほしい。気にしてほしい。私を見ていてほしい。


「私―――」


―――あなたが、ほしい。


「うん」


「私ね―――」


気付いた結論に、口が止まる。


―――とりあえず、3ミリの答えを知ることは出来た


 果たしてこの先、私が得られた3ミリの答え以上を手に出来るかどうかは―――


「私は―――」


この後私が気付いたこの想いをきちんと臆さず口に出せるかどうかにかかっているらしい。


 


 



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