キオク

「どうしてそんなにバカなんだよ! ああ?」

 頭を揺さぶる、心を凍り付かせる、こわいこわい怒鳴り声。

 お母さんが連れてきた「お父さん」だ。

 お母さんは、この「お父さん」の言うことを聞きなさいと、泣きながら繰り返す。

 そのうち、太ももやお尻を思い切り叩かれたり、蹴られたりするんだ。

 こわい。

 こわい。

 何かしゃべろうと口を開いても、泣いてしまってうまくしゃべれなくて。

 お母さんも、お父さんも、うるさいと叫ぶ。

 こわい。

 こわい。

 いたい。

 こわい。

 もう、お人形さんになってしまいたい。

 お母さんが大事そうにかざってるぬいぐるみたち。あんなふうにしゃべることもなく、泣くこともなく、悪いこともなにもしない存在になれたなら、もうきっとこわいことも、いたいこともなくなるんだ。

 お人形さんになりたい。

 息なんて、止まってしまえばいいのに。

 お人形さんになれば、お腹もすかないし、喉も乾かない。


「やめろ! 葉月は母さんの人形じゃない! 母さんの好きにしていいわけないだろ!」


 これは、佳月の声。

 三つ年上の、兄さん。

 三つ年上だけど、体も同じくらいだし、そっくりだから、みんな知らない人は双子だって言う。

 だから、佳月は、双子の兄さんというものなんだと思う。

 佳月はいつもそう言って、私の前に飛び出してきて、そして、たくさんたくさん叩かれる。

 たくさん、たくさん、怖い目に合う。

 やめて、やめて。佳月をいじめないで!

 そう思ってもうまく言葉にならなくて、またうるさいって叩かれる。


 こわい。

 こわい。

 いたい。

 いたい。

 こわい。

 こわい。


 ある日、佳月が窓からお外に出て行った。ベランダっていうところ。

 すぐに外から悲鳴が聞こえた。

 ピーポーピーポーって大きな音がした。

 人が、人がたくさん来た。

 お母さんも、「お父さん」の人も、気付いたらいなくなってた。

 知らないおばさんが、笑顔で私を連れて行って。

 佳月のベッドの隣に、入院させられた。

 びっくりするほどみんな優しくて、ご飯も飲み物も、おやつも出てきた。

 これはどうしてだろうと思った。

 きっとこれを食べたら、お母さんに怒られて、「お父さん」の人に殴られると思った。

 こわくて、一口も食べれないでいたら、点滴された。

 佳月が食べてて、私はハラハラした。怒られちゃうって。佳月も怒られちゃうって。

 泣いてばかりの毎日だった。

 知らない人にたくさん会った。


 何日か入院していたら「退院おめでとう」と言われた。

 おめでとうって何だろうと思った。

 佳月と二人、ここから出て行くのだとわかったとき、とてもこわかった。

 また、こわいこわいところに戻るんだって思ったから。

 だけど、病室にはまた知らない人が来た。

 大きなおじさんだった。

 でも、見たことないくらい優しいおじさんだった。

 おじさんは、優しく笑って、おじさんが作った家だっていうところに連れていってくれた。

 そこには、子供がたくさんいた。

 子供たちはみんな、いろんな理由があってお父さんやお母さんと一緒に暮らせない子たちだと言われた。


「みんな、君たちと同じですよ」


 誰か、大人の人が言った。

 この施設で過ごした毎日は楽しかった。

 お友達ができた。

 大人は誰も、こわいことも、いたいこともしなかった。

 でも、いつになったら、何をしたら叩かれるのか、怒鳴られるのか、こわかった。

 楽しければ楽しいだけ、どんどんこわくなった。

 この楽しい毎日は、いつ終わってしまうんだってこわくなった。

 ずっと、佳月の手を握っていた。佳月の陰に隠れていた。

 佳月は今までよりたくさん笑ってくれた。

「もう大丈夫」

 って、何度も何度も言ってくれた。

 佳月の顔も、佳月の体も、いたいいたいあざがどんどん消えていって、それだけは嬉しかった。

 嬉しかったから、もう二度と佳月の体にあざができないといいって何度も何度もお祈りした。

 そこにいた先生たちは、毎日神様にお祈りしてた。

 神棚っていうのがあって、毎朝お祈りの時間があった。

 私は毎日「もう二度と佳月にあざができませんように」ってお祈りした。


 退院の日に会った大きなおじさんは、時々施設にやってきて佳月と「大事なお話」をしてた。

 

 あの日、遊園地に行こうって、佳月が言い出したあの日。

 あの大きなおじさんは、私と佳月を遊園地に連れて行ってくれて、大きなメリーゴーランドに乗せてくれて、そして――



 ――私から佳月を奪ったんだ。

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