第三話

 家に帰るまでが地獄だとか小学校の先生が言っていた気がするが、本当の地獄は家に帰ってからだった。

 京都の古本屋で仕入れて来た坂口安吾全集を読みふけりながら、今日という一日の余り時間を費やしていると、僕のスマートフォンが突然振動した。

 こんな時間に連絡という事は、彼女からだろうか。さしずめ、今日もデートしてくれてありがとう、と言ったお礼メッセージか。

 結論を言うと、彼女から、という部分は合っていて、お礼メッセージ、という部分は間違っている……まだメッセージを開けてはいないが、一文目が『ごめん』から始まっていたので、これは決して甘ったるいメッセージでは無い事を察した。

 とはいえ、最愛の彼女からのラインである。読まない訳にはいかないので、僕はメッセージを開いた。

 そこで僕を待っていたのは、魑魅魍魎という言葉が良く似合う、多種多様な化け物達だった。

『ごめん。数時間前にあんな事を言うてもうたけど、アナタには正直に話した方がええなって。実はあれ、嘘なのよ。アナタがあの写真を見せてくれた時、私は正直動揺してた。今まで唯隠してた事実を、突然知られたっていう恐ろしさにやられちゃって。ごめん、あんな約束したのは私やのに、アンフェアよね。本当にごめんなさい』

『お察しの通り、あれは私です。私が、昨日援助交際をしていた時の写真ですね。あの人とは、これもお察しの通り寝ました』

 段々と喉の奥が詰まり、息苦しさを感じ始める。

『そして、それでお金を貰いました。勿論、これだけに留まらず、私は他の相手とも沢山エッチをして、お金を貰っています。私達が初めてエッチをしたとき、処女は高校の先輩に捧げたって言いましたよね。あれも嘘です。東京の良く分からない政治家さんに売りました。沢山お金を弾んでもらって』

 喉元に悔し涙の混じった、酸っぱ苦い胃酸が段々とこみ上げてくる。

『でも、こうしないと学費を稼ぐことが出来ないんです。私は、どうしても大学に行きたいけれども、このままじゃお金で夢を諦める事になるんです。それだけは絶対嫌だったんです。だから……こんな、最低な事に、恋人にも黙って手を出してしまったんです。こんな最低な彼女で、本当にごめんなさい。もし嫌いになったら、何時でも振ってください。私はキミの事を、一人の女の子として、心の底から愛してるけど……キミが私を受け入れられないというのなら、それは仕方ないと思います。誰かのキミになっても、私は喜びます』

 そう、本心を押し殺して書かれた文章を読み終えたところで、僕は遂に胃酸で自室の床を汚した。

 おかしい、何もかもが狂っている。今まで僕の見ていた世界は何だったんだ。それは虚構だったのか。あれほど美しく見えていた夕日は感動を与える為の物では無く、僕たちを悪目立ちさせる為の悪質なスポットライトだったのか。花畑で鮮やかな茜色を用いて彩を放つ、美しい薔薇の花々は、その棘を用いて人を血で茜色に染めるためのモノだったのか。カノジョは、僕達の人生に彩りを分け合う為に存在する為ではなく、苦行を強いる為に存在していたのか。

 もうわからない、何もわからない、何故僕の魂だけは牢獄にぶち込まれなければいけないのか。僕は道だって答えるし、名前ぐらいしか知らない有名人の死をも弔っていたし、彼女に対しても、最大限の愛情と熱意をもって接してきた。なのに、なんだこの仕打ちは。世間と言うモノは、何故これ程まで僕に冷たいのか。社会に出るというのは、こういう事なのか。これほどの苦行を乗り越えなければ、社会人になどなる資格はないのか。違うだろう。こんな酷い仕打ちを受けているのは僕だけじゃないのか。僕だけじゃないのなら、何故皆平然とした顔で人生を過ごしているのだ。僕以外はそう言った事に耐性を産まれながらに獲得しているのか。なら何故僕には無いのだ。

 今度は便器を舐めるように胃液を吐き散らかした所で、彼女からのメッセージがもう一通来た。

『急にこんな重い話して、ほんまごめん。決心が付いたら、何時でも返信して欲しい』

 僕の涙に篭る温もりは、次第に冷たくなっていった。彼女のためにも、早く決心をつけてあげなければ。

 ところで、僕は少年時代、スーパーマンに憧れていた。スーパーマン、というのは実態の無いものではあるが、強くて、勇敢で、誰に対しても平等に救いを与える……そんなイメージを、僕の中で膨らませていた。

 となると、僕は彼女にとってのスーパーマンになるべきなのでは無いだろうか、という考えが頭に過り始める。

僕がもし、彼女の彼氏で居続けるなら、彼女はどれだけ学費の為に援助交際をして傷付いても、僕と言う名のシェルターに逃げ込むことが出来る。それならば、僕のメンタルだけが犠牲にさえなれば、彼女は救われるのではないか。それに、彼女がまた新たな恋人を作り、そして心を開くまでの過程を考えると、心が痛む。そして、そんな彼女であっても、僕はどうしようもなく好きだったのだ。


それに、僕が恋人では無くなった日には、彼女は新たな恋人と言う名のが出るのだ。


それだけは避けたい。となると、今の僕に出せる答えは、一つしかなかった。


「学費の為に頑張ってるキミを、僕は応援したいからさ。これからも、恋人で居させてください」

『アタシ、泣いていいのかな……ねぇ……神様……』



 床に落とした坂口安吾全集は、『堕落論』のページが開けた。そして、そこには前の持ち主が引いたと思しきラインマーカーが残って居た。


“けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つのようだ”

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