第38話 貴女の番
エリーを宿の部屋に送り届けてから、宿から離れ過ぎず誰かに聞かれる事もない屋外の開けた場所でカシュパルと二人になる。
月明かりの強い日だから、近くに寄ればカシュパルの顔も見る事が出来た。
虫の声と風の音に包まれた夜は、まるで昔にヨナーシュ国を目指して旅した時のようである。
あの時も良く野宿をして、二人で身を寄せて寒さを凌いでいたものだった。
けれど掴まれたままの腕が、私達の関係が変わってしまった事を示していた。
「……何故去った」
「年齢と見た目が一致しなくなってしまったから」
「神族か?」
この世界で人知を超えた力を持つ存在は限られている。彼がそう思ったのも不思議ではなかった。
「いや。違う。けれどこれも言えない」
過去を渡る力は神族の物だが、私自身は只の人間だった。これ以上詳しくこの件について話す気はない。
カシュパルは苛立ったように目を細めたが、直ぐに皮肉気に口角を吊り上げた。
「まあいい。言われたところで、セレナの言葉が何処まで真実かも分からないからな。勝手に推測する」
あんまりな言い方にカシュパルを睨みつけたが、平然とした表情なので諦めて溜息を吐いた。
カシュパルが私を信じられなくなったのが誰のせいかと問われれば、私のせいに違いなかった。
でも、私だって嘘を吐きたくて言ったのではないんだが。
そんな言い訳すら伝える事も出来ず、仕方なく彼の猜疑の眼差しを甘んじて受けるしかない。
気持ちを切り替えて話の続きをする事にした。
「ともかく……そんな理由で同じ場所には長くいる事が出来ない。それでもギリギリまで傍に居てやろうとはしていたんだ。ティーナに勘違いされて、もういられないと悟ったけれど」
「連れて行ってくれれば良かった」
間髪入れずに責めるカシュパルの声。十年後も私を探していたのを見ると、ラウロ達にばらされなくても大人しく待ってはいなかっただろう。
リボルからチャームを受け取った時点で、私の事を探し始めていた筈だ。
「簡単に言うな。苦労させるのが分かっているのに、どうして連れて行ける?」
私はカシュパルに自分を愛するように仕向けながら育てた自覚があるが、同時にカシュパルが幸せになってくれる事を願っていた。
どう考えてもあのままヨナーシュ国に残る方がカシュパルにとって良い環境である。
アリストラ国の獣人差別は彼の子供の頃からさして変わっていなかった。大人になった彼がやられっぱなしにはならないだろうが、嫌な思いはするだろう。
「それに、やらなければならない事があるって言っただろう。お前は目立ちすぎる。そう言えば私の事を教えたのはケペルか? 角が無いのを見ると」
「そうだ」
アイツめ、恩人とか言っておきながら私を売ったのか。
今度会ったら文句の一つでも言わねば気が済まない。
「セレナのやらなければならない事とは、エリーとか言う女の事か?」
「カシュパル……このぐらいにしてくれないか。頼む。逃げるのが心配なら、手紙を定期的に送るから」
これ以上事情を詳しく語りたくなかった。危険に巻き込みたくなかったし、カシュパルまで抱えて事をうまく運ぶ自信がなかった。
見上げるカシュパルは懇願する私の顔を平然と眺めていた。夜風が周囲の草木を揺らしたかと思うと、彼の黒髪を弄ぶ。
どうか理解してくれる事を願って暫くカシュパルを見つめ続けてみたが、彼は毅然として言った。
「勘違いをしている」
「勘違い?」
「俺はもう守られるような子供ではない。貴女は今や、守られる番になった」
そして自分の掴む私の腕を持ち上げて、上位者特有の余裕の笑みを浮かべながら言った。
「俺の手さえ振りほどけない貴女が、一体何から俺を守る?」
ふと、彼の手の大きさと自分の腕の細さに気がついてしまって。カシュパルの言葉が紛れもなく事実である事を私に理解させた。
胸に衝撃が走る。私にとって、カシュパルは幸せを願って見守る存在だった。
可哀想で可愛くて、自ら私の手の中に納まってくれた愛おしい子供。
けれどももうカシュパルは私を凌駕して、思い通りになんて出来やしない。
私は戸惑い、狼狽えて腕を振りほどこうと今更力を込めて引っ張ってみたが、びくともしなかった。かえって引き寄せられてカシュパルの胸に飛び込んでしまう。
抱きしめられ、私を包み込む体は紛れもなく立派に成長した一人の男だった。
何かが変だ。数えきれない程自分から抱きしめて来たカシュパルなのに、何故これ程私は動揺してしまっているのだろう。
その理由を考える間もなく、カシュパルは私に耳元で囁いた。
「貴女がしなければならない事を教えてくれ、セレナ。どんな事でも叶えてやる」
甘く脳内に染み込む声はまるで人を堕落させようとするかの様だ。願えばその言葉通りに何でも叶えてくれるだろう。
抵抗しようとして腕を突っ張ろうとするが、カシュパルは全くびくともしない。
「諦めて言ってしまえ」
この男、私が言うまで解放しないつもりだ。
強引なやり口に怒りを覚えて睨みつけようとした先で、見てしまった優しい眼差しに思わず息が止まる。何だか負けた気がして顔を伏せた。
彼が有能である事は知っているが、余りにも一人で戦う時間が長すぎた。
孤独も危険も、全部自分が抱えなければならない事だった。未来を変える為の使命は私だけが背負う物だ。誰かと重荷を分かち合うなんて考えもしない事だった。
しかも私は彼を殺そうとさえした。申し訳なくていたたまれない。
これ以上私の為に何もさせたくなかった。遠い所で自分の幸福を追求して欲しかったのに。
「……放っておいてくれ、頼むから」
けれどカシュパルは私の戯言を鼻で笑った。
「なら勝手にするぞ。後悔するなよ。言っておくが、俺をこう育てたのはセレナだ」
全くその通りで、少しだけ彼の言い分を考えてやる気になった。
体に巻かれた腕は力強く、私を見つめる紫の目は純粋である。年を重ねない事さえ知っている彼ならば、唯一共にいられる協力者となるだろう。
視線を下げたまま、深く考える。頑なな自分の思考が、誘惑に揺さぶられて少しずつ緩んでいく。
ケペルは生き延びて、カシュパルは有鱗守護団に所属していない。未来は少しずつ変わってきている。
なら、彼に手を貸してもらう事も含めてこの国を滅亡から救う道筋の一つになのかもしれない。
時間がかなり経過してから、漸くそんな風に思えて体の力を抜いた。
何より、カシュパルを穏便に離れさせる方法が今の私には何一つ思い浮かばなかった。
「……私はエリーの姉で、エリーは裕福な商人の夫から暴力を振るわれていたから共に逃げる事にしたんだ。妹の腹には子供がいる。夫の追手から守ってやらなければならない」
こういう設定なのだと告げれば、カシュパルは素早くそれを理解した。
「ではこれからは、そこに恋人も付け足せ」
さらりと告げられた設定に顔が引きつるが、確かに違和感なく溶け込むにはそのぐらいの関係性でなければならない。
「……了解した」
結局、エリーにはカシュパルの言い分の方が正しかったと言わなければならないだろう。
私は渋々頷き、観念したから離せとカシュパルの腕を押しのける。抵抗はされなかった。
「それより、その顔をどうにかしてくれ。これから行く村では目立つ」
「ケペルからセレナが身を隠していると聞いて、これを用意した」
懐から取り出して被ったのは、顔の上半分を隠すような仮面である。
この素顔を晒すよりも仮面の怪しげな男の方が目立たないというのは、全く恐れ入る話だった。
けれどいくら魔物狩人の中には怪我をそうした仮面で隠す者がいるとはいえ、田舎で注目されない筈がない。
「やってみろ。見物人が集まりそうなら追い返すからな」
投げやりに言ってやった。少しでも近隣に噂話が蔓延しそうなら、それを口実に離れてもらうつもりだ。
けれど少しの不安も見せず、カシュパルは口で弧を描く。
思い通りになんていかない予感がして、私は振り回されるだろうこれからの日々に頭を抱えるのだった。
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