傷
――そんなことを言われても、わからない。
葉月が思ったのはそれだけだった。
脳が処理しきれないほどの恐怖体験をした記憶など忘れたままで構わないと思ったし、自分に危害を加えるような産みの親にも会いたいと思ったこともない。
だって、葉月は今、幸せだ。今の両親が大好きだ。他に親なんていらない。
そんな自分に姉妹がいるかもしれないなんて、考えたこともなかったのに。
その姉妹が、事件に巻き込まれてるかもしれないなんて……。
真剣なかさねの目線から顔を逸らしたら、門がある方角が見えた。警備員が増員されている門。それを見て、葉月は警察というものの存在を思い出した。
「警察! 警察に相談した方がいいんじゃない?」
かさねは難しい顔になった。
「警察、動くかな……」
「さすがに、女の子が監禁されてるかもって言ったら、見に行くくらいのことはしてくれるんじゃない?」
「……私、警察も怪しいと思うんだよね」
「えっ? どうして?」
かさねは、暗い……何かをひどく憎悪するような顔になった。
「昔の、あの、古い掲示板にあった、今回と同じような事件さ、おかしくない? 鳥を人と見間違ったことで集団パニックだなんて。無理があるでしょ。警察も、事件をもみ消した可能性があると思ってる」
「嘘……、そんな映画みたいなこと……あるわけ……」
「あるよ。権力者ってのはさ、怖いんだよ」
「かさね?」
かさねは、泣きそうな顔になって、数秒黙ってから、顔を上げた。
「葉月も、自分のこと教えてくれたんだもんね。私も話す」
「え?」
かさねは、ずっと握っていた葉月の手をそっと放すと、きれいに手入れされている自分の爪を見つめながら話し始めた。
「私さ、小さい頃、軟禁状態で過ごした経験があるんだよね」
「なんきん……?」
「監禁までいかない感じ? 家の中の、半分くらいは好きに出歩けたけど、外に出れなかったの。幼稚園にも、何か月だったんだろ? しばらく行けなかった。親は、幼稚園とか近所の人に、父親の仕事でしばらく海外に行くって嘘ついてたみたい」
葉月は目を見開いた。
まさかとは思うが、それは――
「かさねも、虐待されたってこと?」
「んー……その辺微妙なんだけど……」
「微妙?」
「一応……っていうか、私のため? 父親が共演した女優にストーカーされてて、私とお母さんの命が危ないから家から出られなくなったの。
ベランダとか、外から見える場所は近寄らないように。カーテンも閉め切って、太陽も空も、全然見えない生活だった」
「なんか、大変だね」
言ってしまってから、ひどく間抜けで心のこもっていない言葉のように、葉月には思えた。あまりに現実ばなれした話で、理解が追い付かないでいたから、これ以上の言葉が出てこなかったのだけれど。
有名な俳優の家だ。きっと、普通の家庭よりも大きくて広くて立派な家だろうけど、それでも太陽の光を全く見ない、空も外の景色も見ない生活に、小さな子供が耐えられるのだろうか。
「信じられないよね? こんな話。嘘みたいっていうか、現実じゃないみたいだよね。今でも時々、夢だったのかなって思いそうになる。ううん、夢だったことにしたくなるっていうか」
「かさね……」
「私は小さかったから、いくら言われても、完璧に静かにはできなかったんだと思う。音を立てるなって、何度もひどく叱られた。今思えば、あの時のお母さんはちょっと異常だったよ。お母さんも追い詰められてたんだ、多分。
ウチの父親くらい有名になればさ、殺害予告だとか、いやがらせなんてしょっちゅうなんだけど、あのストーカー女優だけは本当にヤバかったらしいんだ。
ものすごく大御所のおじいちゃん俳優の娘で、大きな芸能事務所の役員だったんだって。だから何かいろんなところに権力の幅効かせちゃってて、警察に相談したって無駄っていうか、当時の時代もあったんだと思うけど。
事件が起こらないと動けない――って言い訳でさ、全然助けてくれなかったみたい」
「かさね、あの……今は大丈夫なの?」
ふと葉月が心配になって聞くと、かさねは泣きそうな顔のまま、痛みをこらえるように笑った。
「大丈夫だよ。軟禁生活は半年も続かなかったの。ストーカーが死んだから」
「え?」
「自殺。けど、一部の人には当時、父親が殺したんじゃないかって言われてた」
「――っ」
葉月は言葉を失った。
「ウチの父親がさ、どうして今もずっと有名俳優でいられるのかってさ……多分、実力じゃないと思うんだよね」
「え?」
「有名女優であるお嬢様が、既婚者に恋したうえストーカーになって自殺したって、噂になるの嫌がった有名事務所のお偉いさんによる口封じ? ストーカー女優とあったいざこざ、全部なかったことにする代わりに、芸能界での今の地位を約束されてるって感じ? まあストーカーの親の権力者ジジイも、もう死んでるみたいだけど。
ウチの父親は、自分の妻と娘が精神病むくらい怖い想いしたことも、何もかもなかったことにして、安定を手に入れたんだよ」
「そんな……」
「……解ってるんだ。父親がそうやって安定を手に入れたから、私とお母さんは生活できたんだってことくらい。でもさ、私、今でも家にいるのが辛いの。
あの時の家からは引っ越したから、もう違う家なんだけど、それでも辛い。
家にいると、また閉じ込められる気がする。カーテンを開けたら、またお母さんが泣きながら私を叱るんじゃないかって……怖くなる」
かさねの眉間に深い深いしわが刻まれて、きれいな爪が手のひらに食い込むほどに強く握り締められたこぶしが、フルフルと震えだした。
葉月はそっと、かさねの背中に手をのせた。さっき、かさねがしてくれたように。
「変だよね。ストーカーもその親も死んだから、もう怖くないはずなのに。
なのに、何でもないときに、家にいるだけでフッと思い出して、怖くなるの。辛くなるの。
だから私、早く家から出たかった。父親の庇護下から抜け出したかった。
それで秀花に来たの。全寮制だから」
「かさね、がんばったんだね」
「葉月……ありがとう」
かさねがふわりと抱き着いてきた。葉月はそのまま、かさねの背中に腕を回して、骨ばった弱々しい背中をさすった。
数秒して、かさねは葉月を、もう一度正面から見つめた。
「私ね、監禁とまでは言えないような状況でも、実の親にぬくぬくと守られた状態でも、閉じ込められるってすごく辛いことなんだって知ってるの。
だから……あの廃ホテルに監禁されてる子たちがいるなら……助けたい」
「かさね……」
葉月は、自分の姉妹がどうとかいうよりも、かさねの真剣な気持ちに応えたいと思った。
だけれど、監禁の被害者を救うだなんて、ただの女子高生である自分たちにできるとは思えない。
何か。何か方法はないのか。
必死に考えようとしていると、寮の方から自分たちを呼ぶ泣き叫ぶ繭の声が聞こえた。
「――かさね! 葉月! 助けて! 詩織を助けて!」
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