途中下車
水野 七緒
途中下車
スイカ、角海老、ソープランド。
隣に座っていた彼女が、窓のむこうの看板を読みあげる。
おそらく深い意味はない。目についたものを片っ端から口にするのは、彼女のクセのようなものだ。
そういえば初対面のときもそうだった。今日とは違い、ひどく混雑していた車内。ぎゅうぎゅうに押しつぶされて息が詰まりそうになっているなか、彼女の淡々とした声が聞こえてきたのだ。
「疑惑の2時間、3回1000円、天空に限りなく近いラグジュアリーな空間」
え、なに言ってるの、この子。
その答えは、一緒に新宿駅を下車した際に判明した。週刊誌、エステ、不動産屋のマンションポエム──すべて車内広告の文言だ。
それらは今日も車内を彩っているけれど、彼女の目はまっすぐ車窓に向けられている。僕も似たようなふりをしながら、それでいて本当は少しだけちらちらと彼女のとがったあごを盗み見ていた。
だって、この横顔を見られるのも今日が最後だ。
僕たちは、僕たちが出会ったこの埼京線で今日さよならをする。
「あのね」
彼女はうつろな目で呟いた。
「今だから言うけど、あなたがケンタッキーでチキンを食べ終わったあと必ず指先を舐めるの、ほんと無理だった」
……なんだ、それ。
ほんと今さらすぎないか。
「だったら僕も言わせてもらうけど」
赤羽の駅ナカのパスタ屋でナポリタンを頼むとき、必ずピーマンとたまねぎを抜いてもらう君のこと、最後まで理解できなかった。ほんと、マジで。
「どうして? 残すより最初から抜いてもらうほうがいいでしょう?」
「でも、そのふたつを抜いたらただのケチャップ炒めパスタだ」
「そんなことない。ベーコンとマッシュルームが残ってる」
そう、僕たちは決して気のあう恋人同士ではなかった。互いに好きになれないところなど、数えきれないほどあったはずだ。
そんな思いが、彼女にも伝わったのか。
「どうしてかな」
「うん?」
「どうして私たち、3年も付き合えたんだろう」
「さあ、運命のお相手だからとか?」
実は前世の僕たちも恋人同士で、でもなんらかの事情で悲しい別れを経験してしまって、それを不憫に思った神様が現世で僕たちをくっつけてくれたとか?
「まあ、付き合えたのは、たったの3年5ヶ月と16日だったわけだけど」
わざとおどけて肩をすくめてみせると、彼女はようやくこちらを見た。
「無理」
「なにが」
「いろいろと。無理すぎる」
電車がぐらりと大きく揺れ、足元から何かがこすれる音がした。おそらく、ずっと踏んづけていた座席下のレジ袋が床を滑りそうになったのだろう。
「じゃあ、マジレスするけど」
レジ袋を踏んづけなおして、コーヒー飴のような彼女の目を覗きこむ。
「初めて手をつないだとき、しっくりきたから」
あれは忘れもしない5月のよく晴れた日。彼女と初めてデートをした僕は、20分以上無駄に右手を揺らした末に彼女の指に自分の指を絡めたのだ。
「あのときいけるって思った。きっとずっと……付き合っていけるって」
「ふーん」
彼女は感情のこもらない声を洩らしたあと、細い右手を差しだしてきた。
「え、なに?」
「つなぐかなって」
「最後なのに?」
「最後だから。もうすぐ新宿だし」
窓の向こう、山手線の高田馬場駅のホームがあっという間に流れていく。たしかに新宿駅到着まであと2分あるかないかだ。
はい、と改めて手を差しだされて、僕は恐る恐る指を絡めた。
形のいい関節と少し湿った細い指が、僕の指に寄り添った。
ああ、これだ。このしっくりくる感じに、3年5ヶ月と16日前の僕は心を動かされたのだ。
これまでのいろいろな思い出がよみがえる。出会い、再会、はじめて泊まった日、デートした店、お気に入りの商店街。
「やめようか」
こみあげてきた感傷が、僕の声帯を震わせた。
「やめようか、このまま」
途中下車しないでずっと終点まで揺られていこうか。
けれども、彼女の目はもう僕を捕らえない。
「やめるって何を?」
「何って……」
「やめても変わらないよ。私たちは絶対幸せになれない」
だって逆らえない。
出会いが決められた運命なら、別れもまた同様のはずだ。
「だから無理。それに」
彼女はぼそりと付け加えた。
「この電車、終点新宿」
そうだ、そうだった。僕らは敢えて新宿行きを選んで乗ったのだった。新木場行きだと心変わりして途中下車しないかも、と彼女が言ったから。
「エスパス、ガスト、サムギョプサル」
決して長いとはいえない旅が、もうすぐ終わろうとしていた。
「今までありがとう」
「ありがとう」
「さよなら」
「さよなら」
「好きだよ」
組んだままの指に、力がこめられた気がした。
「好きだよ」
わずかに揺れた声を耳奥に刻みつけて、僕はスマホを手にとった。
空いている右手で、予定どおりコマンドを実行させるために。
──速報・埼京線が一時運転見合わせ。
車内で不審物爆発、男女2名死亡、自爆テロか?
ああ、すごい。まだ意識が残っている。
轟音、悲鳴、君の笑顔──
途中下車 水野 七緒 @a_mizuno
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます