導き

 詩織は、理事長が窓から飛び降りた後の廊下で、うつろな瞳で立っているかさねを見つけた。

 何となく、かさねまで窓から飛び降りてしまうのではないかと思って、大慌てで駆け寄り、抱き留めて、窓から遠ざけた。


「しおり……?」


 かさねの声がした。

 間違いなく、かさねの声だ。


「かさね! かさねだよね?」

「詩織こそ……詩織だよね?」

 二人はそう言って、お互いをまじまじと見た。

 直後、かさねが詩織の背後に炎と煙を見て驚いた。

「えっ? 火事?」

 かさねの声で、詩織は我に返った。

「そうだ、急に暖炉に火がついて、部屋中に広がったの。早く逃げなきゃ!」

「え? え? いつ? っていうか、ここ……廊下?」

「説明は後! 早く逃げよう!」

「え、う、うん」

 詩織はかさねを立たせると、煙から逃げるようにして走り出した。

 直後、今まで座り込んでいた場所が煙と炎に包まれた。

 今まで夢の中に迷い込んだような感覚でいた二人は、突然現実に引き戻されて混乱しながらも、命の危機を感じて、足を動かした。


 階段のある場所まではそう遠くない。

 煙を吸わないように、腕で口元を覆いながら走り、ドアに手をかけて、詩織は悲鳴を上げた。


「開かない!」

「うそ?!」


 防火システムの影響なのか何のか、ドアは開かなかった。

 ドアノブが回らないので、鍵がかかっているのかもしれない。


「他に、階段ってある?」

「探してみよう」


 二人は振り返って、煙が充満する廊下を意を決して進む。

 だが、もう炎が廊下を燃やしていて、逆側の奥までたどり着くことは難しそうだ。


 かさねが、ふと窓から中庭を見下ろして、絶句する。

 

 確かにあったはずの、きれいな池が壊れている。

 大きな穴が開いているのだ。


「な、なにあれ? 何があったの?」


 詩織は、かさねの表情を見て慌てたが、どうやら池が壊れた穴の先にいるであろう、理事長の無残な姿は見えていないようだったので、少しだけ安心した。

 かさねが理事長のことを思い出して騒ぐ前に、脱出したい。

 だが、どうしたらいいか解らない。

 詩織が、くじけそうになったその時だった。


 不意に、何かに呼ばれたような気がして、振り返って顔を上げる。


 煙の向こうに、自分にそっくりな少女が立っているのが見えた。


 少女は、落ち着き払って、場違いに微笑んでいる。


「え?」


「詩織?」


 かさねが詩織の視線を追って、不思議そうに小首を傾げる。

 かさねには見えていないのだろうか。


 少女が、にっこり笑って、客室のドアがあるはずの場所に、すうっと消えていった。


 詩織は、なぜかそこに行くべきだと思った。

 かさねの手を引いて、駆け出す。

 もう一度、鍵が閉まっていたドアの方に戻る形になったが、困惑しながらもかさねは詩織に従ってくれた。


 少女が消えていった、一番奥の客室のドアはすんなり開いた。


 きれいな、まるでお姫様のお部屋のような内装。

 全体が優しい水色を基調としていて、かさねが最初に連れていかれた部屋の、色違いのような風合い。

 その奥にある、大きなガラス窓が、からりと音を立てて開き、鈴蘭模様の愛らしいカーテンがゆらゆらと風に揺れた。

 詩織は、かさねを連れてその窓からバルコニーに出た。

 バルコニーは中庭側にあるので、燃え尽きていくスイートルームが斜め前方に見えた。炎が風にあおられて、建物のあちこちに延焼していくのが見える。

 かさねが、声にならない悲鳴を上げた。

 空を見上げると、薄暗い空を赤く照らしているのが、夕焼けなのか、この炎なのか、判別できない空の色だった。

 詩織は、場違いにも、きれいだと思ってしまった。


「詩織! これ!」


 かさねが自分たちの足元を指した。

 足元のすぐ左側。バルコニーの端に「緊急用非難はしご」という表示と、床が銀色の四角い蓋のようになっている場所があった。

 かさねが素早く駆け寄って、その銀色の蓋をどうにかして開けようと画策する。

 ボンッと、何かが爆発した。

 直後、ガラガラと音がして、二人が少し前まで座り込んでいた廊下が焼け落ちた。

 詩織もかさねの横にしゃがみこむ。

 「緊急用非難はしご」の看板のすみに、開け方が書いてあることに気付くと、それに従って、蓋を開けた。

 精いっぱい蓋を開くと、するすると折りたたまれていた梯子が降りていった。

「やった!」

「行こう、かさね!」

 詩織は先にかさねを降ろさせてから、後に続いた。

 カンカン……と足音を立てながら、震える手足で慎重に降りていく。頑丈にできているとは思うが、折り畳みだからだろうか、足をかける部分が細く感じて怖くなる。

 二階、一階と降りていく。

 中庭に続く細い通路のような地面に降り立って、詩織が上を見ると、自分にそっくりな少女が、三階から手を振っていた。


「ありがとう、お父さん」


 詩織がそう言うと、少女はふわりと光の粒子のようになって、消えていった。


「詩織! ここ多分、ロビーに繋がってるよ」

 かさねがすぐ横にある扉を開いてそう言った。

 詩織は頷いて、かさねの後に続いた。

 中は、ロビーの奥の職員用の部屋であるらしかった。

 電源が落ちていて真っ暗だが、たくさんのモニターが並んでいる。警備室のような印象の部屋だ。

 その部屋を抜けて、室内に入ると、ロビーカウンターの内側に出た。

 玄関の扉が開かれて、奈緒子が男の人ともめているのが見える。


 二人は頷きあって、スプリンクラーで水浸しになっているロビーを、バシャバシャと水しぶきを上げながら駆け抜けて、外に出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る