帰りたいか
「兵が戻った。物の怪を倒したそうじゃ」
突然の声に驚いた。戸の外を覗くと、庭に九一郎さんが立っているのが見えた。
「そ、それは良かったです。でもびっくりしました、何でそんなとこにいるんですか」
「俺も驚いた、巫女もまだ起きておるとは」
九一郎さんは微笑み、私の隣に座る。その視線は、私の胸元に注がれた。
それで、危うい具合に着物が着崩れてたことに気づいた。私は慌てて胸元を直す。
それからは、何となく二人とも無言になり、しばらく月を見ていた。
「突然家族と離れ、寂しくないか」
彼は視線を月に預けたまま言った。
家族のことは、あまり考えないようにしていた。自分ではどうしようもない。
彼しか話し相手がいないことは、たしかに寂しい。言葉がわからないから、誰かに話しかけても迷惑がられたり、相手にされない気がして。
みなさん自分の仕事があって、忙しそうだから。せいぜい、さくさんくらいかも。
自分の世界が極端に狭くなった感じ。
唯一、彼とのささやかな時間は楽しみになってる。
「親御殿も、きっと心配しとるだろうな」
「……そうでしょうね」
連絡せずに外泊したことなど、一度もなかった。家の中に靴があるのに、姿が急に消えるなんて事件になってそう。
心が痛むけれど、これもどうしようもない。しようもないことを考えて、クヨクヨしていたくない。
「巫女は元の世に帰りたくはないのか?」
「それは……でも、帰れるんですか? なんで急に、そんなこと」
「父上から口止めされていたが、帰る方法がある。
「あ……じゃあ、呪いの解き方がわかるんですね」
城主様はこの地に暮らす人々のため、私に占術を望んでいる。それだけ困っている人がいるんだ。帰るのも複雑な気分になる、かも。
──というか、『帰れる』のに。この気持ちの鈍さは何だろう。何故、そこまで嬉しいとも感じないんだろう。
それに、九一郎さんは、私が元の世界に帰ってもいいの? 何とも思わない? そう思うと、寂しい。
そんな思いを込めて彼の横顔を見つめると、九一郎さんの顔が傾き、こちらを向いた。月明りを受けて光る視線に、知らない熱がこもっている気がして。
急に、空気が変わった気がする。
何で?
焦燥感と共に、胸の奥が熱くなるのを感じる。
彼は私を瞳に捕らえるよう、妖しく微笑む。
「巫女守の心得には、巫女に触れてはならぬ、とある。それは何故か、わかるか?」
柔らかい動作で彼の手が伸びて、私の肩にかけられた。
耳元に顔が近づいてくる。身体が緊張で強張る。
「巫女を抱けば、呪いが解ける」
かっと顔が熱くなった。何故か腰に力が入らず、私の身体は簡単に押し倒される。
顔が近い。頬に、彼の手が優しく触れる。
「一目見たときから、触れたくてたまらなかった」
うそ……
彼の言葉にどくどくと胸が高鳴り、熱い眼差しに吸い寄せられていく。
でも、いつからか
「抱かせてくれ。たとえ一度だけでも」
帯紐が解かれていく。私はその手を何とか抑えた。
あ……嫌じゃない、けど、違う。
それに、一度だけって。
「……年下の男は、嫌か」
彼の切ない目には、いつもの力強さがない。
そんな目を、しないで。
……!
この身体の震動は。遠吠えのような声?
「はっ?」
突然、視界が切り替わった。違う、目が覚めた。私は布団で寝ていた。
夢だったのか。どっと疲れを感じる。ホッとしたけど、少し残念なような気も──いや、夢で良かった。
頭を正面に戻すと、目の前には、天井いっぱいに肥大した赤い顔が張り付いていた。
赤い顔の額には左右に黒い角が這えている。大きな二つの目は潤んでいて、私の寝ている姿が映っていた。
恐怖がこころに届く前。
スタン、と勢い良く障子の開く音がする。暗い中、風のように入り込んだ人影が、赤い顔の眉間に刀を突き立てる。
しかし赤い顔は、刀が刺さる寸前に姿を消したようだ。
「遅れてすまん」
天井から刀を抜いた人影は、九一郎さんだった。布団を大きく跨いでいる。
言葉が出なかった。夢の中の彼が、まだ生々しく脳裏に焼き付いていた。
私が恐怖で硬直していると思ったのか、九一郎さんは「安心せよ」と穏やかな声で言った。
「さくとサキガケが邪気を祓った。もう物の怪の妙な夢は見ぬ」
赤い顔の本体が何処かにいるようで、城の皆で探していると言葉を続けた。刀を納め、部屋を出て縁側の戸を開けているようだ。外はかがり火が多く焚かれているようで、すぐに明かりがもれてくる。
私は布団から半身を起こした。でも、恥ずかしくて、まともに彼を見ることができない。
「……夢の中で、俺が何かしたのか?」
どきりとした。
「気にするな。物の怪が見せた俺など、質の悪い紛い物じゃ」と彼は軽く笑った。
さくさんとサキガケ、そして刀や弓を持った若い男性二人が庭から駆けつける。九一郎さんに従事する家来の人たちだ。報告でもしてるんだろうか。
「巫女よ、化け物を仕留めてくる。俺にとっては、そなたのおかげでやっと巡ってきた好機。ここで休んでいろ」
九一郎さんは、刀のようにギラりと瞳を光らせ不敵に笑う。そして、縁側から風のように出て行った。
間もなくして、お城が揺れるほどの歓声があがる。
九一郎さんが物の怪を討ち取り、湧いた城の人たちの声だった。
私は、予知を的中させた。でも何故、物の怪がこの城にいたのか──
場所の特定については、朝の占術の時間に九一郎さんから話を聞くことになる。
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