第二話

 明くる日。僕は、そんな疑念の種が開花寸前で脳裏に過りつつも、彼女とのデートに行くために大阪環状線のオレンジ色の電車に乗り込んだ。我々は夏休みを迎えてはいるものの、世間は唯の平日の朝。故に丁度通勤ラッシュとバッティングしたせいで、車内は中国のレジャープールかと勘違いしてしまう程ぎゅうぎゅう詰めで、座る席など一切なかった。

 しかしまた、この状況ではスマホを触る事も出来ないので、前頭葉辺りにヌスビトハギのようにこびり付く、なんとも居心地の悪い種を無視する事が出来ない。このままではメランコリーに陥ってしまうような気がして、僕は急いで思考を止め、人間観察をする。

 その時、数メートル先のボックス席から、警報装置が作動したのかと勘違いしてしまう程けたたましい赤ん坊と思しき泣き声が、車内に響き渡った。

「はいはい、ごめんね。お母さんが悪かったよ……だから、ね……」

 か弱そうな女性の声が、続いて車内にゆっくりと通る。泣き声のヌシの母親だろうか。

 しかし、何時もなら少々気が立ってしまいそうな赤ん坊の泣き声だが、今だけはカナリアが囀るような心地よさを感じた。微温湯に浸かるような、こんな時間が永遠に続けばいいのにとも思える時間。

「ごめんね……ごめんね……何が欲しかったのかな……」

「おんなじの、おんなじの!」

 母親の優し気な問いかけに、赤ん坊は降伏寸前のヒトラー宜しく濁声で怒鳴った。人が多すぎて顔こそ見えないが、母親は何とも困り果てた顔をしていたのだろうなと、僕は妄想した。

 そんな喧騒の中に浸っていると、電車は次の駅に到着し、ドアが開いた。

「ごめんね……ここで降りるから……ついてきてくれたら、あげるからね……」

赤ん坊の泣き声と母親の声は、返ってこないヤマビコのように遠ざかっていく。

「おんなじの、おんなじの!」

 ただ只管に平等を求める赤ん坊……なるほど、赤ん坊だけに思想も赤いのか。

最後までそんな言葉を連呼しながら遠ざかっていく赤ん坊を耳で捉え、僕は内心笑いを堪えるのに必死だった。こんな緊迫した面持ちをしていなければ、絶対に吹き出していた自信がある。顔も名前も知らないが、あの赤ん坊が大きくなった時、僕の気を紛らわしてくれたお礼をしたいなと、心の底で誓った。

目的であった弁天町駅に着くと、僕は人の流れに乗るように電車から降りた。通勤に勤しむ並々ならぬ人々の群れに恐れを抱きながらも、駅前の改札を出て、僕は証明写真機の前で仁王立ちする事に成功する。この頃には、車内で気が紛れたお陰でいつの間にか彼女の例の件は、些末な事として心の隅っこで処理されていた。

それから間も無くして、彼女は改札から現れた。そして、僕の心の些末な事は、再び呑気に笑えないほど重大な事態へと変わってしまった。

 まず、女の子が上に着ていたライトイエローのシースルートップスは、僕が2ヵ月前、彼女の誕生日にプレゼントしたものと非常に酷似……というか、恐らく同じものだった。腕の辺りに解り易くフリフリが付いているのが特徴的で、百貨店売り場の叔母ちゃんに全てを一任した結果、産まれたプレゼントがこれだった。

 そして、極めつけは現代らしくない、黒を基調とした花柄のスカートだった。ヴィンテージというよりは、大正辺りのレトロティックな雰囲気を醸し出している、現代では中々お目に係る事の無さそうなデザイン。

 先ほどの文章を繰り返して使うのが妥当な表現なんじゃないか、と思えた程、彼女の服装は例の写真と酷似していた。

「お待たせ、待ったかな」

 彼女が30秒前に放ったそんな些細な質問にすら、僕は気付いていなかった。ただ、彼女の服装だけに、目にボンドを塗られたかの如く釘付けになっていた。

「……大丈夫、かな」

 彼女が再び僕に問いかけたところで、やっと僕は彼女の口から声が共鳴していたことに気付いた。それほどまでに、僕に付いている足りない頭のほぼ全てを占領されていた。

 今日僕たちが訪れたのは、最近できた温泉テーマパークだった。江戸の街並みを再現した風情が創作された空間は、全員が全員着物を着る事を強制されるせいで、現代人らしい性格の人間ばかり出てくる奇妙な時代小説のような雰囲気を醸し出している。

 勿論、我々も御多分に漏れず人混みに染まる為、男女別の更衣室に分かれて着替える。男性用は紺色を基調とした薄っぺらく、通気性の良い生地で出来たモノが設えられており、3000円で入れる施設にしては高級感が漂ってるなと感心する。

 更衣室を見回すと、その殆どがカップルで来ていると思しき鼻筋が綺麗に通った男性ばかりで、スーパー銭湯のように温浴目的で来場しているおっさんは見当たらなかった。そして、その誰もが着物を纏ったカノジョを見る事を楽しみにしているのか、多幸感に包まれている事が隠しきれていない面持ちをしていた。そんな空気感の中で、灰色のオーラを放っていたのは勿論僕だけで、アパルトヘイト下の黒人宜しく居心地の悪さに耐え切れなくなり、僕は急いで更衣室から出ていった。

 しかし、一寸先は光なんて事も無く――明るい場所、という意味で合ってはいるが――ただ、更衣室よりは多少緩和されていたので、なんとか呼吸程度は継続出来るような環境だった。

 そんな守りだとか、耐久に徹していると、何時の間にか彼女が目の前で不思議そうに僕を眺めていた。

 大和撫子という言葉が似合う程、和風に奇麗な顔立ちをしている彼女に着物が似合わない訳が無く、いつものクールさと、明るい青色がベースになった水玉柄の着物によって化学反応が起こされ、良い意味で強烈な存在感を放っていた。また、長い袖口からチラリと見え隠れする、毛の一つもなく、くびれにハッキリと線が通った腋が視界に入る度、僕の劣情をどうしようもなく刺激する。

 ……と、普段の卑しさと厭らしさが全開の僕なら思っていたような気がする。しかしながら、今日はどれだけそんな腋を覗き見してみても、どれだけ彼女のたわわに膨らんだ胸を眺めてみても、僕の陰茎はこれっぽっちも反応する素振りを見せなかった。

 彼女が縁日で金魚をすくっているときも、隣で気持ちよさそうに岩盤浴に浸っていた時も、僕はそんな彼女を眺めるフリをしながら、あの服装について要らぬ事を想像し、そしてまた外には見えないよう千々に乱れ続けた。しかしながら、それならそんなモヤモヤをさっさと解消してしまえば楽になれるんじゃないか、どうせあれは別人で、彼女がそんな事するはずないし……と幾ら考えてみても逡巡してしまい、結局は振り出しに戻るだけの、なんとも効率の悪い時間を過ごした。

 しかし、そんな苦汁を舐めるかのような時間に終止符を打ったのは、僕ではなく彼女からだった。

 京へ上る街道の川べりで休む川床をイメージした(と看板に書いてあった)、ホットフロアブースに二人で寝そべりのんびりしていた時――僕の心は穏やかでは無かったが――彼女は唐突に口を開いた。

「今日のキミ、なーんか心此処に在らずって感じよね。なんかあったの」

「いや……」神経反射で僕は彼女に返答した。「そんなに僕って今日ぼーっとしとる?」

「えぇ。その証拠に、何時もなら飛んでくるキレのあるボケを、今日は一回も聞いてないもん」

 彼女はマザーテレサ宜しく心配するような優しい目つきを俺に見せる。

「まぁ、大丈夫や。健康面は問題ない」

「んじゃあ、精神面が良くないんやね」彼女は要らぬ邪推を働かせてくる。

「俺はまだなんも言うてないやろ」

「ほら、否定しないって事はそういう事じゃん」

 彼女が本心から憂慮する心が見え隠れするから、余計に情けない気持ちになる。雰囲気酔いして胃液が戻されてきそうだ。

「しかし、こげつな事をアナタに相談すんのは……いやはや……」

「ねぇ、付き合う時に約束したやん。お互い、悩んどう事とか嫌な事、辛い事は隠さずに行こうって」

「それはそやけど、しかし……」

「アタシの事を信用してよ。浮気したとかホストになりたいとか以外なら、並大抵の事は受け入れる覚悟はできてるよ」

 彼女は無邪気に俺を受け入れようとしてくれる。しかし、今の僕には、そんな一途さすらも彼女の仮初めの姿にしか見えなかった。でも、ここまで言われて黙って置くことも出来そうに無かった。

「ホンマに……ええんか」

「いいよ」

「んじゃあさ、この画像、見てくれへんかな……」

 そういって、俺は保存しておいた画像を表示させ、彼女の方へと差し出す。彼女の瞳に映し出された光景は、行き道でへじゃぷ……じゃなかった、デジャヴを感じたものそのものだった。そして、画面の明るさが自動調整で暗くなっていったのだろうか、そんな瞳は次第に色を無くし、灰色に近い茶色になったところで、彼女はようやく口を開く。

「これは……何かな」

「僕の友達が、キミによう似た人を裏難波で見たらしくてな……。服装も今日のキミとよう似とうから、もしかしたらキミなんやないか、と思って……ごめん、今日はそれがずっと気掛かりで……」

 そう、今年に入って一番覇気の無い声で全力の言い訳を投じると、彼女は室内に唯一取り付けられた窓から、赤い空の方を向いて笑いかけた。

「まさか、私なわけないやん。第一、なんでこんなキモいおっさんと一緒にラブホ街をあるかなあかんのさ。罰ゲーム?」

 僕はこの時、彼女がそう言ってくれた事に安堵の溜息を吐いた。室温の影響も相まって、僕の唾液が多少孕んでいるその溜息は白く濁った。そんな気持ちの悪い吐息を吐いた僕という人間自身に、僕は強烈な違和感を抱いた。

 そして、人の勘というものは、嫌なモノだけが当たってしまうのだ。

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