第25話 子供
倦怠感と微かな頭痛を感じながら意識が浮上する。普段とは違い隣に誰かの気配がして、瞼を開くと見慣れた顔が間近にあった。
「……カシュパル?」
普段私の部屋に勝手に入る事などないのに。カシュパルは昨晩寝てないかのような顔色の悪さで、私の隣に横になっていた。
昨日の記憶が徐々に蘇ってきて、カシュパルとの最後のやり取りを思い出す。きっとその後眠ってしまって、彼が此処に移動させてくれたのだろう。
けれどそんなに切羽詰まった表情で、朝から私の隣にいる理由が分からない。
「どうしたんだ? 朝に私の部屋にいるなんて珍しいね」
昨日は漸く関係を改善したから甘えたくなったのだろうか。カシュパルがそれを求めるならば、セレナは存分に与えてきた。
だからこれまでと同じように彼の頭を優しく撫でてあげたが、その目に宿る不安は消えなかった。
「セレナ」
「うん?」
「……何処かに行くのか?」
それは明らかに直近の予定を聞く内容ではなかった。察しの良いカシュパルは昨日のやり取りだけで、私の真意を読み取ったのだった。
けれど隠す必要もなかった。突然消えてしまうつもりはなかったから。
「そうだ」
ティーナに誤解された時から、もう時間がきたのは分かっていた。
実年齢は容姿をとうに超えてしまって、事情を知らなければカシュパルと隣に並んで家族と見る者は誰もいない。
カシュパルが人を憎悪する未来が来ないと確信した今、留まる理由はなかった。
「何処へ?」
「アリストラ国へ」
本来の時間軸に戻る前にもう一つ、どうしてもやらなければならない事がある。
王族殺しのヴィルヘルムス。彼は母親の無念を晴らしたのではないかと言われていた。
侍女だったにも関わらず規則を破って王族の子供を宿してしまった彼女は、代々王族に仕える伯爵家の娘だった。
伯爵家の努力により命を奪われる事こそなかったものの、自由を奪われて王宮の片隅に軟禁された。
そこで何があったのかはセレナでさえも極秘事項だった為に分からない。
けれどその場所で若くして死んだ事実だけが残された。他に王族として周囲に認められていたヴィルヘルムスが、凶行に及ぶ理由はなかった。
暗い未来に繋がらないように、私は彼も助けなければならない。
「俺もついて行く」
カシュパルは体を起こし、酷く険しい表情で言った。けれど首を縦に振る事は出来ない。
何故ならばヴィルヘルムスの生誕の時期は十年後の未来だった。カシュパルと共にいようとすれば、一体何歳だと偽ればいい。
「駄目だ。お前は目立つから」
その角を指さして言えば、傷ついた顔をする。竜人の誇りである角がある限り、アリストラ国でカシュパルが人に紛れる事は出来ないだろう。
けれどそんな事は適当に言った理由でしかない。
「……何で急にそんな事を言い出したんだ」
「独り立ちするまではと思って遅らせていただけで、ずっと前から思っていたさ。だけど昨日、カシュパルがもう私を追い越していると分かったから」
カシュパルは皮肉気に笑おうとして失敗したようだった。確かに昨日、自分の出来得る限りの事をしてみせたのだから。
それが別れの原因として指摘されるなど、思いもよらなかったに違いない。
歪んだ顔を隠そうともせず非難する眼差しで私に歯向かった。
「何をしに戻るんだ。仕事も友人もヨナーシュで十分だろう」
「やらなければならない事を」
「……やらなければならない事?」
「そう。あの国に私の義務が残されてる。他の誰にも任せる事の出来ない、私の仕事」
「魔物狩人として?」
私は答えずにただ口角を上げた。教える気のない態度に焦れたカシュパルが、私に迫って言い募る。
「セレナ、何でもする。俺は役に立つと知っているだろう? 角だって切り落とせばいい」
「切ってどうする。跡が残るだけだ。お前が目立つのは角のせいだけじゃない」
竜人の誇りである角を簡単に切り落とせばいいなどと言うのはカシュパルぐらいなものだった。
彼が苛ついているのが見て分かる。思い通りにならない現実に歯噛みして、呻くように呟いた。
「本当に何をするつもりなんだ。どうして俺に教えてくれない」
「カシュパル」
私が一向に揺らがないのを見て、カシュパルの顔が絶望に満ちていく。大概の事にはカシュパルに甘い私だが、時折一切妥協しない姿勢を貫くのを彼はよく知っていた。
「愛してると言っただろう。セレナはその意味が分からないのか? 分からないのだろうな。分かっていたら、そんな言葉を言える筈がない!」
カシュパルの眉は情けなく下がり、唇は震えていた。紫の目から一滴の涙が零れ落ちた。
この子が泣いているのを見たのは、いつぶりだろうか。
それを私がさせてしまったのが申し訳なく思え、直視してくる視線から顔を逸らす。カシュパルの言う意味が分かった所で、別れは決定事項だった。
「セレナが、俺をこういう風に育てたんじゃないか」
確かにその通りだ。カシュパルが私を愛するように、私は仕向けた。その愛の意味は思っていたものと違うようだが。
彼は震える手で私の袖口を掴み、子供が自分の主張を押し通そうとする時のように感情的に訴えた。
「今更、俺を捨てるなんて」
捨てると手放すの違いは心持ち一つだけで、理解してもらうのは酷く骨の折れる事に思われた。
けれども子供がいつか親元を離れるもので、その時期に来ただけなのである。
「カシュパル、愛してくれてありがとう」
カシュパルは目を大きく開いて私を見つめる。自分の感情に感謝されるなど思っていなかったに違いない。
彼が愛してくれたから、私は安心して離れて行ける。
「けれど私達は家族だ。愛しているよ、カシュパル。どれほど遠くに行ったとしても、お互いが特別な事に変わりはない」
残酷過ぎる言葉にカシュパルは絶句した。決死の告白の答えがこれだった。
胸が痛み、心臓が止まってしまいそうだった。
どうやっても彼女の子供の立場から抜け出せないのだと強制的に理解させられる。
浅ましく藻掻いた末の現実が、これ以上抵抗する気をカシュパルから奪っていく。頭が真っ白になってしまって、茫然と言葉を聞く事しか出来なくなった。
「カシュパル。楽しかった。幸せだった」
糸の切れた人形の様に力なく項垂れたカシュパルを、細い腕がそっと抱きしめる。
「……それでも行かなければならない。此処で目を背けたら、私は一生逃れられない自分の感情と向き合う事になるだろう。お前と共有もしない。それは私だけのものだから」
優しく包み込まれる程に、カシュパルは棘が食い込むような痛みを感じた。
懇願しても自分の物になってくれないそれが、悲しくて悔しくてやりきれない。
「行かせてくれ。頼む、カシュパル」
私は肩を落として沈んでしまったカシュパルに、頼むと何度も繰り返す。
可哀想でならなかった。けれども獣人としての人生を謳歌しだしたカシュパルを、自分の責務に巻き込む事はどう考えても受け入れられない。
私自身も離れる事がとても寂しいのに。また新しい時間と場所で一人、他者と関係を築いて行かなければならない。何処に行ったとしても、カシュパル程に大事に思う存在は出来ないだろう。
けれどその寂しさが未来の大きな幸せになるならば、身を捧げるべきだと思った。
カシュパルは自分の内側から発生する酷い痛みと向き合わなければならなかった。彼女の養い子という立場を甘んじて受け入れるしか道は残されていない。
セレナにとって、自分はただの荷物なのだ。守るべき存在でしかなく、守られるなど想像もしていない様子である。
これ以上セレナに何を言ったとしても、只の我儘にしか聞こえない事を理解した。
最早彼女が考えを変える事はないだろう。抵抗した所でセレナは困った表情をするだけで、最悪の場合何も言わずに突然消えてしまうに違いない。
ならば関係を悪化させる事は避け、せめて言質を取らねば。それでもセレナが去る事を認めるような発言をするのは、随分カシュパルにとって難しい事だった。
長い時間の後、言い足りない多くの言葉を飲み込み漸くカシュパルは尋ねた。
「……それが終わったら、また戻って来るのか?」
肯定以外の答えは求められていなかった。
十年後の任務が終わったとしても、カシュパルの隣に戻れる筈がなかった。
けれどそれを告げたら彼が壊れてしまう気がして、慰める為だけの嘘を口にする。
「……そうだな。全部が終わったら」
それを聞いてカシュパルは少し気持ちが落ち着いたようで、私を子供の様に澄んだ目で見つめた。
「待ってる」
信じさせたのが申し訳なくて、けれどそれを表に出す訳にもいかずカシュパルの頭を撫でる事で罪悪感を紛らわせた。
私がいなくても、周囲の友人達がカシュパルを支えてくれるだろう。
何でも出来る彼だから、好きなように生きればいい。有能なカシュパルに心配など不要だった。
それでもあまりにも綺麗な目で一途に私を見つめるものだから、本当に全てが終わったと確信できた時には手紙でも書いて送ってやるのも悪くないかもしれないとは少し思う。
ただ、それまでには数十年という長すぎる時間が必要だ。そんな先の事など約束出来る筈もない。
だから私は唇を固く結び、ただカシュパルの顔を脳裏に焼き付けた。
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