第三話 _ 韜晦

 緋愛と初めて出会った日から、一週間が経った。

 雨雲ではない灰色の雲が空を覆い、とてもお弁当を優雅に食べられるような天気ではない。

 それでも僕は、屋上で昼休みを過ごしていた。

「…まだかな」

 待ち遠しくて、そんな言葉と共にため息が零れる。

 すると、背後で勢いよくドアが開かれた。そのガチャン!という大きな音に、肩が跳ね上がる。

「お待たせ〜!遅れてごめんね、購買すごい混んでて…」

 パンが入っている袋を持った緋愛が、困ったような笑顔を浮かべながら僕の方へ走ってきた。

 緋愛は今日、お弁当を持ってくるのを忘れたらしく、購買でパンを買う事になっていたのだ。

「混んでたとしても遅すぎるよ」

 僕も緋愛と同じような笑顔を浮かべながら言い、その後直ぐに「ねえ」と切り出す。

「ん、何?」

 不思議そうな顔をしながら、緋愛は僕の隣に座った。

「僕、知ってるよ。クラスの男子に呼び出されてたんでしょ」

「………え!?なんで知ってるの!?」

 1度間を開けてから、否定はせずに驚かれる。そりゃあそうか、僕には何も言ってなかったんだから驚くのも無理はない。

「いやさっき、珍しく誰かと喋ってたし…そういう事かなって」

「えぇ…それだけで分かるの…?」

 未だ驚きながら、そう聞かれる。

 それに答えるより先に、僕から質問返しをした。

「告白、されたんだよね?」

「それも分かるの!?」

 大声を出して驚き続ける緋愛に、黙って頷く。

 前からなんとなく思ってたけど、この子分かりやすいな。特に焦っている時は、態度に直ぐに出ちゃってる。

「なんて返した?」

「んぇ?」

 次々と出てくる僕の質問に、緋愛は間抜けな声を出す。

 告白に対してどう答えたか、と聞いたつもりだったけど、今の言い方じゃ伝わらなかったのかもしれない。

「…断るに決まってるでしょ、なんでそんなに気になるの?」

 少し考えると質問の意図に気づいたらしく、平然とした顔でそう答えられた。

 その答えに、言い方に、一安心する。

「だよね!」

 安堵の息を付いては満面の笑みを緋愛に向け、弾んだ声でそう言った。

 なんでそんなに気になるのか、という質問には答えなかったが、緋愛は僕の様子を見て「当然でしょ」と微笑み、それ以上は何も聞かれなかった。

「何買ったの?」

「焼きそばパンとあんぱん。優斗も食べる?」

 袋から2つのパンを取り出して、差し出すような仕草をしながら言われる。

 あぁそうだ、この子は普通にこういう事を言うんだった。年頃の女の子だというのに、自分から間接キスをしに来るなんて、聞いたことも見たこともない。

「うん、食べる」

 短い間悩んだ末に、僕の口は勝手にそう答えた。

 …何でだ。何で頷いたんだ僕は。女子と間接キスをするのが夢だった?そんな訳が無い、元々異性とコミュニケーションを取るのは苦手なんだ。

 なのになんで、緋愛とは普通に喋り合えて、普通に笑い合えるんだろう。

 答えは簡単な事だった。それでも、認めたくなかった。

「はい、お先にどうぞ」

 緋愛にそう言われ、悶々としていた僕は我に返った。

「あぁ、ありがとう」

 差し出された焼きそばパンを受け取りつつ、何処か違和感を覚えた。

 何故、緋愛は迷うことなく、あんぱんではなくて焼きそばパンを渡してきたんだろうか。そりゃあ僕はあんぱんよりも焼きそばパンが好きだけど、そんな事は話した覚えがない。

 前々から思っていたのだが、緋愛は僕の好みを把握しているのかもしれない。何でかは分からないけど、僕が嫌う行為はしないし、苦手な食べ物を渡してきたりもしないのだ。

 じゃあ、僕の好みを知っているということは、いつもの仕草や態度は計算内なのだろうか。そうだとしたらなんか…悔しい。悔しすぎる。それに一々ときめいている僕を殴りたい。

「…どうしたの?焼きそばパン嫌いだった?」

「え?あ、いや、好き!大好きだよありがとう!」

 心配そうに言われるものだから、大声で返してしまう。変なことを考えていたからなのもあるけれど、元はと言えば緋愛が焼きそばパンを渡してきたからじゃないか。いや責任転嫁するのは良くないけど。

「…なら良いけど。」

 何処と無く怪訝な顔をした後、緋愛はあんぱんを齧っては「あ、美味しい」と言って口元を緩ませた。そしてその笑顔に、また静かに胸が高鳴る。

 あぁ、もうダメだ。この子には勝てない。

 そう思った僕は、考える事を放棄して、緋愛から貰った焼きそばパンを食べ始めた。


          *


 夏の日の暑さは、蝉の声が鳴り響くことで倍増していく。

 ミンミンミンミンと、飽きずによく鳴いていられるな。本当に五月蝿い。そんなに全力で鳴かなくったっていいじゃないか。

 そういえばニュースの気象情報で、熱中症に気をつけろとか何とか言ってたっけ。ぼんやりとしか思い出せないが、そんな感じだった気がする。暑さのせいで頭が回っていないみたいだ。

 緋愛は最近よく「なんか夜眠れない」なんてぼやいてたけど、大丈夫かな。熱中症の原因の中には、睡眠不足もあるとか聞いたことがある。心配だな。

 そんな事を考えながら、通学路をヨロヨロと歩いていく。

 と、後ろから誰かの悲鳴が聞こえてきた。

 異常なまでの声色に、咄嗟に振り返る。

 悲鳴を上げたであろう女の子は、2つの建物の間にある隙間を見たまま尻もちをついていた。

 そして、その目線の先にある『人』の名前を口にした。


「…ひめ、ちゃん…?」


 女の子の震えた声で放たれたその名前は、ありふれた名前だった。

 『陽芽ひめ』とか『一愛ひめ』とか『氷女ひめ』とか、きっとそんな、何処ででも聞くような、そんな名前。

 だけど、僕の頭は、それを『緋愛ひめ』と読んでしまった。

 竦む足を必死で動かし、そこに駆け寄って女の子の目線を追う。


僕の瞳に映ったのは、


道に倒れ、頭から赤い水溜りを作り、

動かなくなった緋愛の姿だった。

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