第39話 求めていた光景
私は朝食を並べ終え、質素ながらも湯気の立つ温かな食卓に満足の笑みをこぼした。
村での生活は毎日が決まりきった事の繰り返しで、言わずとも頃合いを見てエリーがやって来る。
けれどエリーの来る頃にはとっくにいる筈のカシュパルの姿が今日は見えなかった。
「カシュパルは?」
「あら? まだ来てないの?」
そんな事があるだろうか。彼を受け入れて早くも二週間が経過した。その間、朝は一番に起きて来ていたのに。
過去の幼い時も、朝に弱い記憶はなかった。
「もしかしたら疲れているのかもしれないわ。昨日、エルマ爺に薪割りを頼まれてずっとやっていたから」
私は聞いた名前に思わず呆れて呟く。
「おかしいだろう……。もうあの神経質な爺さんを攻略したのか」
仮面をつけたまま村に馴染めるならやってみるがいいと投げやりに思っていたが、彼は予想以上の速度で村人達の心を掴んでいっていた。
自分の顔に傷を負った話を悲哀たっぷりに語り、私を追いかける恋の一途さを見せつけ、頼まれ事を断らない親切心を演出した。
私の誤算は彼が村では貴重な若い男手で、体力仕事を嫌がらずに引き受けてくれるとなれば多少の不審など都合よく忘れてしまう村人達の狡猾さだった。
「いや、まだイロナさんが残っている」
一番警戒心の高い村人である老婦人の名前を出せば、エリーはすげなく希望を打ち崩した。
「イロナさんなら一昨日仲良くお話している所を見かけたけれど」
既に陥落させられていたか。
カシュパルは元々愛想の良い性格ではないのに、私の傍に居る為に演技をしているらしかった。実に涙ぐましい努力である。
村人達への期待を止め、いつまでも食卓に顔を出さない彼を呼びに行く事にした。
「……起こしてくる。先に食べていてくれ」
「はあい」
私は彼に与えた部屋へと向かう。木製の扉を叩いてみたが返事はない。
本当に寝坊したのか?
珍しい事もあるものだと思いながら扉を開くと、上掛けにすっぽりと包まる大きな姿を見つける。
「カシュパル、起きろ。朝だ」
声をかけても返事がないから溜息を吐いて近づくと、突然腕を引かれてベッドの上に引き摺り込まれた。
「うぁ!」
驚いて変な声が喉から出る。顔を見上げれば、悪戯が成功して楽しそうに笑うカシュパルの顔があった。
「カシュパル!」
私をからかう為にさては朝からずっと起きていたに違いない。
非難する声を上げたが、堪えた様子もなく人形でも抱くように両腕に抱え込まれてしまった。
「お前……いい性格になったよ」
元の素直さは何処へ行ったのだろうか。カシュパルは今や私を玩具のように扱って楽しんでいる。
私は据わった目をしつつ、失われてしまった過去の可愛らしさを懐かしんだ。
カシュパルは頬杖をついて私を眺めながら、横に寝かせた私の頬を撫でてくる。もう好きにさせてやる事にした。
「起こして欲しかった」
何を言うのかと顔をカシュパルに向ければ、からかうような表情はなく、幸福を切実に噛み締めるかのようだった。
「貴女に名前を呼ばれて始まる朝。俺が見捨てられていないのだと理解できる」
それを言われると申し訳ない気持ちがして、反論や抵抗をする気が奪われていく。
カシュパルはそんな私に少し笑い、じゃれるように額を私の肩に押し付けた。
「……痛ッ」
ぴりりと走った鋭い痛みに思わず顔が歪む。彼が額を当てた場所は、丁度矢で射られた傷口の上だった。
もう傷口は塞がっているが時折思い出したように痛む事があった。それでもエリーやカシュパルに心配させないように振舞っていたのに。
その瞬間、カシュパルの纏う空気の温度が下がった気がした。
「見せてみろ」
「は?」
真顔が非常に恐ろしい。急いでシャツを両手で押さえたが、本気になった彼の暴力には無意味だった。
私の両腕は完全に制圧され、服を開けさせられて肩の傷口が見つかってしまう。
まるで憎い敵がそこにいるかのような恐ろしい表情で、カシュパルは私の傷口を見つめて離さない。
「誰にやられた」
言った瞬間、今から剣を持って外に飛び出して行きそうだった。
昔にもカシュパルの同じような表情を見た。私の頬を叩いただけで随分と酷い目に遭わされたティーナが思い出され、あの頃と変わらない心を今更ながらに思い知る。
余計な事をさせる訳にはいかないので、へらりと笑って彼を宥めようと試みた。
「もう治ってる」
けれど大した効果はなく、カシュパルは傷口から少しでも情報を得ようと目を細めた。
「……二、三カ月前か。毒矢だったら死んでいた」
時期を言い当てると、まるで自分が大怪我をしたように辛そうに眉を寄せ、傷口の傍の素肌をそっと労わるように撫でた。
「昔だって、魔物に散々怪我をさせられたのに」
「だから一人では行かせていなかっただろう。けれど今は頼る仲間もなく、獣でもなく人を相手にして。いくら戦う術を知っていても、いつまでも無事でいられる保証はない」
笑い飛ばそうとする私をカシュパルは冷静に追い詰めていく。
「頼むから。……俺の居ない所で死なないでくれ」
痛切な声に否定も出来ず、私は驚きと共に彼の指先の愛撫を受け入れた。
こんなにも私を必要としている人がいた事を、突き付けられた気分だった。どうして離れたら簡単に自分を忘れるなんて思えたのかと。
まるでこの世で最も高価な芸術品に触れるかのように、優しく触れられる私の肩。何かが私の胸をじりじりと焦がす。
言葉よりも雄弁に愛を囁かれたような気がした。
「二度と怪我なんてするな」
自分も怪我をしたかった訳ではない。
けれどそんな事を言えないような空気をカシュパルが出しているので、仕方なく首を縦に振る。
それから漸く服をまともな位置に戻されたかと思うと、指で確かめるように両腕や背中を触れられた。
「……他に怪我はない」
「そうか」
彼は淡々と答えたものの、自分で確かめなければ納得出来ないようだった。隙間なく触れる指が下に降りて来たので思わず口を開く。
「足は止めろ。十分に動いているのを見ただろう」
不穏な気配になりたくないので事前に止めた。いくら只の確認行為だったとしても、カシュパルは私を欲している事を公言している。
漸く余裕の戻ってきたカシュパルが実に艶やかに笑った。
「……残念だ」
ああ、何て男に成長したのか。
隙あらば食らおうとするかのような、そんな危険な香りがした。
昔と変わらない一途さで、けれど格段に増した凶悪さで異性を意識させようとしてくる。
これ以上思い通りになってやるものかと、急いでベッドから逃げた。そして私を追うように彼も身を起こして立ち上がる。
「セレナ。少し待て」
呼び止められて立ち止まれば、後ろから首に細い鎖を巻かれた。
「返す。今まで俺を守ってくれたから、今度は貴女が守られるように」
首にかけられたのは懐かしい四つの翼を持つ鳥のチャームである。今まで大事にしてくれていたようだ。
カシュパルに幸運を願って渡した物だが、返って来たという事は仕事を終えたという意味なのかもしれない。
「ありがとう」
私は久しぶりの首の重さを感じながら、カシュパルの部屋の扉に手をかけた。
「さあ、もう行こう。すっかり朝食が冷めてしまっただろうから」
カシュパルは自分に呼びかけるセレナの姿に目を細めた。赤い髪が朝日に照らされて、炎の様に鮮やかに見える。
もしもセレナがカシュパルを見て他人の様に冷たい視線を向けていたならば、カシュパルはセレナを何処かに閉じ込めずにはいられなかっただろう。
彼女が自らの子供を持ち、カシュパルなど忘れたかのように振舞っていたら激しい嫉妬で良からぬ事を企んだに違いなかった。
けれど現実のセレナは怪我さえ負いながらも一人で何かに立ち向かっていた。懸命な彼女を前に、カシュパルの愚かな負の感情は何処かに流されてしまった。残ったのはただ守りたいという欲だけである。
十年前、自分を捨てた事も。十年間、音沙汰なく放置した事も。
たった一言で、全て忘れよう。
『……幸せでいますように』
そう、貴女が俺の為に祈ってくれていたから。
セレナは最早カシュパルにとっての神ではない。けれど変わらず最愛の人だ。この人だけが、カシュパルの魂を平穏に導いてくれる。
セレナがカシュパルを待つ姿に、昔と同じような幸福が戻って来る。
「……ああ、今行く」
知らない内に口元が緩んで笑みを描く。
カシュパルが求め続けてきた光景がそこにあった。
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