第2話 滅亡の時
人々の怒号と悲鳴が混じり合い、国の滅びる音を作り上げている。
空には炎により赤く照らされた黒煙が幾筋も立ち昇っており、城下町が壊滅状態であるのを誰しもに理解させた。
色々なものが焼ける臭いが神殿の最奥であるこの場所まで漂ってきて、私は思わず顔を顰めた。
あんなに綺麗だった王都も、今はただの地獄だな。
目を正面に向けると、白い大理石に飾られた美しい祭壇の上に実に質素な腕輪が乗っている。
何らかの獣の皮を土台にして、小指の先ほどのささやかな澄んだ水晶が付いていた。
それを疲れた顔をして眺める白髪の老人は、アリストラ国の大神官である。私と彼以外、この空間には存在しない。
「もう半日もしない内に、ここまで獣人達が攻め込んでくるでしょう」
私の言葉に大神官は静かに頷いた。戦況は随時彼の耳に届いている。
けれど逃げようとしないのは最後まで抵抗する意思があった事と、私に特別な任務を与える為だった。
「カシュパルの非道さは聞いている。女も子供も関係なく、人間と見れば皆殺しだと」
「はい。この国の人間は間もなく奴隷として生きる以外の道は無くなるでしょう。或いはそれさえも許されないかもしれません」
「これも巡り巡って、人間の業か」
この国の民衆は人間至上主義の思想に染まっている。
王族や教会は表立って獣人達を排斥していないものの、民衆の差別意識を改革する事は出来なかった。
その結果、獣人の王カシュパルという人間を憎む化け物が誕生した。
幼少期に人間より酷い虐待を受けて育った彼は、その憎しみのままにアリストラ国を蹂躙しようとしていた。
楽しむように人間を殺し、通った後には血の川が出来るという。躊躇も慈悲も一度も見せた事がない。
今やその名前は人間にとって悪魔よりも恐ろしい恐怖の代名詞だった。
「それだとしても、ただ滅びる訳にはいかない。この国には何の罪のない多くの子供達もいるのだから。今までの事が過ちだったとしても、彼らの未来を奪う権利はカシュパルにもない筈だ」
「……そうですね」
力強い大神官の言葉に同意する。孤児院で育った私として共感できる言葉だった。
誰かの自暴自棄に叫ぶ声が此処まで響いて来た。それに今更動揺もせず、粛々と大神官は言葉を続ける。
「セレナ。この時が来てしまった。君が孤児院からこの神殿に連れて来られた理由。一生この日が来なければいいと思っていたが……今をおいて他に使い時はないだろう」
そう言うと祭壇から腕輪と取り上げ、私に手渡した。
このみすぼらしい腕輪こそ、幾度もこの国を危機から救って来た『時渡りの腕輪』である。
アリストラ国の王族は、遥か昔に別の次元から来たという神族の血を引く者達だ。
彼らは天候を操り、水を動かし、火をおこし、大地を富ませ、未来を見通し、過去を渡り、傷を癒す事が出来た。
この腕輪は王族の過去の栄光の時代に作られた神具だった。あまりに制作時期が古すぎて最初期からの物という以外は分からない。
手に取り自分の腕に嵌めれば、まるで元から私の物だったかのようにしっくりとする。
この腕輪は文字通り使用者を過去に飛ばす。
けれどその使用者になれる者の条件が厳しく、髪と目の色の指定から泣き黒子の位置まで詳細に決められていた。
だから適合者はどの時代にも一人だけで、いない時も珍しくない。今の時代にも私だけだった。
本当に私が使えるのだろうか?
不安に駆られながら腕輪を撫でたものの、特に何の反応も示さなかった。本番で成功するのを祈るしかない。
「大丈夫。君なら出来る」
「必ず、やり遂げてみせます」
国を救う重圧に耐えながら言った。大神官は満足そうに頷き、改めて任務を言い渡す。
「帰るべき過去は二つ。一つは獣人の王カシュパルを止める事」
「はい」
カシュパルは戦闘能力も統率力も比類なき天才である。どのような手段であれ、戦って勝てる者は皆無だった。
けれど過去の最も無力な時期に行けば、私のような一介の女騎士でさえ殺せるだろう。
「もう一つは王族殺しのヴィルヘルムスを止める事」
「……はい」
王族達が民衆の前に姿を見せなくなって幾久しい。それでも有事の際には国民を救うべく力を揮ってくれる筈だった。少なくとも国民は皆それを信じていた。
けれど五年前、二十人近くいた王族は全て殺されてしまったのである。
その犯人こそが、自らも王族であるヴィルヘルムスだった。
嘗て王族の侍女だったヴィルヘルムスの母が、まだ彼が幼い内に無念の死を遂げた事が凶行の理由ではないかとされているが、真実は分からない。
彼は不思議な事に無抵抗で拘束され、現在既に処刑されている。死んだ者をこれから殺しに行くのが不思議な感覚だった。
「『時渡りの腕輪』は使う度に劣化している。保証できるのは後三回程だろう。不必要に使ってはいけないが、必要な時に躊躇してもいけない」
「分かりました」
過去に戻れば私は身寄りのないただの女性でしかない。
しかし一人でも任務をこなせるように、十分力を磨いてきたつもりだった。
使えるのは三回か。最初の一回でカシュパルの元に行き、次の一回はヴィルヘルムスの為に使い、最後の一回は元の時間に戻る時に使わなければ。
「苦労をかけるね」
最後に大神官は申し訳ない顔をして私にそう言った。
私はどうにか笑顔を作り、最後だからと口を開いた。
「いえ。大神官様もどうか息災で」
こんな言葉只の気休めだと分かっている。このままでは今まで人に傅かれてきた大神官も他の人間と同じように残虐に切り刻まれるに違いない。
そして過去が改変された時、記憶は改変しこの会話も忘れてしまうだろう。
私だけがある意味逃げるのだ。
どちらが幸か不幸かなど、決められるような話ではなかった。
壁にはこの神殿が建てられた時に、王族が残した言葉が刻まれている。普段は壁の文様に紛れてしまって意識にも上らないそれが、今は不思議と目に留まった。
『足掻け。終焉の先の救いの為に』
まるで私に語り掛けられているかのようで、しばし見入ってしまう。
この言葉を残した王族は国の終わりさえ見通していたのだろうか。
「時間だ」
大神官の言葉に頷く。ただ別れを惜しみ、彼に静かに膝をついた。
「はい……また。大神官様」
想いを込めれば腕輪の水晶が淡く輝き始めた。みすぼらしく見えた腕輪の本性を現し、奇跡の光を朝焼けのように神殿内に満たして行く。
地面から立ち上がった白い靄が私を包んでしまい、視界をすっかり奪われてしまう。
光が四方八方から差し込んで、上も下も分からなくなった。
地面が揺れる感覚。微かに吐き気がする。
口を押えて自分の位置を把握しようとするが、何も分からない。
目を瞑って堪えている内に……時渡りの奇跡は成し遂げられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます