黒包
午前10時。スマホから着信音が鳴る。何度目の着信だろうか。
確認した限り、今日だけで20回は私のスマホに会社からの着信が入っていた。
会社からの着信音に怯え、私はただただ震える。ようやく着信音が鳴りやんだ。
私は震える手を伸ばし、スマホの着信履歴を確認する。
いくつかの着信には留守電メッセージが入っていた。でも、この留守電メッセージを聞くのは嫌だ。「さっさと会社に来い、この役立たずが。」そう言われる気がする。
もう何か月も手入れをしていない、1Kの部屋。
ゴミ袋はそこかしこに溢れ、足の踏み場がない。洗濯物もほとんど部屋干しで、湿ったニオイがただよっている。
ゴミ袋の中に入れたコンビニ弁当やカップ麺、デリバリーで受け取った料理のゴミのニオイと部屋干しのニオイ、そして何か月も風呂に入っていない私のニオイ。ありとあらゆる異臭が私の部屋を満たしている。
そんな環境のせいか、最近よく部屋の中でゴキブリを見かける。薄暗い部屋の中でも分かるくらい、カサカサと音を立て時折黒い体を蠢かせながら餌をあさっている。
最初はうっとおしいと思っていたが、何か月もこの生活を続けていたら慣れていた。
そういえば、最近自分の肌がやけに黒く見えるようになった。鏡を見るのも面倒なので全体的にどうなっているかはわからないが、腕をじっと見ると黒くなっているのが分かる。
まるでゴキブリみたいだな。
私はふっと笑う。
でもなんだかとても心地いい。
出社を拒否して数か月。家にずっと引きこもっているが、不安にはならない。
このゴミ溜めの部屋の中で籠っているのが、とても心地よいのだ。
最近はなんだか体も暖かい。死人のように働いていた時と比べて、心地よい。
ふと手の甲にゴキブリが乗ってきた。カサカサと私の体に這い上がるそれをみて、私はふと可愛いやつだなと思い微笑む。
その時、ドンドンドンと扉をたたく音が聞こえた。
反射的に身体がびくつく。
「おい、いるんだろう。いつまで会社に来ないつもりだ。何度電話させれば気が済むんだ。さっさと扉を開けろ!」
私の嫌いな声。
上司だ。嫌だ。怖い。
けれども、上司の声はなおも響く。
「おい、いい加減にしろ。開けないなら、大家さんに開けてもらうぞ。」
え、なんで?なんで大家さんがいるの?
上司と大家さんが何か話している。
瞬間、扉の鍵が開かれる音がした。
嫌だ。開けないで。ここは私の落ち着く場所なのに。やめてよ…!!
「いやああああああああああっ!!!」
「うわああああああああああっ!!!」
上司と大家さんが、とたんに悲鳴をあげる。
大家さんは後ろで尻もちをついた。
悲鳴をあげたいのはこっちなのに。
早く逃げなきゃ。
私は急いでベランダへと向かう。
しかし、悲鳴をあげながらも立ち上がった上司が私の手を掴む。
「おい、いったいどうなっているんだ、これは…!」
離して…触らないで…。
「くそっ!何だこのゴキブリ、取れないぞ!」
ゴキブリ?
私は、開け放たれた扉からあふれ出る光で、自分の腕を見る。
私の腕には大量のゴキブリがうごめいていた。
よく見れば腕だけじゃない。足や胸、そして恐る恐る顔も触ったらそこにはゴキブリたちがカサカサと音を立てて私の皮膚をはいずる音が聞こえてきた。
上司が私の腕にはいずるゴキブリを、何とか取ろうと悪戦苦闘している。
ぶちぶちぶち…何かがちぎれる音がする。
痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
痛い!!!!!!!!
あまりの激痛に悲鳴をあげる。
上司が呆然としながら私の腕を見つめていた。
私も自分の腕を見つめた。そこには、皮膚が剥がれ神経がむき出しになった私の腕があった。
上司が手に持った複数のゴキブリの腹には、私の皮膚らしきものがついている。
私はすべてを察した。
大家さんと上司は呆然としながら私を見つめている。
「もう、放っておいてください。」
「このままがいいんです。このままが…」
「このまま包まれていたい、外の世界には出たくないんです…」
私の声は、あの二人に届いたのだろうか。もう分からない。
ふと私の皮膚上ではいずっていたゴキブリたちが、上司と大家さんに向かっていく姿が見えた。視界が黒に包まれていく。
ゴキブリたちの温もりに包まれながら、私は二人の姿をただ見て、その後にそっと目を閉じた。
――――――
「次のニュースです。昨日午前11時ごろ、○○区のアパートで男性1人と女性1人の遺体が発見されました。男性はアパート内に住む女性の上司、女性はアパートの大家とのことです。近隣の住民の話では、アパート内に住む20代女性の部屋から異臭がすると苦情が相次ぎ、大家とアパート内に住む女性の上司が駆け付けたとのことです。現在、警察は重要参考人として女性を捜索していますが、行方がわからないとのことです…。」
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