第36話 執念


 カシュパルはアリストラ国で馴染みとなった酒場の片隅に座り、疲れた表情で酒を煽った。

 八年間、最もセレナの情報が集まりそうな魔物狩人に在籍して調べ続けているにも関わらず、何の収穫も得られていない。

 まるで彼女の存在自体が幻だったかのようである。

 あの時三十二歳だったセレナは、本当に年齢通りであれば四十二歳である筈だ。結婚して引退でもしていれば、カシュパルの耳に入らないのも頷ける。

 上手くいかない現実に眉を寄せ、残った酒を一息に煽って飲み干した。

 結婚しているぐらいなら良い。カシュパルは自身を十分に理解している。

 低く成熟した声と芸術品のような整った顔立ち。闘いの日々の中で無駄なく鍛え上げられた肉体と溢れる才気。

 炎に群がる蛾の様に人は寄り、不躾な女性達の視線は常に鬱陶しい程である。

 男性的な魅力においてカシュパルの右に出る者はいない。セレナに相手がいたとしても、奪えばいいだけの話だ。

 セレナ自身がカシュパルに靡かなかったとしても、カシュパルのような男に想いを寄せられていると知って平気な男はいない。

 相手が少しでも揺らぐ隙を見せれば、追い払う事など実に簡単な事に違いなかった。

 それよりも、もしも知らない場所で死んでしまっていたらどうする。

 浮かび上がる不安を手を強く握って誤魔化した。

 事情を良く知る者は、セレナの年齢を知って会えば幻滅するだろうと助言した。人間との生きる時間の差は残酷で、貴方はそれに傷つくだろうと。

 カシュパルはそれを一笑に付した。この執拗な感情がその程度で潰えるものならば、寧ろ願うところである。カシュパルはこんなにも複雑な人生を歩まずに済んだ。

 けれどどれだけ老いた彼女を想像してみても、共に歩めなかった時間を嘆くばかりで離れたいとは微塵も思い浮かばない。

 これは一種の呪いでさえあった。見えない首輪で繋がれているようなもので、離れれば離れる程に締め付けられる。

 これを解呪する方法はなく、唯一祝福へと変えられる人はセレナ自身である。

 けれど、人間であるセレナはカシュパルよりもずっと早くに寿命が尽きてしまう。

 自分の寿命を彼女に合わせると決めているカシュパルにとって、セレナを看取る事が出来ない事が何よりも恐ろしい事だった。

 カシュパルは首にかけているチャームを服の上から手で押さえた。

 大丈夫、きっとまだ生きている。

 大事な人の死ぬ時には、遠く離れていても何らかの予感や兆候があるという。

 ならばセレナの為に生きるカシュパルが、彼女の死に気がつかない筈がなかった。

 そんなただの迷信にさえ縋る愚かさに気がつきながらも、彼女の生存を頑なに信じ続けた。

 カシュパルは酒を再び注文し、思考を中断する。こうして耳を澄ませて周囲の話し声に集中し、興味深い話題がないか調べるのだ。

 殆どは身内話で無益だが、時折仕事に役立つ話が出る事もあった。

 静かに酒を嗜んでいるように見えるカシュパルに、店内の女性客の視線が密かに集まる。種族柄角があるものの、老若男女を魅了する美男子だ。

 一晩だけでも夢を見させてはくれないかと願う者も多かったが、興味がないのも有名な話だったのでただ惜しい眼差しを向けるだけに留められた。

 男性達は一目見れば竜人と分かるカシュパルに気がつくと、その強さの逸話を囁いては勝手に恐怖を増大させていく。

 そのどちらも全く意に介さず、淡々とカシュパルは義務の様に情報を整理した。

 今日も特に収獲はないな。

 諦めて席を立とうとした時、酒場のドアベルが鳴って一人の男が入って来た。

 人間のふりをしているケペルは、いつものように時間を過ごしているカシュパルを見つけて片手を上げた。

「カシュパルさん」

 いそいそと寄って来る彼は余程嬉しい事があったように見える。

 アリストラ国にいる獣人の数は少なく、獣人同士見かける事があれば声をかけるぐらいはする。

 カシュパルもそうした縁で、この国に詳しいケペルと時折会って情報を交換しているのだった。

 この人の良い男は、カシュパルが必死になってセレナを探しているのを見て深く同情していた。

「久しぶりだな。確か前回は半年前だったか」

「はい。あれからキース地方の方に布織物を仕入れに行っていたんです」

 彼は背負っている大きな荷物を床に置くと、カシュパルの前の椅子に座った。

「それよりも! 見たんです、見たんです。セレナさん!」

「な、」

 余りにも唐突に齎された情報に、カシュパルは驚きで体が硬直した。

 そして次の瞬間椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、一息ついて水を飲もうとしたケペルの胸倉を掴んで引き寄せる。


「何処だ⁉」


 それが耳を劈くような大声だったので、店内が水を打ったように沈静化する。

 頻繁にカシュパルが利用する為に顔馴染みも多かったが、このように感情を露わにするのを誰も見た事がなかった。

「ちょ……ちょっと、落ち着いて……」

 カシュパルのように鉄の心臓を持っている訳ではないケペルは、周囲の注目を集めて居心地悪そうに視線をさ迷わせた。

 仕方なくカシュパルは逸る気持ちを抑え、掴んでいた手を放し椅子に再び腰を下ろす。

 刺し殺されそうな鋭い視線を感じながら、ケペルは額から汗を流しながら口を開いた。

「一週間前、ルードラの町の定期市です。多分、近隣の村から買い出しに来ていた雰囲気でしたね」

 昔セレナに会っているケペルからの情報ならば人違いではないだろう。

 場所を聞くや否や立ち上がりすぐさま向かおうとするカシュパルを、ケペルは服を掴んで止めた。

「待って、待って下さいって」

 カシュパルは走り出しそうな気持を抑え、何か言いたい事があるらしいケペルの為に再び椅子に座りなおした。

「セレナさん、自分の居場所を知られたくないみたいでした。追われているから誰にも言うなと言われたんです。だから、そのまま行くのは不味いですよ」

「追われている……?」

 ずっと考え続けてきたセレナの正体の一端を垣間見た気がした。カシュパルから去って行った理由も恐らくそこにあるのだろう。

 カシュパルは形のいい眉を寄せた。ならば尚更傍にいて彼女を守らなければ。

 セレナが例え大罪人だったとしても一向に構わないが、無策で会うのは確かに問題があるかもしれない。

「良かったら使って下さい。私の魔法薬を少しお譲りします」

 ケペルはそう言って丸薬の入った小瓶をカシュパルに差し出した。外見を少しだけ変える事が出来る薬だ。

「感謝する。だが……良いのか?」

 断る理由はないので懐に納めながらも、貴重な魔法薬を渡してくれた事に疑問を感じた。

 金を払えば手に入るような類の物ではない。それなのに惜しげもなく分けてくれるとは。

「この国で獣人が暮らす事がどれだけ大変か、私はよく知っています。でも、最近は少しだけ風当たりがマシになったんですよ。有名な魔物狩人さんのお陰で」

 それほど魔物狩人のカシュパルと言えば広く認知された存在になっていた。

 自分が意図した事ではないが、そういう理由ならば有難く頂戴しよう。

「あの町のお祭りが来月の十四日にあるんですが、多分セレナさんも来ると思います。勧めてみたら興味を持って下さったので。人混みは多いですが、定期市をずっと見張るのと大変さでいえばそう変わらないでしょう」

「ケペル」

「は、はい」

 鋭いカシュパルの眼光にケペルが怯えたが、彼の口から出たのは真逆の内容だった。

「欲しい魔物の材料があれば言え。何でも取って来てやる。物によってはセレナと会えた後になるだろうが」

 どうやら精一杯の感謝を伝えてくれているようだ。

 ケペルは若くして自ら苦労の道に進んだ彼の悲願が叶う事を願いながら、商売人として遠慮なく貴重な魔物の羽を口にしたのだった。

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