第3話 殺さない
カシュパルに剣を突き付けたまま、微かに呼吸と共に上下する薄い胸を見る。斬れば、止まって二度と動かなくなるその動きを。
どうしてカシュパルが人間達をあれほどまでに残虐に扱えたのかが、よく分かってしまった。自分にされた事をそのまま返したのだ。
生き物とさえ認識されず、人形のように弄ばれるだけの扱われ方しかされなかった。
なんて、哀れな。
剣を構えた手が動かせない。それは自分が彼と同じく孤児だったからだろうか。
様子を見に孤児院に帰れば、喜んで出迎えてくれる可愛い弟妹達がいた。
私が時渡りの腕輪の適合者だとして神殿騎士を受け入れたのも、彼等を守りたいと思ったからだ。
カシュパルは間違いなく今まで見て来た孤児達の中で最も悲惨な状況である。
獣人の血が流れていなければ、とうの昔に死んでいただろう。
彼を殺す事が私の義務。いや、義務以上に私自身も望んでいた。仲の良い兄弟達は獣人に殺されたから。
けれど今胸の奥が酷く痛み、その苦痛に耐える為に奥歯を噛み締めたが全く和らぐことがない。
今まで自分は国を救う為に剣を振るうのだと、誇りと共に誓っていた。カシュパルの殺害はその理念からすれば正義である。
アリストラ国で私が出会った孤児院の兄弟、騎士の仲間、仲の良い神官。彼らは善人で、獣人に惨く殺されるには惜しむべき人々だった。
これは彼等を守る為に行うべき正当な行為だ。
けれどならば、この哀れな子供を殺す私は一体何なのだろう。
まだ誰も殺しておらず、守ってくれる人もいないこの子供を殺す私は。
未来を変えなければ。
しかし迷う。迷う。迷う。
彼を殺せば、生涯ついて回る重石から逃れられなくなる気がした。
私の額から汗が一滴垂れ、剣を伝っていく。剣の先では小さな蜘蛛が地面と変わらない土塗れのカシュパルの皮膚を、石ころを超えるように這って行った。
小さな命を巡って静かに葛藤をする私の脳裏に、突如として閃くものがあった。
「……未来を変えさえすれば、いい?」
私は自分を縛る物が何もない現状に気がついた。
過去を変えれば未来の全ては変わる。私に命じた大神官でさえも、この任務の事を忘れるだろう。
ならば私がどのように未来を変えた所で、誰にも分からないのではないだろうか。
馬鹿な考えだ。一瞬で済む任務を、下手をすれば数十年単位の時間をかけて行うつもりか。
けれど命というものには、それだけの価値があるように思えた。
私は一度強く瞼を閉じ、剣をそっと鞘にしまった。
殺す事はいつでも出来る。そしてこの任務に与えられた最大時間は、本来の時間に追いつくまでの長い期間である。
大きく息を吐く。
ならば……賭けてみよう。この子供が人間を恨まなくなる可能性に。
成長過程であのカシュパルになりそうな気配が出れば、その時こそ剣でカシュパルを貫けばいい。
私はカシュパルの膝と背中に手を添え、そっと抱え上げる。
小さな体は余りにも軽く、乱暴に扱えば何処かが折れてしまいそうに思えた。
来た道を戻る道中、露店商から子供の服を購入した。こんな一目見て分かる孤児を連れ歩けば、誰にどう誤解されるか分からない。早く着替えさせなければ。
宿の店主は薄汚い子供を連れ込んだ事に良い顔をしなかった。仕方なく多めに金を払う事で黙らせる。
孤児院で年下の兄弟達の世話を経験したから、体を拭いたり着替えさせてやるのは慣れていた。
一頻り世話を焼いて落ち着いた所で、カシュパルを寝かせたベッドの横に腰かけた。
「……そろそろ、起きたらどうだ」
顔を見るのも飽きたので痣だらけの顔を少し突く。
その衝撃で意識が浮上したようで、漸くカシュパルは薄く目を開いた。細められた瞼の間から黒髪に似合う紫の目が見える。
意識のない間に誘拐の様に連れて来たのだから当然状況が把握出来ている筈がない。
擦りながら目を開き、自分がベッドに寝かされている事に気がつくと飛び起きる様に上半身を起こした。
彼は見知らぬ私の姿に驚いて目を見開き、次いで自分が真新しい服に変わっている事に気がついて指で服を摘まんだ。
「此処は……? 貴女は、誰?」
「此処は私の宿泊している宿だ。お前の服を変えてやったのも、私」
一先ず誰彼構わず攻撃してくるような狂暴性はないようだ。優しい笑みを心がけて浮かべながら、静かに彼を観察した。
戸惑うばかりの子供は痣だらけの顔をして、あどけなく私を見ている。
「お前はカシュパル。母親の名前はアーロン・ニア。赤毛のそばかすのある女性で、セルフィナ出身だっただろう。実家は家具職人で間違いないか?」
見知らぬ他人から言われた自分の情報に、カシュパルは目を瞬かせながら首を縦に振る。
「私はセレナ。お前の、叔母だ」
勿論、嘘である。けれど時を遡る前に、カシュパルの情報は詳細に頭に叩き込んできた。ボロを出さない自信はある。
今は人間である母親を失って、一番カシュパルが無力な時期だ。
彼は数か月後にアリストラ国に出入りしている数少ない獣人の商人に拾われるまで、完全に誰にも守られずに暮らす筈だった。
孤独と迫害に最も曝されている今ならば、誰かの保護を心底求めているに違いない。
「俺の叔母さん……?」
カシュパルの目が大きく見開かれ、希望の光が宿っていく。
身寄りのない孤児にとって、親族は現状を脱出する事の出来る数少ない救いの手段だった。
突然の幸運に口を開閉させた後、大粒の涙がカシュパルの目から零れ落ちた。
私はカシュパルの視線に合わせるように膝をつき、幼い頃自分自身が望んだ言葉を彼にかけてやった。
「迎えに来るのが遅くなってすまない。これからは一緒にいよう」
カシュパルは小さな頭を何度も縦に振って、必死で自分の意思を示す。私の気が変わるのを恐れるかのようだった。
他人に抱き着く事さえ知らない子供を、両腕に閉じ込めて慰めた。そうしている内に胸からは泣き声が聞こえてきて、拒絶されなかった事に内心大いに安堵する。
大丈夫。この子はまだ、矯正出来る。
私が傍にいて、人間を憎むものではないと教えてやればいい。甘えさせて、信じさせて、人間を殺せなくなるように。
胸に静かな決意を秘めながらカシュパルの頭を撫でれば、小さな角が手に当たる。
竜人の血を引く者の証。これを晒している限りアリストラ国で安息は訪れない。
彼をまともに養育する為には獣人の国、ヨナーシュ国に行くしかなかった。
逆に彼方では人間への風当たりは強いが、多人種国家の為アリストラ国が獣人にする迫害よりはましだろう。
自分の予定が大幅に狂ってしまったのを自覚しながらも、自分の心のままに行動すると決めて気分は良かった。
カシュパルの紫の目から大粒の涙が何時まで経っても零れ落ちるので、私は苦笑して彼を抱き上げて床に立たせた。
「セレナさん?」
驚いたカシュパルが私を見上げる様子が可愛らしい。酷い目に合っていたにも関わらず、この子はまだ無垢だ。
「セレナでいい。カシュパル、お腹が減っているだろう。食べに行こう」
「でも……」
嫌な思いを散々してきたのだろう。自分の角を押さえ、カシュパルは暗い顔をする。
私は彼の服のついでに買った帽子を頭に被せてやった。まだ小さな彼の角はそれで完全に隠れてしまう。
「これで良い。外さなければ、普通の子供に見える」
カシュパルは宝物のようにその帽子を両手で押さえて深く被る。手を差し伸べれば、おずおずと手を重ねて来た。
「大丈夫だ。例え見られても、私が守ってやる」
カシュパルはまだ自分の身に起きた事を信じきれていない様子だったが、繋いだ手は痛い程強かった。
お前の望む通りに、この嘘を信じればいい。
私は全力でこの嘘を貫くだろう。疑いようもない程に家族として大事にしてみせる。だから人間を決して憎むな。
そうでなければ……今度こそ、この剣はお前を斬るだろう。
故国を滅ぼす残虐な王にはさせない。少しでもその片鱗が見えたなら、剣を以て止める。
それが私を育ててくれたアリストラ国に対する、責任の取り方だった。
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