第五話 _ 蹉躓

 パラパラと、白い欠片が廊下に落ちる。勿論、目の前にある壁の欠片だ。その壁には大きなヒビが入っていて、言い逃れも出来ない証拠がこの『手』に残っていた。

「あ…あぁ…やっちゃった…」

 自分のものとは思えない、か細く震えた声でそう零す。

 焦りを通り越したよく分からない感情に囚われている私は、ただ、引き攣らせた笑みを顔に貼り付けていた。

「あ…あの…緋愛さん、その…離れてもらえると…とても嬉しいです」

 私の肩に顔を埋める優斗は、顔を真っ赤にしたまま私を見つめていた。

「いや優斗が離れてよ!?」

「動けないんだよ拘束されててぇ…」

 拘束か。確かにこれは拘束なのかもしれない。

 とりあえず頭の中で整理しよう。これがどういう状況なのか、どうしてこうなったのか。

 最初は…なんだっけ。優斗が重い荷物を…そうだ、先生に頼まれてプリントを大量に運ばされてたんだっけ。

 元から体力のない優斗の腕にはもう限界が来てて、通りがかった私にそれを託そうとしてきた。

 で、受け取ろうとした時に優斗がバランスを崩してそのまま私に抱きつくような形で倒れてきて…わりと勢いよく、私の胸に顔を埋めてしまったのだ。

 恥ずかしがった私は案の定突き飛ばし…そうになった。その突き飛ばそうとした手の行き先を咄嗟に上に移動させると、今度は私がバランスを崩して前に倒れた。

 そりゃあ突き飛ばす勢いだった手を壁に付けたんなら、穴が空くのも当然だろう。私の手…というか腕は壁に埋まり、その体勢のまま、優斗と私は動けなくなってしまった。

「ど、どうしよう…抜けないんだけど」

「いつもの怪力で踏ん張れば抜けるんじゃないかな…」

「いやそうじゃなくて、今抜いたら壁が崩れて優斗が押しつぶされちゃうんだよ」

「ひぇっ…」

 優斗は私の返答を聞いて顔を青ざめさせ、とんでもなく情けない声を出した。

 こんな会話交わしてられる状況じゃないのは分かってる。さっき優斗に言った通り、今抜いたら優斗が壁で押しつぶされる。けどこんな状態を誰かに見られたらそれはそれでマズい。変な勘違いされそうで怖い。

「…しょうがないか、抜くしかないね」

「え!?僕死んじゃわない!?」

「死なないよ、私が守るから」

 あ。私、今、結構キザなセリフ言ったな。

 なんて余計なことを考えながら、壁に片足をついて下半身を固定し、腕を引っ張る。

「…よい、しょ!」

 声を出して踏ん張り、数秒で腕を抜くことに成功した。

 その穴からまたヒビが大きくなり、ビキビキと音を立てて壁が崩れ始める。

 間に合うなら優斗を抱えて逃げようと思ってたけど、さすがに無理かもしれないな。

「いやぁあぁ怖い怖い怖い…」

 小動物のように小刻みに震えながら弱々しい声で述べる優斗に「弱虫」と言ってみると、「ごめんなさい…」と謝られた。これは相当怖がってるな。

「大丈夫だって、私が守るって言ったでしょ」

 ガラガラと崩れていく壁を手でおさえ、「今の内に」と言って優斗を離れさせる。

「うぁぁ…ありがとう緋愛…」

 涙目になりながら離れていく優斗にもう一度弱虫と言いたくなったが、さすがに可哀想なのでやめておいた。

よかった。誰にも見られなかったし、優斗にも怪我はないみたいだ。

 安堵の息をつきながら、壁を押えていた手をぱっと離す。


 そう、離してしまったのだ。


「緋愛…それはさすがに、無理があるんじゃ…」

 困惑しきった優斗の声色を聞き、手を離した壁を見上げる。

 その瓦礫の山は、私の眼前に、迫ってきていた。


 あぁ、確かに。優斗の言う通り、これはさすがに無理があるな。


 いつもより鈍い思考回路に気を取られたまま、私は多分、意識を失った。

 黒く、深く、鋭い痛みを伴って。


         *


 僕に出来る事は、何一つ無かった。

 緋愛は僕を守ってくれたのに。助けてくれたのに。

 きっと今、僕の中にある感情は、悲しいとか、悔しいとか、そんな生温い物じゃない。

 もしかしてもう、感情なんて無いんじゃないだろうか。そうだったら良いのに、と心から思う。

 あぁ、でも、緋愛を想う気持ちくらいは、残っていて欲しいかな。

 そんなくだらない事を考えながら、緋愛が埋もれた瓦礫を前に、膝から崩れ落ちる。

「ごめん…ごめんね、緋愛…」

 その言葉と、涙しか、出てこない。

 何も出来なかった。

 ただ固まって、瓦礫に押しつぶされる緋愛を見ていることしか、出来なかった。

 情けない泣き声をあげ続けていると、ガラ、と小さい音が聞こえてきた。瓦礫の山からだ。

 何事か、と俯いていた顔を上げると、


 涙で滲んだ視界に、何か黒いものが映った。


「…え?」

 僕がそう零した直後、その瓦礫の山は一瞬で砕け散り、その中からは見慣れた緋愛の姿が現れた。

 …違う。緋愛じゃない。

 いや確かに、見た目は、外見は、紛れもない緋愛だ。

 だけど、その顔に貼り付けられた不気味で不愉快な笑顔は、とても緋愛の物のようには見えなかった。

 突然の出来事に頭がついてこない。その汚い笑みに悪寒を感じ、思わず立ち上がって後ずさる。

「…誰?」

 ただの疑問。それだけを問いかけた。

「だレだトオもウ?」

 声帯を捻じ曲げたのかと思うほどの、聞き覚えもない声色。それでも、緋愛の声ではあった。

 得体の知れない黒い『なにか』を纏う緋愛は、じりじりと詰め寄るように僕に近づいてくる。

 その不気味な笑顔が間近に来たところで、僕はやっと理解した。


 こいつは、僕を、殺そうとしている。


「ひっ…ぃ、嫌だ、来ないで…」

 枯らしたはずの涙が、またボロボロと零れ落ちていく。

「なンで?楽ニしテアゲたイだケナのに」

 緋愛の手が僕の首筋を這う。

「友達が死ンで、悲シイんデしョ?」

「か、悲しいよ…悲しいけど…」

 なにが『悲しい』だ。さっき僕は『悲しいとか生温いものじゃない』とか言ってたじゃないか。

 恐怖が目の前に来ると頭が回らなくなるのは、僕にとってはよくある事だ。いつもいつも、『怖い』と思った時点で思考回路が止まってしまう。

 もう、抵抗しようとも思えない。本当は僕、死にたいとか考えてるのかな。

 気がついた時には、既に僕は首を締め上げられていた。

「言イ残しタこトハ?」

 相変わらずの捻じ曲がった声。その喋り方、やめてほしいな。

 言い残したことなんて、聞く気ないでしょ。苦しくて喋れないもん。

 でも…そうだな。言いたいこと、ではないかもしれないけど、


 あの子に伝えたいことがあるんだ。




『ごめんね、緋愛。…大好きだよ』




 結局それは言えないまま、僕は多分、首を握り潰された。

 痛みも伴わず、消えるように、


 ただ、あの子の事だけを、想ったまま。

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