カヅキ

 笑顔の理事長が扉に手をかけて、ノブがゆるりと下がった。

 かさねも葉月も、まるで魔法にかけられたように一歩も動くことができない。


 こわい。

 逃げたい。


 頭の中でもう一人の自分が泣き叫んでいるのに、体は凍ってしまったかのように動いてくれない。

 がちゃり――と音がして、ガラス戸が奥に引かれていく。

 隙間が空いたと同時、聞き覚えのある声が、奥から聞こえた。


「せんせい」


 理事長が振り向いた。

 大きな体ごしに、通路の奥に立っている白いワンピースの少女の姿が見えた。


「あっ」


 葉月の脳が情報を処理するよりも早く、かさねが声を漏らした。


 理事長の後ろで微笑んでいる少女の顔は、葉月に瓜二つだった。


「せんせい。葉月ですよね? 僕、葉月と話がしたいです」


 葉月がびくりと震えた。かさねが、葉月を守るように抱き寄せる。

 理事長はちらりとかさねと葉月の様子を見て、少し困ったような顔で笑った。

「わかったよ佳月かづき。けれど、葉月さんはきっと困惑しているから、怖がらせないように話せるかい?」

「はい、全部、話してもいいんでしょうか?」

「構わないよ。ここまで来たのなら、仕方ないだろう」

「ありがとうございます」

 二人で何やら話が進んでいる。かさねがぎゅっと葉月を抱きしめて、キッと理事長を睨みつけた。


「理事長先生。私は葉月と離れません。詩織はどこですか? 詩織も、ここにいるんでしょ?」

「やあ、君は葉月さんと同室のかさねさんだね? 大丈夫、詩織さんは無事ですよ。三階の私の部屋で待っていてもらっています。さあ、かさねさんは一緒にそこに行きましょう」

「葉月も一緒に」

 かさねの強い声に、理事長はやんわりと微笑んだ。

「そうして差し上げたいのですが、まず、葉月さんには、彼――佳月かづきから大事な話があります。大変プライベートな話題ですので、どうか彼らを二人きりにしてあげてほしいと思います」

「彼?」

 かさねが眉間にしわを寄せた。葉月は、かさねが聞き返した言葉の意味を理解することができないでいた。


「ええ。儀式がありましたので、こうしてかんなぎの服を着ていますが、正真正銘の男性です」


 かさねが驚いている。葉月はその顔を見ているので精いっぱいだった。

 まるで人形になってしまったみたいに、脳が働かない。声も出ない。一人だけ、取り残されていくようだ。


 ――はづきは、母さんのお人形じゃない!

 

 突然、脳内に響いた声に、葉月はハッとした。

 これは、誰の言葉だ。


 ――やめて! 叩かないで! はづきを叩くな!


 ああ。これは、そうだ。


「かづき」


 勝手に口からこぼれた。


「にいさん」


 かさねが驚いて、葉月を抱きしめていた腕を緩めた。

 そのすきを突くようにして、理事長の後ろの少年――佳月が、嬉しそうな顔で駆け出して、理事長の脇をすり抜けると、葉月に抱き着いた。


 ふわりと、甘い、あの、青い鈴蘭のような花の香りがした。


「葉月! ずっと、ずっと会いたかった」


 かさねが、数歩後ずさる。混乱している。

 理事長が、佳月の肩に手を置くと、佳月は一度葉月から離れて、訳知り顔でうなづき葉月の手をひいて、ドアの中に入って行った。

 理事長は、葉月・佳月とすれ違うようにしてドアから出てくると、視線でかさねに階段をのぼるように促した。困惑してすぐに動けないかさねに、理事長は優しく微笑んだ。かさねの肩に手を置いてそっと背を押す。

 かさねは、呆然としてそのまま階段を上って行くことしかできなかった。


「葉月!」


 扉が閉まる直前、もう一度、嬉しそうな佳月の声が聞こえてきた。

 そしてかさねは、あの時の歌声も、先ほど聞こえてきた歌声も、この佳月の声だったのかと思った。

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