真実と困惑1
「葉月、大丈夫?」
かさねと別れた後、もう一度きつく抱きしめられた葉月の耳元で、佳月がそう呟いた。
答えなければと思う葉月だったが、涙が止まらなくて、嗚咽しか出てこない。
佳月。幼い頃に、生き別れになった三つ年上の兄。だけど、幼い葉月は双子だと勘違いしていて。そう、佳月に、双子だったらよかったのにねって、よく言われた。小学校に行っても、ずっと一緒だからって。
どうして今まで忘れていたのだろう。
産みの両親の記憶ははっきりしなかった。少しもやがかかっているような感じで、鮮明に思い出すことができない。顔も解らない。
だけど必死になって葉月を抱きしめて守ろうとする、佳月のぬくもりは思い出した。はっきりと。
「お父さん」の人に、お風呂場に連れていかれた直後、泣き叫びながらベランダに飛び出した、あの日の佳月のことも。
当時は何が起こったのかよくわかっていなかった。
今なら解る。多分だけど、予想できる。あの時、佳月は、ボロアパートの二階にあったあの部屋のベランダから、飛び降りたんだ。
すぐに悲鳴が聞こえたということは、佳月は、誰か他人がいるのを確認して飛び降りた。救急車や警察が来ることを狙って。
そんなことをしたら、死んでしまうかもしれなかったのに。
大けがをしたとしても死ななかったのは、ただ運がよかっただけなのに。
きっと、葉月を救うきっかけを作ろうと、必死だったんだ。
そこまでしてくれた佳月を、どうして今まで、忘れていたんだ。
「ごめん、なさい」
ようやく出た声は、それだけだった。
佳月は、葉月をきつく抱きしめたままぶんぶんと頭を振った。長いストレートの髪が、葉月の頬をくすぐった。
「謝るのは、僕のほうなんだ。ごめんね、葉月。葉月が全部忘れるようにって、ここのお花から作ったお香を、葉月に使わせてくださいって先生にお願いしたのは、僕なんだ」
「え?」
「このお花は先生の大学の研究でできた新種で、儀式に必要なお香を作るためのもので。でも、お香の副作用で記憶が混乱して、一時的にでもいろんなことを忘れてしまう可能性があるって聞いて、それで……一瞬でもいいから、葉月が怖いことを全部忘れられたらいいって、あの時のバカな僕は思ったんだ。
でも、葉月はずっとずっと忘れてたんだね。
先生に、親から受けた虐待があまりに辛いものだったから、精神的なものも合わさって、記憶障害にまでなってしまったんだろうって言われた。だけど、それでよかったって思ったんだ、葉月が、新しいお父さんとお母さんのところで幸せになれるなら、それがいいって」
佳月が何を言ってるのか、理解するのは難しかった。
一つだけ解ったのは、葉月が佳月を忘れていたのは、佳月が全部忘れてほしいと願ったからだということ。
どんなに辛くても、佳月のことだけは忘れたくなかったと思う。だけど、全部忘れていたからこそ、今まで幸せに暮らせていたのも、事実だと思う。
何て言ったらいいんだろう。
何が正解なんだろう。
佳月は幸せだったのかな?
頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していて、何か言わなくては思っても、やはり言葉が出てこなかった。
◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆
理事長に連れられて歩いた廊下は、照明が着いていても不気味に見えた。
かさねは、我知らず、左手で右腕をさすった。不安感をごまかすように。
佳月に抱き着かれて、手を引かれていった葉月が、まるで葉月ではなくなったように見えた。
あの瞬間から、かさねの心はささくれだって、不安でいっぱいになった。
自分が、ひどく場違いな存在であるような、そんな不安。
あの狭い階段を上って、絵が飾られた廊下を抜けて、ロビーを通って、先ほど奈緒子がいなくなったあの扉の先にあった階段を上る。
最上階の三階にはすぐにたどり着く。
三階の廊下は、右手側に客室のドアが二つほど並んでいたが、突然、ドアではなく窓になった。右も左も窓なので、照明がなくとも明るい廊下だった。
不意に、右手の窓の外を見下ろして、かさねは初めて、この建物に中庭があることを知った。一階では女の子の絵が飾られていた壁の向こうにあたる場所だ。
このホテルは、横に長い長方形のような形をしていて、今かさねたちがいる右側半分の中心をくりぬいたようにして、中庭があるようだ。
上から見下ろした中庭には、綺麗なタイルで縁取られた池があった。底がステンドグラスのようになっているようで、模様は水が揺れてよくわからないが、美しい色合いだけは見ることができた。
その透き通った水を見て、かさねは改めてここが廃墟ではないことを思い知った。
「葉月さんと佳月がいるのは、あの池の下にある地下の祭壇ですよ」
声をかけられて、理事長が既に突き当りの角まで進んでいることに気付いた。
かさねは慌てて、早歩きで理事長に追い付いた。
角を曲がるとすぐに立派なドアが見えた。
「ここがホテルとして営業していた頃の、スイートルームなんです」
穏やかに話しかけてくる理事長。
これがこんなところで、こんな心境でなければ、本当に優しい男性に見えたことだろう。かさねの父がいつだか、何かの映画で演じていた父親の役のように。
コンコンとドアをノックしてから、理事長はがちゃりと、重々しい音を立てて鍵を開けた。童話に出てきそうな、クラシカルな装飾が施された鍵だった。
「どうぞ」
扉を引いた理事長は、身体を引いてかさねに先に入るように促した。
「失礼……します」
かさねは、震える手と足を気取られないように、ぎゅっとこぶしを握り締めて、室内に入った。
ふかふかの絨毯が、かさねの足を受け止めて、わずかに沈む感触が、いやにふわふわしていて不快だった。
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