雲の手
赤い大蛇の山神も、黄昏に染まりながら消えていく。霧は晴れ、綿菓子が溶けるように雲も消えていった。
間近に迫る戦場では、おもちゃみたいに兵の身体が飛んでいく。見上げるほど大きな、鎧を
まるで悪夢の中にいるみたい。
そこに、風のように走り寄った若武者。兵を殴り飛ばして伸びる、大きな腕を斬り上げた。腕は勢いのままにふっ飛び、空の一部となって溶けていく。
まわりの兵たちは唖然とした。若武者のその力と、刀を握る右腕に。
うごめく
「九一郎さん」
「巫女はさくとそこで待て、数を減らす」
私たちは兵を城に残し、一気に戦場に駆け降りてきた。九一郎さんのある力を使って。
彼は力を使いこなしているようで、息つく暇もなく動き続け、辺りにいた巨体の物の怪を斬り刻んでいく。
すごい──。彼の動きに、改めて見惚れてしまう。
「何と言う切れ味か」
九一郎さん自身も驚いているみたい。
刀の強度と切れ味を大幅にあげているらしい。これは『ソード』、風のエレメントの力だ。薄い風の膜を右手から刀にまとわせていた。
九一郎さんは刀を左手に持ち替え、へたりこんでいる兵に右手を差し出す。兵は恐る恐る右手を掴むと、勢いよく立ち上がった。
「怪我は治せぬが、活力が
触れた者に、しばらく全力で走り回っても息がきれないほどの活力を与える。
九一郎さんが走り抜けたところから、山追で疲れていた兵達の顔つきが変わり、明るくやる気に溢れていくようだ。この力で、私もさくさんたちも戦場までいっきに駆けおりた。
もちろん彼自身にも使える『ワンド』、火のエレメントの力だ。
「
二人を呼び寄せ、右手で肩に触れる。すると羽佐さんから放たれた矢は、巨体の鬼の分厚い腹部も大きく削り貫通した。
「これは危ない、必ず貫通するものとして気をつけて
暮馬さんの槍も、赤鬼の巨体をものともせず分断。風のエレメントの力も、数人に分け与えることができるんだ。
タロット小アルカナの『エースカード』は、ソード、ワンド、カップ、ペンタクル、これら四つのスートの『1』のカードだ。始まりや生まれることを表す。スート・属性の力が一番強く現れる。タロットの絵に描かれているのは、雲から現れた右手が、それぞれのスートを持っていることが共通点。
恋人たちのカードに、この四枚のエースカードを重ねた時──九一郎さんの右腕は『雲の手』へ変化する。
力の具現化や切り替えにコツがいるらしく、九一郎さんは新年参賀の道中にも練習していた。
「サキガケ、あっちの物の怪を……次はえーと」
少し戦場のはずれにいる私とさくさん。
九一郎さんがあらかた周囲の物の怪を倒していったけど、ただ見ているだけなんてできない。ここからでもできることをする。
サキガケナイトは私が指示をしたり、敵を認識しないと動いて貰えない。戦いに不馴れな私は、立ち回りが下手で、標的を迷ったり見失ったり。
あれ? 急に暗い。影──?
私はとっさに目の前のさくさんを突き飛ばす。
ドボ! と土が大きく抉れ、岩みたいな固いもので叩きつけられたような音。目の前は真っ暗で、私の身体はどこかに吹っ飛んでいた。
──でも、思ったほど痛……くない。ううん全然、痛くない。何で?
そっと目を開けると、目の前は草むらだ。誰かに抱きかかえられるように倒れていた。さくさんじゃない。鎧が……。
「
私から身を離し、さっと起き上がった人は鎧兜に身を包んだ向山さんだった。
彼は一瞬だけ私と目を合わせ──すぐに地に刺さった刀を掴む。
迫りくる物の怪に走り寄り、攻撃を潜り抜ける。そして足を裏から2か所、叩くように斬っていった。
がくりと片ヒザをつきバランスを崩した鬼のような物の怪に、周囲の兵たちが板や槍、
「ありがとうございます」
私は立ち上がり、物の怪から距離をとって向山さんにお礼を言った。
彼は振り返ったけど、私から少し視線をそらして
何だろうとそれを追って私も視線を投げると、ずっと先のほうに九一郎さんと羽佐さんがこちらを向いて立っていた。羽佐さんは、弓を構えている。
あ……やっぱり、私を見てくれていた。護ろうとしてくれてたんだ。
九一郎さんは、さっと頭を下げた。何だろうと思って振り返ったら、向山さんが深く頷いていた。二人のやりとりはほんの一瞬。
さくさんが、サキガケナイトと一緒に私の隣へ走り寄ってきた。良かった、さくさんも無事だった。
だんだん薄暗くなってきて、何だかあたりが見辛くなってきた。開けた場所だけど、木々や草が生い茂っているところもあって、人も潜めそう。
気がつくと、少し離れて向山さんがこちらを見ていた。そして城を指差す。
たぶん、危ないから私に城へ戻れと言ってるのかも。
「
九一郎さんが駆け寄ってきた。
杯というのは、『カップ』のスートで水のエレメントの力。カップのスートは感情を表すので、特定の人物の心の声を聞くことができる。ごくわずかな時間だけ。
「でも、タロットの力は……」
私が九一郎さんの側にいないと、発動しないのに。
「国主様に河童の動きを報告するだけじゃ。すぐそなたの
私のそばには、さくさんと暮馬さんがついてくれている。サキガケナイトはさくさんの腕の中でうとうとしていた。
「巫女を頼むぞ」短く言い残すと、九一郎さんは薄暗い平野を風のように走り去る。羽佐さんも後ろに付き従っている。
あたりに物の怪の姿は無くなっていた。
近くの城に戻った時には、すっかり日が暮れて暗かった。
屋敷の地下にある隠し部屋にタロットを回収に行く。少しでも私が触れたり動かすだけで、術が解けてしまう。カードから離れることになるのが難点だ。
油に浸かる火の付いた紐。そんな心もとない照明を頼りに、何とかカードケースに無事おさめた。
その時、外が急に騒がしくなる。
伯父様が率いる兵の一団。河童国主を警戒して、後から駆けつける手筈だった。もう着いたんだ。
あの人がまさか、嫡男の──。
そこで、唐突に私の意識は途切れた。
目が覚めると、布団で寝ていた。
知らない天井。
どうなったんだっけ? ここはどこだっけ? 記憶を辿っていると、
さくさんかな?
違う。
布団の脇に知らない男の子……というか男性が座っている。こちらを見た。
この人は……そうだ、篝火の近くで伯父様の隣にいた。とても落ち着いていて、目を見ていると私よりもずっと年上に思えてくる。
「あなたは……
彼は静かに頷いた。表情は穏やかそのもの。
何でこの人が部屋に──?
私は上半身を起こした。少し身体が、頭が重い。
「九一郎さんは戻ってきましたか?」
彼は首を横にふる。
えっ……
九一郎さんと一緒の羽佐さん、姿の見えないさくさんや暮馬さんの所在を聞いた。でも、彼は首を横にふるのみ。
部屋の中は明かりが無くてもお互いの顔が見える。今の時間は、夜じゃない。
九一郎さんが、『国主様に、河童の動きを知らせに行く』と言ってたのが日暮れ。
待って……どれくらい寝ていたの、私。
それから、何回も質問した。
河童国主の兵を撃退した。戦は終わった。でも、九一郎さんと羽佐さんは昨日から戻らない。九一郎さんが戻らないので、サキガケを連れてさくさんも暮馬さんも探しに行ったらしいことがわかった。
どうして。
その怖さを、事実を直視できない。
九一郎さんが、行方不明──
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