脱出

 突然の警報に驚いたのは、葉月だけではなかった。

 佳月も何が起こったのか解らない様子だった。


 佳月が何か言おうと口を開いたときだった。

 葉月の頭上の光が、影った。

 葉月は、何かに強く背中を引かれるような感覚がして、後ろに尻もちをついた。


 直後、葉月が一瞬前まで立っていた場所に、何か大きなものと、大量の水とステンドグラスの破片が、降ってきた。


 耳をつんざく、破壊音。

 はかなげなガラスの砕ける音。


 葉月の目には、全てがスローモーション見えた。


「せんせい……? 先生!」


 佳月の叫ぶ声で、葉月は我に返った。

 大量のガラスや瓦礫に埋もれるようにして、見るも無残な姿になった理事長が――落ちていた。


「ひっ……!」


 仕立てのいいスーツも、靴も、がっしりとした体も、瓦礫に貫かれ、押しつぶされ、とても直視できないほど惨い姿だった。

 それなのに、ほとんど無傷の顔は、穏やかで、幸せそうに微笑んでいて。

 佳月は、その笑顔を、驚いたように目を見開いて凝視していた。


「先生……お姉さまに、会えたのですか?」


 佳月がそう呟いて、涙をこぼした。


「佳月……」


 葉月が一歩踏み出そうとしたとき、背後でドアが開く音がした。


「佳月!」

「葉月さん!」


「!」

 奈緒子の声だ。

 ついさっきまで一緒だったのに、なんだか懐かしかった。

「奈緒子先生!」

 葉月は叫んで、奈緒子にすがりついた。

 奈緒子と一緒に入ってきた男の人が、佳月と理事長を見て絶句する。

 奈緒子も葉月を受け止めながら、驚きを隠せないでいた。

「葉月さん。何があったの?」

「わ、わかりません。私は、佳月と――兄と話していたんです。そしたら急にベルが鳴って、理事長先生が、上から……!」

 奈緒子は、そこで葉月をぎゅっと抱きしめてくれた。

「怖かったわね。大丈夫? とにかく、ここから出ましょう。どこかの部屋で火事があったのかもしれないわ」

 奈緒子の言葉に、葉月は目を見開いた。

「か、かさねと、詩織が……」

「そうね。みんなで逃げないと。ひとまず、この部屋を出ましょう」

 葉月は、奈緒子に腕をひかれながら、佳月を見た。


「佐野さん、先生は……」

「佳月。きっと、お姉さまに会いに行かれたんだ。蘭寿のこと、責任を感じておられたから……」

「けど、僕も……僕も先生と同罪です」

「そうかもしれないけど、俺だって同罪だ。一人じゃない、佳月。一緒に背負っていくよ」


 奈緒子と一緒に入ってきた、佐野と呼ばれた男性は、佳月の肩を抱いた。


「一緒に行こう。ここを、出よう」


 佳月は、目からたくさん涙を流して、佐野に従った。

 葉月は、佳月が知らない人のところにまた奪われてしまうような恐怖にかられて、奈緒子の腕を振り払うと、佳月に駆け寄った。

 葉月が佳月の手を強く握ると、佐野はそっと佳月から離れて、奈緒子に並んだ。

「はづき……」

「一緒に行こう、佳月」

 手を繋いでついて来る二人を確認して、佐野が先頭に立って階段を駆け上がった。

 ドアを開けると、ところどころでスプリンクラーが作動していた。

「行こう、こっちだ」

 佐野はそう言って、ロビーに続くドアを開いた。

「うわっ」

 奥の、階段がある方の廊下へ続くドアから煙が漏れ出してきていた。

 佐野が玄関を開けて、奈緒子を外に誘導した。

「二人も、早く!」

 呼びかけられた葉月と佳月は、抱き合うようにして外に出た。

 

 建物から数歩後ずさった四人は、三階の奥側から真っ赤な炎が燃え上がっているのを見た。


「先生の部屋だ……!」

「どうして……」


 佐野と佳月が呆然と呟くなか、葉月は、窓を見て悲鳴じみた声を上げた。


「かさね! 詩織!」

 

 葉月が指さした先を、他の三人が見上げる。

 炎と煙に追われながら、戸惑う二人が、窓から見えたのだ。

 奈緒子が声をかけようとした次の瞬間、二人の姿は煙にかき消されてしまう。


「……ッ!」


 建物の中に戻ろうと駆け出す奈緒子を、佐野が止めた。

「やめろ、危険だ!」

「離して! 二人が!」

「中の構造も解らない君が言ったって、何の助けにもならない!

 行くなら、俺が行く」


 問答をしている大人の横で、葉月は不思議なものを見ていた。


 もう一度、詩織が先ほどの窓に現れたのだ。


「詩織……?」


 窓辺の詩織は、一人きりで、にっこりと優しく微笑んだ。

 そして葉月は気付いた。

 ワンピースの色が、白いことに。

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