第40話 知ってなお深く


 カシュパルは山の様子を見に行くセレナを見送る為に、家の軒先に立っていた。

「それじゃあ、行って来る」

「ああ」

 セレナは頷いて前を向き、慣れた調子で獣道のような荒れた地を進んでいく。やがて彼女の姿が草木に隠れてしまってから、近くの切り株の上に座った。

 山には沢山の罠が張り巡らされている。村人達には魔物用の罠だと言っているようだが、殆ど全てが対人用の罠だった。

 運悪く村人達がかかっていないか、或いは追手の痕跡がないかセレナは綿密に山を管理していた。

 毎日広い山を見て回るのは大変だろうに。

 カシュパルの過去の記憶よりも、セレナという人はずっと小さく感じる。

 自分の大きな手や体がすっぽりとセレナを覆ってしまえる事実を体感する度に、こんなにも華奢な彼女に頼り切っていたのかと過去の自分の無力さがより許せなくなった。

 魔物狩人としてある程度成功してから、岳牙に自分の仲間を潜り込ませて守っていたのを彼女は知らない。

 その時でも度重なる怪我に心が休まる時がなかったというのに。

 肩の矢傷を思い返す。人の攻撃的な意志にセレナが晒されたという事。

 怒りが再燃し、剣呑な空気に近くにいた鳥達が一斉に逃げていく。殺してやりたかったが、相手が目の前にいないのでは仕方がなかった。

 諦めて溜息と共に怒りを逃がし、思考に耽る。

カシュパルはセレナを守る為に、彼女が隠している事を知る必要があった。

 訛りのない発音は、彼女が王都周辺か階級の高い人物の近くで暮らしていた事を示している。

 明らかに人と戦えるように訓練された知識。守ろうとしているエリーという女性。

 注意して見ればエリーが元々貴族である事は直ぐに分かった。ならばセレナは騎士だろうか。

 貴族の女性を守る為、何処にでも付いて行けるように特別に訓練をした女騎士が数は少ないものの存在していた。

 しかしそれならば何故、何年もカシュパルの傍にいてくれたのだろう。

 騎士ならば主君がいる筈で、拾った孤児の為に長期間任務から離脱するなんて勝手は許されない。

 それならば過去に主君を失った、ただの放浪騎士なのかもしれない。

 けれどそれならば義務のように『やらねばならない事』に腐心する理由が分からない。

 セレナの正体は実に謎めいていた。

 おまけに老いない体は一体何の力によるものか、こればかりは彼女自身から言われるまでは何も分からないだろう。

 カシュパルはもしかしたらセレナに自分の寿命まで共に生きて貰えるのではないかと淡い期待を抱いて、彼女に確かめずにはいられなかった。

 けれどその時少し切ない顔をして、竜人の寿命に付き合う程ではないと否定されてしまった。

 いっそ人ではないと言われた方が納得できるな。

 死にかけの孤児の願いを叶える為に具現化された神の奇跡。

 カシュパルにそうしたように、人知れず誰かを救う人外の存在。そんな物語のような存在こそセレナに似合う気がした。

 カシュパルは気持ちを切り替えて立ち上がると家の中に戻る。居間には膨らみのある腹を大事に温めながら子供の服を作るエリーがいた。

 身に染みついた立ち振る舞いはそう簡単に消せるものではない。彼女は間違いなく何処かの令嬢に違いなかった。

 セレナに命懸けで守られる、彼女の偽りの妹。

「エリー聞きたい事がある」

「何?」

「セレナは何者だ?」

 エリーは手元から視線を外し、カシュパルを見上げた。

「私、カシュパルさんの方が知っていると思っていたわ」

「……俺の傍にあの人は随分長く居てくれたが、出自は全て嘘だった」

「そう」

 エリーは微笑みを浮かべて、カシュパルに窘めるように言った。

「多分、私が聞いたのも嘘があると思う。でも私、そんな事が気にならないぐらい姉さんの事が好きよ。だから気にしない事にしたわ」

 セレナの考えを尊重するという意思表示に、カシュパルの眉間に皺が寄る。

「俺も同じだ。セレナが聖人だろうが凶悪犯罪者だろうが、何者であろうと構わない。けれどそれでは足りないんだ、エリー。嘘に誤魔化されている間に、セレナは俺の知らない所で勝手に命を張ろうとする。姿を眩ましてしまう。だから教えてくれ。俺があの人を守れるように」

 カシュパルはエリーにセレナを溺愛する姿を隠さずに曝して来た。自分がセレナの為に何でもやる男なのだと分からせる為に。

 情報を得る為に、カシュパルはエリーの信頼を得なければならなかった。

 今日この時に質問をしたのは、十分に機が熟したと見たからだった。

 エリーはカシュパルの考え方を理解した。愛する人の為ならば、何でも出来てしまう気持ちを良く知っていたから。

 カシュパルが竜人である事実はセレナから聞いた。エリー自身に偏見はないものの、獣人が周囲にいるのは驚く事である。

 だからこそ、彼が本当にセレナを求めているのを疑いやしなかった。意を決して口を開く。

「私、本当に姉さんに感謝しているの。だから……誤解しないで」

 誤解? 何を?

 エリーは意を決した表情で怪訝な顔をするカシュパルに言った。

「あの人は、私を殺せと命令されたらしいわ」

 彼女には似合わない言葉の意味を徐々に理解して、カシュパルの目が大きく開いていく。

 セレナが刺客だった?

 自分に愛を注ぎ込んだ、あの優しい人が。

 受け止めきれないカシュパルを前に、エリーは困ったように笑った。

「でも、殺せなかったんですって。この子が死を望まれる程の力があるならば、生かして愛を知ればきっと救いの力に変わる。そう信じてくれたのは、私を殺しに来た筈の姉さんだけだった」

 エリーは腹の子に語り掛けるように優しく笑いながら言った。

「だから私、あの人が好きなの」

 カシュパルは全てを悟り、足元が崩れ落ちそうだった。

 脳裏に蘇る。何をさせても容易くこなしてしまう自分を、常に小さく押し込めようとしたセレナの姿。

 そして、追い詰められた表情でカシュパルの首に剣を突き付けたあの日の夜を。


 セレナは。あの人は。俺を殺しに来ていたんだ。


 全てが腑に落ちてしまった。慈しみながらも時折見せた、セレナの確認するような視線。

 堪らなくなって、エリーの前から勢いよく立ち去った。外に飛び出して、溢れ出る涙を恥じるように片手で隠す。


 誰だ。

 あの優しい人に、そんな冷たい命令をしたのは。


 抑えても抑えても、熱い涙が手の隙間から流れ落ちていく。

 竜人の血を引く孤児など、皆から死を願われる存在だった。その内の金持ちの一人が、道楽のように殺害を命じても不思議な話ではない。

 けれどあの人は出来なかった。今にも死にそうな無力な子供を、楽にさせてやるだけの仕事だっただろうに。

 殺そうとした子供に家族だと嘘を吐いて、慈しんで、成長を見守って、愛してしまって。何もかも与えてくれた。

「……セレナ」

 あの人の為ならば何でも出来ると信じて生きて来た。だからこの世に自分の愛よりも深い物は存在しないとさえ思っていた。

 それがただの傲慢であった事を知る。胸から熱い思いが泉の様に湧き出て、どうしたらいいのか分からない。

 知る前よりも更に更に、セレナを愛してしまって深く沈み込んでいく。

 命を懸けて自分の人生を救ってくれた。どれ程の決断、どれ程の情け、どれ程の愛。

 カシュパルは滂沱する目を根性で止め手の甲で頬の跡を拭ったが、残る赤みだけは取れなかった。

 きっと大方、今も同じことをしているのだろう。エリーと腹の子の運命を、カシュパルと同じように助けようとしている。

 ならばカシュパルのする事は決まった。

 例え世界の全てが必要な犠牲だと捨てる命だとしても、それをセレナが生かすと決めたのならば。

孤独に闘うセレナの何よりも鋭い剣となろう。

 カシュパルはセレナに無性に会いたくなってしまって、家の外で彼女をじっと待つ。

 やがて何も知らないセレナがいつもと変わらない表情でカシュパルに気がついて手を振った時、堪えていたものが溢れ出た。

 駆け寄り、セレナの体を強く抱きしめて捕まえる。

「カ、カシュパル……?」

 気づいてしまったと伝えれば、貴女は安心するのだろうか。それとも追い詰められてしまうのだろうか。

 何者にも泰然自若なカシュパルは唯一この人にだけ、風に揺れる木の葉のように影響されずにはいられない。怯える心が口を閉ざさせた。

 代わりに腕の力の中に閉じ込めたセレナの頭に頬を寄せる。混乱するセレナが、それでもカシュパルを慰めようと背中に手を回して撫でてくれた。なんて愛おしい。

 いつか絆されてくれと願っていたが、そんな事情ならばカシュパルの愛は受け入れられないのかもしれない。

 けれど構わなかった。自分の胸には彼女の育てた溢れる愛が確かにあった。

 

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