第24話 運命が変わった日 裏②

 ああ、もう耐えられない。

 セレナはカシュパルの信仰する神だった。神殿で冷たく佇む彫刻ではなく、身近で血の通った唯一のカシュパルの支配者。

 けれど自分はセレナの望む通りの者にはなれなかった。

 セレナの動作一つで勝手に心臓は踊り、この唇は愛を囁きたいと懇願する。

 どうあがいても醜い自分から逃れられない。

 自分をセレナから隠そうとすればする程、罪が深まる気がした。

 セレナが恋人を作ったら、きっと自分は更に歪んで醜悪な怪物になるだろう。

 分からないようにあらゆる手段を使って引き離すに違いない。そして悲しむ彼女を素知らぬ顔で慰める自分さえ思い浮かんだ。

 こんな事をいつまで続ける。もう駄目だ。もう無理だ。

 貴女を所有したいと愚かにも魂が叫んでいる。

 ならば己をさらけ出し、これ以上歪む前にセレナに裁かれたい。

 そうと覚悟を決めてしまえばカシュパルの中から苦悩は煙のように消え去った。逃亡者が捕まった瞬間、かえって解放感に満たされるように。


「愛してる」


 自分の中の真実を口に出来たから、心は重力を失ったように軽くなった。けれど切なかった。

 息を呑んだセレナの表情が見える。きっと次には顔を顰め、カシュパルに近寄らなくなるに違いない。

 血縁から恋愛感情を求められるおぞましさ。痛い程に分かっていても、真実を告げずにはいられなかった。

 その手が渡した剣の鞘を抜き、俺の首を斬り落とすのだとしても構わない。彼女に救われた命だった。何を惜しむ事がある。

 全てを受け入れて笑うカシュパルだったが、セレナは剣をテーブルの上に置いた。そして確かめるようにカシュパルの頭を掴んで視線を合わせる。

「もう一度言って」

「……愛してるよ、セレナ」

 ごめん。こんな自分を育てさせて。目も当てられない程、歪んだ醜い心だろう。

 罪深くも貴女の貴重な時間を消費させた。人間という短命な種族にとって、二十代の八年がどれだけ人生で重要なのか気がついていた。

 貴女の善意に胡坐をかいて、感情を隠した甥の顔で傍にいるだけでも許されない事なのに。

 けれどこれ以上隠せそうにもないんだ。

 いっそ俺を、引き裂いてくれ。

 セレナの手に自分の手を重ね、末期の幸福を噛み締めた。もう二度とセレナはカシュパルに微笑んでくれはしないだろう。

 死よりもつらい覚悟をしたカシュパルだったが、彼女の顔に浮かんだ感情は否定的ではなかった。

「セレナ?」

 彼女は泣いていた。カシュパルはセレナが涙を流すところを見た事がなかった。泣き顔さえ美しく思えた。

 その意味は……明らかに、嫌悪ではなかった。

「もう一度」

「愛してる」

 セレナは泣きながら笑った。

 それは今まで彼女が心の底からカシュパルの前で笑った事など一度もないのだと理解させるような、一点の曇りもない笑顔だった。

 まさか。受け入れられたのか。

 思いを告白していながら、セレナが自分に笑ってくれている事が信じられない。夢かと思った。

けれど目の前のセレナはカシュパルの想像を超えた表情で、自らの喜びを表現している。

「……もう一度」

「愛してる。貴女を」

 何年も押し殺し続けてきた自分の言葉を、セレナが何度も要求する。

 本当に俺の感情は許されたのか。

 都合のいい幻を見ているかの様で、けれど触れるセレナの体温は確かに現実だと告げていた。

 心が長年の軛を解かれて勝手に走り出す。夢に頭まで浸りきり、陶酔した眼差しで彼女を眺めた。

 愛してる。セレナだけを。

 どれだけ罪深い愛であろうと、貴女が共にいてくれるならば俺は全てから守ってみせる。

 後ろ指を指す者達は踏み拉こう。許される場所がこの世の果てでも構わない。

 だから、セレナ一人はこの愛を許して。

 カシュパルの人生において、必要なものは目の前の女性だけである。

 他人からどんなに自分の才覚を褒め称えられようと、セレナの為にならないのであれば意味はなかった。

 どれ程容姿が優れていようと、セレナの目を奪わないのであれば価値はなかった。

 長寿の竜人の血を引いていようと、人間のセレナと共に歩めない時間は不要だった。

 愛という言葉の意味を理解する前に、既に貴女を愛していた。

 蓋が外れた想いが溢れそうになった時、セレナが床にへたり込んでしまった。

 冷たい床から抱き上げようと膝を曲げるも、その拍子に抱き寄せられてしまう。

 彼女の息が自分の耳に吹き込まれた。

「私の可愛いカシュパル」

 ……は。

 カシュパルの夢に、罅が入った音がした。浮かれていた気持ちが硬直する。

 その言葉はまるで幼子に対する愛玩のようで。カシュパルの彼女と溶け合いたいと渇望する熱とは一線を隔していた。

「ふふ」

 顔を見上げた。セレナは笑っていた。カシュパルの手が決して届かない場所から、降り注ぐ光の様に。

 感情は交わらないのだと思い知らされていく。

 誤魔化しようもなく顔が強張って行くのが分かったが、セレナはそんなカシュパルの失望など意に介さずに唯々嬉しそうに笑っていた。

「私も愛しているよ」

 カシュパルはその意味が自分の愛とは決定的に違う事を悟らざるを得なかった。

 幼い頃からセレナに言われ続けた、欲望のない善意だけの愛。カシュパルの盲目で、相手を求めてしまう狭量な愛とは違う。

 何かを見過ごしてしまっている事に気がついたが、カシュパルの手札ではそれが何か分からない。

 けれどセレナを見て、どうしてか不吉な予感がした。掴んだと思った物が、手をすり抜けてしまうかのような。

 セレナの笑みが淡くて儚いものに変わっていく。恐ろしい何かが起きそうで、カシュパルは傍のセレナを抱きしめた。そうしなければ消えてしまう気がした。

 それを確信させるように、セレナは一言独白のように呟く。

「……寂しいなぁ」

 何を? 誰を? 俺達は少なくとも、互いに思い合っている事を確認したばかりなのに。

 どうしてそんな、永遠の別れのようにセレナは切なく笑うのだろう。

 カシュパルの愛は許された。けれどそれと引き換えに、とても大事な何かを失う気がした。

 問いただすその前に、セレナの体から力が抜けていく。

 慌てて支えれば、酒と泣いた疲労からか目を閉じて眠ってしまっていた。

 不安が押し寄せる。けれど自分の不安を優先してセレナの目を覚まさせる訳にもいかない。

 仕方なく体を抱き上げてセレナの寝室に運んだが、目を放した瞬間に消えてしまう気がした。

 ベッドの上で眠るセレナの頬に触れる。嫌われ、命を奪われる覚悟をした事はあっても、セレナが目の前から去ってしまう事は考えてもなかった。

 外では月が空を跨いで夜が更ける。その間もカシュパルの頭は全く休まらない。

 セレナが自分を試した理由が恋愛感情を確かめる為ではなかったのだとしたら、結局理由は何だったのだろうか。

 朝が来てセレナから別れの言葉を聞きかされたら?

 縋れば思いとどまってくれるだろうか。可哀想なカシュパルに戻れば気にして彼女の行く先に連れて行ってくれるだろうか。

 或いは跡形もなくセレナが消えてしまっていたらどうすればいい。

 セレナの隣に体を横たえた。こうしていれば、彼女の目が覚めれば直ぐに分かるだろう。

 そしてそっと小さな手に自分の手を重ねて載せた。そうして齎されるごく僅かな安心の為に。

 カシュパルはその晩、セレナの体から手を放す事が出来なかった。

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