『カレーの屈辱』
N(えぬ)
屈辱に燃え上がる
ミズエは28才。ヨウイチは29才。交際を始めて三ヶ月ほどたつ。そうそう頻繁には会えないが、ミズエはヨウイチの清潔感のある見た目と礼儀正しい人柄を好ましいものと思っていた。だからそろそろ次のステップへ踏み出しても悪くない時期に差し掛かっていた。
「今度、夕食を食べに来ない?」
これはもちろん彼女の住むアパートの部屋で夕食をということだ。ミズエは彼に、自分の生活感を提示してみたいと考えていた。それに料理の腕には自信があった。そうすれば自ずと彼の『考え』も見て取れる気がした。
*
清潔さはもちろん、落ち着いたセンスの家具と色調にまとめられた彼女の部屋の香りがヨウイチにどんな印象を与えたかはわからないが、彼は始終気さくに話をした。だからミズエも陰りのない微笑みを浮かべていた。
ミズエが夕刻の部屋でヨウイチに初めて振る舞ったのは厚い肉料理でも、しゃれた魚料理でもなく、ワインも付いてこない。
ミズエが作ったのはありふれた市販のカレーライスだった。鍋の蓋を開ければ湯気が立ち上る。――それは彼女の試験だったのかもしれない。ヨウイチがカレー好きだということは知っていたし。
これが彼女の考える『家庭的風景』だったのかもしれない。この食事は、好意的に迎えられて話に花が咲き、いつも二人でする外食よりもお腹いっぱいに食べて「おいしかった」と言って終われると予想していたものだった。が、予想は外れた。
「辛さがもの足りないなぁ。僕はもっとスパイシーで鋭い辛さのカレーが好きなんだ。……残念だけど」
ヨウイチは、そう言いながらミズエの作ったカレーを二口食べたところで手を止めて、スプーンを皿の端にそっと置いてしまった。
ミズエは落胆した。どんなカレーが好きか彼に聞いて作らなかったことは確かだが、それは食べるのを中止するほど不出来なものとは思えなかった。カレーだから大外れはないという安易な考えが多少頭にあったことは確かだったが、それにしてもである。
ヨウイチはミズエの顔を真っ直ぐに見ながら言った。
「カレーだから、味の許容範囲が広く、受け入れやすく、いくら何でも、『食べられない』というほどマズくないはず。と思っているんだろう?……僕はカレーには人一倍うるさいんだ。だから、「これは!」という味のカレーでなければ食べないことにしている。君にはそのことを事前に説明しておくべきだった。それは僕の失態だ。謝りたいと思う」
いつも優しく礼儀正しいヨウイチの態度は、こういう時にはむしろ、その理路整然として融通の利かない態度が残酷で冷酷で、ミズエを表面的には傷つけないようにくふうして、意図的に内部からえぐるような方法に見えた。
「カレーに、そんな強い好みがあったなんて……一番大事なことを、黙っていたのね。酷い人だわ」
ミズエはヨウイチをなじった。初めて彼に苦言を呈した。けれど、正面切って彼の目を見据えてまでは言えなかった。せいぜい少し、彼の胸元辺りに目線をチラリと向けて言うのが精一杯だった。
「初めて君が振る舞ってくれた手料理がカレーライスになるなんて、思わなかったよ……」
ヨウイチは、さっきまでの、興奮した態度から一転して、まるで鍋底を焦がしてしまったカレーをしかたなく食べるような苦い顔になって、それ以上語ろうとしなかった。
ミズエも黙って、静寂の中の二人の前でゆらゆらとカレーライスがわずかに湯気を立てていた。
ミズエは彼に喜んでもらいたくて愛情込めてカレーを作った。だからこのカレーにはただならぬ思いがこもっていた。二人は互いの前にあるカレーライスを見つめていた。
そのとき、二人に見つめられていたカレー自身にも複雑な思いがあったに違いない。広く多くの人々に受け入れられ、当然のごとくに食べる前からその香りのみでも人の心を引きつけ虜にする。そうなることを運命付けられた自信がカレーにはあっただろう。それがカレーの誇り。
カレーとライス。それぞれが皿の上から立ち上げるふわりとした湯気は、
――戻れるものなら、鍋に戻りたい。とそんな気持ちであったかもしれないカレーに白飯が『まぁ、こんなこともあるさ』と気休めを言っているようにさえ見えた。
すると、ミズエの耳にカタカタと音が聞こえて来た。キッチンを振り返るとコンロの上に置いてあるカレーの鍋の蓋が湯気を噴いて持ち上がっていた。「コンロの火は消えているのに?」とミズエは一瞬たじろいだが、そのカレーの鍋は蓋どころが鍋そのものもカタカタと持ち上がって揺れ出した。
「カレーが怒っているわ」ミズエはカレーの鍋を見ながら静かにそう言った。
「えっ、どういうことだい?」
ミズエはハッとした顔で、
「ヨウイチさん、お願い、もう1度カレーライスを食べてちょうだい!」
ミズエはヨウイチに向き直って、そう告げると素早く椅子から立ち、新しい皿にライスを盛り、のたうつ鍋の蓋を取って湯気を立ち上げるカレーをオタマで一掬い皿に盛った。
ヨウイチは不思議そうな顔をしながらミズエの気持ちを汲んで今一度スプーンを取り、新たに出されたカレーライスを一匙、口に運んだ。瞬間目を剥いてミズエを見た。
「どうしたんだいこれは?さっきと違う……イイ辛さだ。素晴らしくおいしくなってるよ!なんてことだっ!?」
彼は次々口にスプーンを運び止まらなくなり、一気に一皿を平らげた。
そうなのだ。自分を残されたカレーは、その屈辱に燃え上がり、よりスパイシーに辛さを増していたのだ!
*
このカレーは不思議なことに、食べるとき「辛さ、もっと!もっと!」と言うと辛さが増して、好みの辛さにすることが出来た。
のちにこのミズエのカレーは、「このカレーを世界に広めたい」というヨウイチによって製品化され、『熱血カレー』という名のカレールウとして、あるいはレトルトカレーとして、多くの人々に愛されたという。
そのパッケージには、常に熱く語る元スポーツ選手の写真が使われ、
「そんな辛さじゃダメなんだよ!」というコピーが書かれている。
おわり
『カレーの屈辱』 N(えぬ) @enu2020
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