第37話 変化

 思いもよらないカシュパルとの再会に、私は完全に硬直してしまった。

 彼と別れる時カシュパルの周囲には多くの友人がおり、仕事も評価されていて、生活していく上で必要なものは全てあった。

 獣人の国で差別に遭う事もなく皆に慕われて、養い親など忘れてくれるだろうと思ったのに。

 しかし十年という長い歳月が経過したにも関わらず、カシュパルはこの人間の国にいた。自分が手に出来ただろう栄光を全て捨てて、恐らくは私の為に。

 私は、彼の執念を甘く考えすぎていた事に気付かされたのだった。

「俺が幸せかどうか、教えてやろうか」

 ランタンに願った事を聞いていたらしい。カシュパルは長い足で呆然とする私の前に近づくと、触れそうな程の距離で立ち止まった。

「幸せになれる筈がないだろう。セレナがいないのに」

 彼は眉間に皺を寄せて責めるように私にそう言った。そして目を細めて一瞬泣きそうな顔をしたかと思うと、気づけば彼の大きな胸に引き寄せられていた。

 記憶よりも厚みの増した体に包まれて、離さないと言わんばかりに強く抱きしめられる。

 鼻を擽るカシュパルの香りは懐かしくて、まるで故郷に帰ったかのような穏やかさを感じさせた。

「……会いたかった」

 突き放すには余りにも切ない声だった。そして私も、ずっとカシュパルに会いたかった。

 けれど背中に手を回すには私が抱えている物が多すぎて、行き場のない手が宙をさ迷う。

 きっと私は何で来たのかと怒って追い返すべきなのだろう。

 けれど今日は皆の願いが空に舞う日で、視界の端では風に遊ばれたランタンの光達が帯のように棚引いている。

 ならば、地上の願いの一つぐらいは、叶えられてもいいんじゃないか。なんて。

 そんな甘さがカシュパルの抱擁を受け入れさせる。

 私は暫くの間だけ、気にしなければいけない諸々の事を忘れる事にした。

 カシュパルの体温は高く、布越しに私に溶け込んでくる。私を探すのに苦労しただろうと思うと、尚更振り払う事は出来なかった。

 そうして久しぶりの再会を彼の望むままにしてあげていると、すっかり置いてきぼりにされて戸惑うエリーの声が聞こえた。

「え……と、姉さん。この方は……?」

 自分の状況を思い出し、慌ててカシュパルの体を引き離す。不満そうなカシュパルだったが、エリーの言葉に片眉を上げた。

「姉さん?」

 どうやらカシュパルに叔母だと名乗った時と同じ事をしていると思われたらしい。責める様な目で見られてしまう。

「違うんだ。……いや、違わないのか? とにかく事情があるんだ」

「事情?」

「……悪いが内容は言う事が出来ない」

 彼の機嫌が悪くなったのは分かったが、カシュパルにエリーの事を言う訳にもいかない。王族に関わる秘密を漏らせば、カシュパルの身も危険に晒してしまう。

 そしてエリーにカシュパルの事を説明するのも、どうしたものかと困ってしまった。

「ええと、エリー。カシュパルは……」

 私の養い子だって? どう見ても二十代後半のこの男を?

 頭を必死に動かすが上手い言い訳が思いつかない。そうしている内に、悪い笑みを浮かべたカシュパルが私の肩に手を置いて言った。

「恋人だ」

「は?」

「ああ、元恋人か。俺の元から勝手に去って行ったのだから」

 エリーは存在しない私の過去の恋愛事情に思いを馳せたのか、目を輝かせた。少女はこんな話が大好きな生き物である。

 私は彼女の誤解が深まる前に、どうにかカシュパルを止めようとした。

「待て、カシュパル何を」

「愛していると言ってくれただろう」

 確かに言った。しかし恋人に向けた言葉ではないと、一番分かっている筈だろうに!

「あれはそう言う意味じゃなくて……!」

 しかし子供に向けたものだと説明も出来ない現状に気がついて口籠る。

「ともかく、違う!」

 とんでもない事を言い出したカシュパルに愕然とした。エリーは私とカシュパルを交互に見て、どちらを信じれば良いのか迷っているようだった。

「エリー……説明は後でする」

 誤解が広がる前に、一先ずカシュパルと話をしなければ。エリーは私が困っているのを見て、大人しく首を縦に振ってくれた。

 改めて久しぶりのカシュパルを見れば、立派な青年へと成長していた。十年の歳月は確実に彼に刻まれている。

 一方でカシュパルと初めて会ってから十八年、何も変わらない私の姿があった。

「気味悪く思わないのか」

 人間にしては奇妙な程老いない事に、聡い彼が気付かない筈がないだろう。

 けれど私の不安をよそに、言われた事さえ不快かのような表情をする。

「俺が今更そんな事に動揺すると思っているのなら、無理解も甚だしいな」

 それから私の顎に指を添えて、鑑賞するかのように目を細めた。

「変わらず貴女は綺麗だ」

「は……」

 歯の浮くような言葉を堂々と言われ、思わず絶句する。

 男に混じって剣を握るからか、この口調のせいかは分からないが、異性に面と向かって褒められた事は一回もなかった。

 誰が見ても大人に成長したカシュパルに言われたからか、柄にもなく頬が熱くなってしまう。

 そんな私を笑うと、カシュパルはかつての養い親に不遜な態度でこう言った。

「貴女が余りにも酷い嘘を吐いたものだから、責め立てて泣いてもらうぐらいはするつもりだったが。どうやら俺の事を思っていてくれたようだから、許してやる」

 泣いてもらう? 許してやる? 誰が、誰を?

 カシュパルから言われるとも想像しなかった言葉に、私は戸惑い混乱した。

 かつての彼であれば、私に言うはずのない言葉である。

 とにかく怒っていたのは間違いなさそうだった。私がランタンに彼の幸福を願わなければ、一体どういう目に合わされていたのだろう。

「良かったな」

 からかう様に口角を上げて笑うものだから、私は話の主導権を握ろうと強い口調で言った。

「カシュパル……いい加減にしてくれ」

 顎を掴む手を振り払い、怒ったように彼を睨みつける。

 しかしカシュパルは一向に引く様子は見せず、それどころか私に顔を近づけて責めさえした。

「また大人しく言いなりになる子供になれと? その関係を先に壊したのはセレナだ」

 紫の眼光が怜悧に私を突き刺す。向けられた怒りの感情は恐ろしく、かつて目の前で骨を折られ平手打ちされたティーナの事を私に思い起こさせた。

 竦んで動けなくなってしまった私を嘲笑い、恋人の様に頬を撫でながら耳に言葉を吹き込んだ。

「勝手に去ったのは貴女だ。だから俺も、セレナを勝手に愛する事にした」

 一体これは、誰だ。

 私の知るカシュパルは、常にセレナの意思を優先してくれる子だった。けれど今の彼はまるで私がどう思おうと関係ないかのようである。

 私は今、大事に育てていた子猫が猛獣に育ちきったのを知った。

 猛獣が私に爪を立てる事はしなくとも、命令を聞かせる事も追い払う事も出来やしない。

 気圧されてしまって、カシュパルの顔を呆然と見る。

 カシュパルは私が制御出来ないと悟ったのを理解し、満足そうに口角を上げて笑った。そして私の手首を強引に掴む。

「……これは?」

「逃がさないように」

 強引さに思わず閉口する。腕を上げても下げても、何処までもカシュパルの手が追ってくる。まるきり罪人の扱いだ。

 寒々しい夜風が二人の間を駆け抜けた。

「……カシュパル、話をしよう。二人だけで」

「全く同意見だ」

 笑う男はどう考えても一筋縄ではいかない押しの強さと執着心で。

 これから待ち受ける難関を想像し、顔が引きつってしまうのは仕方のない事だった。


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