201号室のおじさん

「おばあちゃんたちが住む団地には、変な人がいるから気を付けて。」

「絶対に1人で階段は昇らないで。必ず、お父さんかおじいちゃんと一緒に上がるんだよ。」


団地へ行く時に、よく母から言われた。


大好きな祖母と祖父が住む、古ぼけた団地。

母の実家でもあるその団地の201号室には、変わった男がいるという。


母曰く、「とにかく話が通じない。私が子供の頃から、おかしな人だった。」と。


下りてくる住民の足音を聞いた途端に、急に扉を開けて長話をするらしい。

拘束時間はかなり長く、ひどい時だと3時間近く階段の踊り場で喋り続けるとのこと。


4階に住む祖母も、1人で出かけるときに男に呼び止められることが多々あると言っていた。


「下手に断れば、急に怒鳴りはじめて、物や人に当たることも珍しくなかった。小学生の時にそれを知らずに断ったら、ひどい目にあった。」

と母は語る。


元々、被害妄想が強く、そのせいで度々他の住民とトラブルを起こし、ひどい時では暴行罪で警察に連れていかれたこともあるらしい。


それも、何度も。

そのため、団地の住民たちの間では、「201号室の男とトラブルを起こしてはいけない。関係を持ってはいけない。」というルールが、暗黙の了解となっていた。


また、男性が階段を上り下りする時は絶対に扉を開けず、話しかけてはこないらしい。


201号室の男の、そうした奇行から母も祖母も、ひどく怯え切っていた。

経験からくる恐怖で、娘の私に何度も注意をした。


「絶対に1人で団地に来るのはいけない。来る時は、お父さんかおじいちゃんと一緒に。」と。


子どもの頃の私は、二人から聞いた男の話が怖くて、祖母の団地に行くときは必ずその教えを守った。


不思議なことに、私は奇怪な住民と遭遇することはなかった。

私が祖母の団地に行く機会がそもそも少ない・たまたま201号室の住民が留守だった、というものもあるかもしれない。


けど、20数年経った今も、201号室の男の顔も名前すらも知らない。

ある意味、幸福なことなのかもしれないなと思って、日々をやり過ごしてきた。


―――――そして今、私は他界した祖父母の部屋で遺品の処分を行っている。

「まだあの住民がいるかもしれない」というほんの少しの恐怖はあったが、1人で階段を上っても201号室の住民には遭遇しなかった。


それもそうだ。

20数年経ったのだから、その住民ももしかしたら他界しているかもしれないし、別の場所に引っ越したのかもしれない。


ほっとしながら、祖父母の部屋の荷物を片付ける。

一息つくために、地上にある自動販売機まで行こうと階段を降り、2階に差し掛かる。


手すりに手をのせて、1階へ行こうとしたその時だった。


ガチャリと、乱暴に扉が開く音がした。


私は恐る恐る振り返る。


201号室の札がかけられたその部屋から、扉を開けて小汚い男がぎらついた目で私を見つめていた。


そして男は、目を大きく広げ、不気味な笑みを浮かべながら、大声で喋り始める。


「なあ、あんた4階の住民の孫だろ?大きくなったなぁ。あんたが赤ん坊の頃からずっと見てきたよ。娘の方に若干顔は似ているが、胸と尻は成長したなぁ。その様子だと4階の住民はくたばったのか?それは残念だなぁ。あそこのばあさんとは気が合って、何時間も話す仲だったんだよ。そういえば、今日は最悪だな、曇りだ。曇りの日は良いことは起きないって相場が決まっている。それから…。」


男の話に、何の脈絡もない話をひたすらし続ける。

私は、恐怖で体が凍り付き、手すりから手を離すこともできず、ただ男の話を聞き続けるしかなかった。


ふと、男の部屋の扉の郵便受けを見てみると、包丁らしきものが見えた。


ああ。

母と祖母が言っていたことは、本当なんだ。


この男は、狂っている。

そして、自分の本能が叫んでいる。


「いますぐこの場から逃げろ。」と。


私は、男の話が一息ついたのを同時に、ダッシュで階段を駆け下りた。

一瞬だけ、男と目が合う。

男の顔は、先ほどの不気味な笑みから、般若のように恐ろしい顔へと変貌していた。


「待てこら!!!このクソアマ!なんで俺の話を無視するんだ!お前も俺のことをバカにしているのかーーーーーー!!!」


男の訳の分からない怒声が、団地中を包む。

私は、男から逃げるために、1階に降り、自動販売機を過ぎて、団地から少し離れた道路へと走っていった。


その途中で、近くに住むいとこに電話をかける。


「もしもし?私。…ちょっとだけかくまってくれる?

おばあちゃんの遺品を整理して、自販機のところに行こうと思ったら、2階の部屋の住民につかまりかけて、逃げてるところなの。」


「お前、何言ってるんだ?そんなわけないだろ。あそこの住民は、5年前に死んでるぞ。ばあちゃんたちがいなくなってから、おかしくなったのか?」


いとこの怪訝そうな声を聴いて、背筋が凍る。


あの男はすでに亡くなってる?

なら、さっき私に話しかけてきたのは誰?

怒鳴り声、不快な笑み、鼻につく悪臭…どれも幻聴や幻覚とは思えないくらい、鮮明に焼き付いている。


――――結局、その日はいとこの実家に泊めてもらい、落ち着いたら親族一同で祖父母の部屋の遺品整理を行うことにした。


201号室の住民がすでにいないのか、あの時の出来事は本当に幻だったのかを確かめるために、私は後日いとこと一緒に団地へ訪れた。


勇気を出してインターホンをならしたが、人は出てこない。


近所の人に聞き込みをしてみた。

確かに、その男は5年前に亡くなり、以降201号室は空き室になっているという。


「なら、私が遭遇したあの男は幽霊だったというわけか。」

私は、1人ボソッと呟き、乾いた笑みを浮かべる。


ずっと気がかりだったおかしな住民が、幽霊となって私の前に姿を現した。

顔も、名前も知らない、201号室のおじさん。


20数年抱えてきた謎が、こうもあっけなく解消されたことに、笑うしかなかった。


――――その後、親族一同で祖父母の遺品整理を行い、無事部屋も綺麗になった。

私はその様子を見届け、いとこの車で駅まで送ってもらうことにした。


離れ行く団地を、助手席の窓から眺める。

祖父母も亡くなり、もう行くこともないだろう。

団地に行かなければ、あの男の幽霊と会うこともないだろう。


いつもの日常に戻るだけだ。

さっさと忘れて、普段通り過ごそう。


そう思いながら、ふと車のバックミラーを見る。


後ろの座席に、下卑た笑みを浮かべた201号室の男が座っていた。

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