第5話 温かな思い出
温かい母との記憶はその後に訪れた苦痛の記憶に塗りつぶされてしまって、もう随分と長い間思い出す事が出来ていなかった。
けれど漸く心の平穏を得た事で、懐かしい思い出が夢としてカシュパルに蘇る。
『カシュパル。貴方のお父さんが、きっと迎えに来てくれるわ』
頭を撫でる優しい手と、貧困によってやつれた華奢な体。それでも目だけは希望に輝いて、最後まで父が自分の元に来てくれると信じていた。
カシュパルはもうその頃には諦めてしまっていて、けれど母を悲しませたくなくて否定の言葉を飲み込む。
もう戻らないそれらが切なく、苦しい程に胸が痛んではっと目が覚めたのはセレナと眠る宿の一室だった。
流れていた涙を拭って横を見れば、同じベッドを共有し眠るセレナの姿があった。
起きている間は活発なセレナが、余りに静かに眠っているので一瞬不安になる。
大事な人を失った恐怖は、カシュパルに嫌な想像をさせて胸をかき混ぜるのだ。
けれど呼吸と共に胸が上下するのを確認し、生きている事に心から安堵した。
セレナは母のように手放しで可愛がるようなものでなかった。
傍で転んでも手を貸さずにじっと見守り、くじけそうになれば励ます。そんな姉のような近さでカシュパルを大事にしてくれた。
そして自分を守ってくれる唯一の人である。だから毎晩のように祈っている。
どうか彼女こそは自分の元から離れないようにと。
今まで未来に希望なんて持てなかったカシュパルに、セレナはヨナーシュ国なら受け入れてくれると明るく語った。
それが本当にどういう意味かは想像がつかなかったが、彼女がそう言うなら良い場所なのだろうと思う。
隣の温もりを感じたくて少しだけセレナに身を寄せようとした。しかし身動きしたのが伝わり、セレナの眠りを邪魔してしまったらしい。
ぼんやりと目を開けたセレナは、カシュパルが目を開いて自分を見ている事に気がつくと優しい声で言った。
「眠れないのか」
「……うん」
セレナは気だるそうに瞼を擦り、カシュパルの頭をあやす様に撫でる。
「こういう時は、歌を歌ってくれたな」
「おばあちゃん?」
「いや。私にとっては母のような人だったが、お前にとっての祖母ではないよ」
一体誰なのだろう。セレナが自分の過去を語るのは珍しかった。
単にそう言う性格なのかもしれなかったし、語りたくない過去があるのかもしれなかった。
カシュパルとしてはセレナを不用意に傷つける事はしたくなかったので、自分から聞く事はない。
だから珍しく教えてくれた事が妙に胸に残る。
「その小さな体に、沢山のものが詰め込まれていた。そして惜しげもなくそれを私達に分け与えてくれた。孤児も近隣の子供も区別なく可愛がってくれて、皆彼女が好きだった」
セレナは懐かしみながら笑った。
「私は多分、その人みたいになりたいんだ」
セレナは服の下に隠れている首にかけていた細い鎖を手で探り、アリストラ国の教会のシンボルである四つの翼を持つ鳥のチャームを取り出した。
「今は何処で何をしているんだか」
そのチャームはその人に貰った物に違いない。
セレナは旅をしているからか殆ど物を持っていない。だからいつも手放さないそのチャームと、外そうとしない質素な腕輪は余程大事なのだろう。
「会いに行けないの?」
「ああ。今は。でも、やるべき事がひと段落したら顔を見に行くつもりだ」
「やるべき事?」
カシュパルの問いにセレナは答えなかった。ただ大人の笑みでいつまでも寝ようとしない彼を寝かしつけようと、上掛けを深く被せた。
そして胸を軽くリズミカルに叩き、隣の部屋に響かないような小さな声で優しく歌いだす。密やかで優しい夜が、歌と共にカシュパルの心に染み入って来る。
「果てを求める者。旅人は留まらず、過ぎて行く。されど残るは誰が為か。尊き者の目をも眩ませる地の愛よ。永の時さえ色褪せて、この世は喜びと歓喜に満ち溢れ、絶えぬ歌が光を呼ぶ」
ほんの些細な事で壊れてしまいそうな繊細な荘厳さを、セレナから感じずにはいられなかった。
だからカシュパルは息を殺して、彼女の歌声に耳を澄ませる。歌は古めかしく、所々唐突で意味が分からない。
「獣は高く啼き、子は微睡む。不屈の意思が全てを変える。やがて悲劇は解け、道は開くだろう。運命抗う心こそ誉れ。讃えよ、讃えよ、声枯れるまで」
やがて長くないその曲を、セレナは歌い終えてしまった。教会の歌だろうか。
意味はよく分からなかったが、自分の為に歌われた事実が心を温めた。
「……どういう意味?」
「私と同じ事を聞くんだな」
セレナは昔を思い出す様に少し笑いながら答えてくれた。
「神族を歌った歌だ」
それは神殿騎士のセレナにとっては馴染み深い話である一方、生きるだけで精一杯だったカシュパルにとっては聞く機会のなかった話だ。
「神族?」
「人ならぬ人。或いは獣ならぬ獣。彼等が本当に何処から来たのかは分からない。人以上の特別な力を揮い、国を作った。平地では今の王族の祖がアリストラ国を。山では竜がヨナーシュ国を。ヨナーシュ国の竜は何処かへ立ち去ったと言われているが、アリストラ国には王族として末裔が今なお残っている」
その神話の成り立ちこそが、人間が獣人を差別する理由でもあった。
見放された種族であると選民思想が蔓延ってしまったのである。
けれどセレナは王宮から王族達が出て来なくなった現状では、人間も獣人と変わらないようにしか思えなかった。
そんな事をあえてカシュパルに言うつもりはなく、微笑みの中に隠した。
「さあ、もう寝ろ」
「うん……」
セレナに促され、重くなってきた瞼を擦る。それでもセレナに優しく微笑まれているこの時間が惜しくて、つい眠気に抗ってしまう。
「どうした。気になって眠れなくなったか?」
カシュパルは首を横にふり否定した。
「神族なんて、興味ないよ」
それがどれほど尊い存在だろうと関係ないと、穏やかな微睡みの中で思う。
母は顔も知らない何者かに祈っていたが、遂に願いは叶わなかった。
慈善活動の為に来ていた聖職者達も白々しく死後の世界を語るだけで、現実の地獄を終わらせてはくれなかった。
けれどカシュパルは救われた。
カシュパルの神は此処にいた。
やがて聞こえて来た寝息に、セレナは一安心する。カシュパルを寝かしつけたのは良いが、今度は此方の目が覚めてしまった。
懐かしい歌を歌った事で、孤児院の院長の優しい母のような笑みを思い出してしまった。
「エイダ先生」
セレナがこの世界を愛せたのは間違いなく彼女のお陰だった。
孤児院で暮らしている間、寄付金の減少や地域住民との軋轢など数多くの問題を院長である彼女は抱えていた。
それでも気丈に笑って、力強く乗り越えていた。『愛があれば、どんな事も成し遂げられる』と口癖のように言って。
都合のいい言葉だと思ったが、何度も聞いている内にすっかり頭に染みついてしまった
「私もその言葉。信じてみようと思います」
セレナの口元は淡く微笑んでいた。
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