ホテル

 黒猫は、まっすぐに三階建ての洋館に向かっていった。

 洋館は、外周をやたらと古風な飾りの柵がついた塀でぐるりと囲まれていて、門には「ホテル雪月花」と言う文字が彫り込まれていた。こちらも、ところどころ欠けて、朽ち果てている。

 だが、門の劣化具合に比べて、建物自体はまだまだ現役で使えそうなくらい、綺麗に見えた。少なくとも、廃墟には見えない……気がした。

「にゃーん」

 猫は、最後にひと鳴きして、わずかに開いていた門のフェンスのすき間から、塀の中に入って行ってしまった。

「あっ……行っちゃった……!」

「ちょっと開いてるってことは……もしかして、詩織も、この中に入って行っちゃったんじゃ……」

 かさねの予想を聞いて、建物をまじまじと見た葉月は、なぜか心がざわざわとした。


「この……中に……?」


 どうしてだろう……入って行ったら……もう戻れなくなる。

 そんな気がする。

 入ってしまったら、もう、昨日には戻れない。

 平和な毎日には……戻れない。

 そんな不安が、恐怖が、どんどん膨らんできて、葉月は我知らず、震える手を握りしめた。


「葉月、怖い? 怖い……よね、これはさすがに……あっ」

 かさねが、困ったように笑ってホテルを見上げて、目を見開いた。

「えっ何?」

 葉月をかさねの視線を追う。

 三階の一番右端の窓。

 そこに一瞬、ゆるくウエーブした、ハーフアップのロングヘアが揺れて見えた。

「あ、詩織? 今、誰かいたよね、あの窓」

 窓からこちらを見下ろしていた詩織が、振り返って窓に背を向け、窓から遠ざかった瞬間……と葉月は思った。

「いたけど……詩織にしちゃ小さくなかった……?」

「え?」

 かさねと葉月はしばし見つめあった。

「でも……ここ、下から見上げてるし……三階……遠いし」

「小さく見えただけ……だよね? 詩織しか……いるわけないし……ないよね?」

 自分で言っていて葉月は背筋が寒くなったが、ぎゅっとかさねが手を握り返してくれた。

「そうだよ! 行って見よ。とりあえず、ちょっと中に入るだけ。ホテルなら、ロビーみたいになってるって」

「うん! とりあえず、ちょっとだけ、ちょっとだけ覗いてみよう」

 二人は手を繋いで、大丈夫大丈夫と小さくつぶやきながら、大きく立派な両開きの扉を開いた。


 ギイ。と、きしんで、扉が開いた。

 中は、当然ながら薄暗かった。

 カーテンが閉じていないため、窓から陽の光がさしている。

 真っ暗じゃないだけよかったと、葉月はこっそり思った。

「詩織~……」

 おっかなびっくり、かさねが声を出した。

 当然返事はない。

「上の階には聞こえないんじゃない?」

 葉月はそう言いながら、中の様子をよく見た。

 正面のロビーらしきカウンターには白い布がかけられている。その隣の広いスペースにはきっと、営業中はソファーやテーブルやカフェがあったのだろうが、家具類はすべて壁際に寄せられて、やはりそれらにも白い布がかけられている。

 葉月は、心霊スポットの廃墟といえば、落書きや破壊行為でひどく荒らされている印象を持っていたが、そういう様子はなく、思っていたよりずっと綺麗だった。

 肝試しでも、ここまでは入ってこなかったのだろうか。

 そう言えば、繭が「秀花の横を通る危険運転の車を、先生たちが通報していなくなった」と言っていた。秀花の先生たちが、図らずもこの廃墟も守っていたのかもしれない。 


 ガタン!


「っ!」

「きゃあっ!」

 突然、左の扉から音がして、二人は悲鳴を上げた。

「えっ?」

「詩織?」

 二人はぴったりとくっつて、左の扉を凝視した。

 葉月はもしかして詩織が戻ってきたのかもしれないと思ったが、やはり返事はない。


 ギイ


「開いた」

「開いたけど……え? 勝手に?」

 少しだけ、扉が開いた。

 本当に少しだけだから、元々きちんとしまっていなかったのならば、振動や風で動いただけと言えるかもしれない。だが――

「え? さすがに怖いんですけど」

 かさねが、力なく笑って言った。

 笑うしかない……という感じだ。

「どうする……?」

「見に行く? 映画なら絶対死にそうだけど」

 こんな場所でも冗談を言えるかさねを、葉月はちょっとだけ尊敬して、いっしょにいるのがかさねでよかったと思った。

「死ぬのは困るけど……」

「ちょっと、チラっとだけ見てくる」

「えっ? 一人で?」

「いや私が覗くから、葉月はすぐ後ろで手、握ってて」

「わ、わかった」

 かさねは、葉月の手を引く形で扉の方へと移動した。

 かさねが扉に右手をかけて、左手で葉月の手をぎゅっと握った。葉月は、しっかりと握り返した。


「開けるよ、葉月」

「うん」

「せーの……」

 かさねがそう言って、ぎいっと扉を奥に押し込んだ直後、ふわりと、甘い香りがした。

「あれ? なんの……」

 何のにおいだろうと葉月が言おうとした瞬間、ぎゅっと握っていたはずのかさねの手が、するりとすり抜けていった。

「うわあっ!」

 かさねが悲鳴を上げて、前のめりになって扉の向こうに倒れ込んでいく。

「かさね!」

 葉月が慌てて手を伸ばした直後、激しい頭痛とともに、葉月の視界がぐるりと歪む。


 ――手……手を、放しちゃだめ……!


 甘い香りに包まれて、視界がぼやけていくなか、葉月は精いっぱい手を伸ばして、触れた手を、必死に握りしめた。

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