遭遇

 かさねに言われて、背筋がまた震える。

 そう言われてみると、ドアを引いたところなんて見なかった。


 いや、解っている。見なかったんじゃない。開けてない。手前に引いて、ドアを開く動作なんてしていないし、開いたドアも見えなかったし、物音もしなかった。認めることを、脳が拒否しているけれど。

 

 あの少女はドアなんか開けていない。


 じゃあどうやって、壁の中に消えたの? 通り抜けていったとでも?

 怖くて口にできない。深く考えられない。

 そんなことをしたら、この先にあるを見届けられない。

 そんな気がした。


 振り切るように、葉月はただ、かさねのスカートの裾をきゅっとつかんで、階段を下りた。


 階段は短い。すぐに突き当りに着いた。

 右を見ると、そこにあったのは壁ではなく、透明なガラス張りのドア。

 その先に見えたのは、石の壁でできた細い通路が数歩分。その先には眩しい光がさす、土の地面が見えていた。


 ああ、きっとここだ。この通路の先に、あのお墓のあるお花畑がある。

 葉月は振り向いて、かさねの目を見た。

「かさね、前に私が連れていかれてたの、ここだと思う」

「本当?」

 かさねが一段上の段から、身を乗り出して葉月の肩越しにドアの中を見た。


 その時だった。


 たかきあまのはらむかえいれられし

 いとひいでしつきのとのと

 はなばなさきほこりしひめさまの

 われらがよわきみたまみちびきたもうこと


「――ッ」

「これ……」


 夢で、葉月が聞いた歌だ。

 かさねも、聞き覚えがあるようだった。

 二人は顔を見合わせて緊張する。

 この声を発生させているものが、ドアの向こうにいる。

 中に入るべきか躊躇していると、通路の先に人影が現れた。


 かさねは反射的に葉月を引っ張ったが、間に合うはずもなく、二人は人影と扉のガラス越しに対面してしまった。


「理事長?」

 

 ガラス戸の先で驚いたような顔でこちらを見ているのは、真っ黒なスーツ姿の温和そうな初老の男性。

 さっき会ったときとは違う服装だったけれど、間違いなく理事長だった。


 理事長は、葉月の顔を見ると、穏やかな笑みを浮かべた。

 あまりに場違いなその表情は、葉月の恐怖心をさらにあおった。



  ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆



 数分前。突然背後から口元を抑えらえて引きずり倒された奈緒子は、とっさに自分の口元を抑えている手に嚙みついてやろうと、思い切り口を開いた。

 その時。耳元に、吐息と共に懐かしい声がした。


「奈緒子。お願い、静かにして」


 佐野君の声。

 息を呑んで、奈緒子は動けなくなった。

 そのまま引きずられてドアの先の廊下に連れ出され、二階まで連れていかれて、今、奈緒子は一番近かった客室の中で、クラシカルな猫脚の椅子に座らされている。

 胸やけがしそうなほど、少女趣味な内装だった。


「それで? これはどういうことよ? 佐野君。ううん、佐野君の幽霊君」


 奈緒子は、じっとりと扉の外の様子をうかがっているへっぴり腰の青年に向かって低い声でそう言った。

 青年――佐野君の幽霊とおぼしきものはそっとドアを閉めると、こちらが情けなくなってくるほど、眉尻を思い切り下げて奈緒子を振り向いた。

「なにそれ?」

 不服そうに言う声は、付き合っていた頃と何も変わっていなかった。

 さらりと揺れる、奈緒子からしたら少し邪魔そうな長めの前髪も、柔らかい栗色の髪も、同じ色の垂れ下がった気の弱そうな瞳も、以前奈緒子がプレゼントした上着も。

「あなた、死んだんでしょ。先輩から連絡きた」

「あー……まあ、そう……いうことにしてもらったんだけど」

「は?」

「ていうか、奈緒子こそ。どういうことなんだよ。こんなところにいるなんて。これじゃ、一体何のために死んだことにしてもらったのかわかりゃしないよ」

「言ってる意味がわかんないんだけど!」

「ちょっ……大きい声出さないで、シーっ!」

 奈緒子はびくびくしている佐野に、いら立ちがどんどん募っていった。

「あのさあ、私、アンタのせいで、男をフッて自殺に追い込んだ冷酷オンナってことになってるのよ? フラれたのは私なのに! 今、死んだことにしてもらったって言わなかった? 本当にどういうことよ? ちゃんと説明して!」

 佐野は、癇癪を起した奈緒子を見て、心底驚いたようだった。

「そんなことになってたの? どうして……」

「こっちが聞いてるの!」

「あ、そっか……あの、ごめんね?」

 何で質問系なんだ。

 奈緒子の心はささくれだつ一方だったけれど、久しぶりに見る弱々しい顔に、どうしようもなくホッとしている自分がいることにも気付いていた。

「俺のこと、あんまり詳しくは話せないんだ。ごめん。俺一人の問題じゃなくてさ。とりあえず、俺のことは死んだってことでこれからもお願いしたいんだ。死因については病死ってことにしてもらったのになあ」

 そう言って、佐野は大きなため息をついた。泣きそうな顔で奈緒子を見つめる。

「それで、どうしてここに来たのさ。あの子たちも。前回で懲りなかったわけ? 一回脅かされても懲りない子なんて、俺初めて見たけど」

「私今、秀花の寮監やってるのよ。貴方にフラれたから、居づらくって異動願いを出したの」

「はあ?」

 佐野は、頭をガシガシとかくと、白い布がかけられたベッドのマットレスの上に脱力して座り込んだ。

「なんだよそれ。よりによって秀花って……。くっそ、こんなことになるんなら、君と付き合ってたことも全部先生に正直に話すんだった」

「先生? 先生って誰よ?」

 奈緒子の問いに、佐野は何か失言をしたらしく、苦々しい顔で目をそらした。

「君には関係ないよ。それより、じゃああの子たちはやっぱり秀花の生徒なんだね?」

「そうよ。前回はあの子たちの友達が肝試しに誘って三人で来て、今日はその、肝試しに誘った子がここに行くってメモを残していなくなったから、探しに来たの」

「メモ……? どうしてそんなのもの残して、ここに来るんだよ……」

「知らないわよ。ただ、私と一緒にいた二人、あの子たちが言うには、ここには女の子たちが監禁されてる可能性があるとか言ってたわ。

 私たちが探しに来た子が置いて行ったメモには『鉄塔から落ちたのが幽霊じゃないことを証明する』みたいに書いてあったけど」

 奈緒子が肩をすくめて言った言葉に、佐野が硬直した。


「何それ……?」


 ゆらりと、佐野が奈緒子の真正面に立った。

「その子たち、君に何か話した?」

 見たことのない、鬼気迫る表情に、奈緒子は佐野に対して、初めて恐怖心を覚えた。

「え?」

「その子。今奈緒子が探してる子、名前は?」

「し……詩織さんよ。倉橋詩織さん」


 佐野の顔色が変わった。

 怯えているような、怒っているような顔。


「他の二人は?」

秋月あきづきかさねさんと、大鳳葉月さん……」

 

 葉月の名前を聞いた佐野は、思い切り目を見開いた。


「何よ、どうしたの? あの子たちを知ってるの?」


 奈緒子は急に佐野が怖くなってきた。

 付き合っていたのはせいぜい一年たったかどうかという短い期間だ。

 そんな短い期間で、どうして彼の全てを知っていた気がしていたのだろうって、フラれた時も、先輩から佐野君が死んだと連絡が来た時も思ったのに。今、それをまた忘れていた。

 生い立ちも、どうして自分が死んだことにしてもらったなんて意味の解らないことを言っていたのかも、全然わからないっていうのに。


 この男は――何者だ。


「少し……知ってるけど、教えられない」


 かすれた声でそう言った佐野は、突き刺さるような視線で、奈緒子の恐怖心を射抜いた。

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